32.永遠の眼差し
「シモーネ様、この本はお読みになりました?」
そう尋ねてくる笑顔はいつも眩しかった。ミモザに一滴ミルクを加えたような色の瞳が爛々と輝いている。彼女は友人の妹だ。
学生時代、よく喋るお節介な友人ができた。最初は自分と合わないと思い込んでいたが、彼と話すとなぜか心のつっかえが取れるような気がしたのだ。
そして彼は休暇の際に領地に滞在するように誘ってくれた。
「兄貴は忙しいから多分会えないと思うけど、妹たちは紹介するな。」
と言われ、想像したのは彼よりもよく喋る溌剌とした少女であった。
しかし実際は
「初めまして。ステラ・デ・コルサーノです。」
そう挨拶する彼女に私は既に見惚れていたのだ。
アイスグリーンの髪は爽やかにまとめられていた。清楚なドレスを身に纏い、美しい場所にしか住んでいない妖精のような雰囲気を醸し出していたのだ。
「綺麗だろ?」
と彼が言ったので
「あぁ。本当に。」
そう答える。
「そうなんだよ。末っ子はもうあんな歳で求婚されたりするものだから――」
と言う。
どうやら一般的に美人と言われるのは彼女の隣にいた妹の方であったようだ。
「いいや、お姉さんの方だ。」
私はすぐに訂正していた。
こんなことを言うと彼に揶揄われることなんて見えていたのに。
しかし
「ふーん。」
彼の反応はそれだけであった。
彼女と私は友人として親交を深めていった。ある日彼女にこう告白されたのだ。
「過ぎた願いだと分かっていてもお母様のように領地を治めたいと思っています。恥ずかしいですね。」
と。
それは次男の自分には絶対に叶えられない夢だった。そう話す彼女があまりにも美しく、私は自分の気持ちに封をした。
しかし――文官になったは良いものの、国の状況は悪くなる一方であった。とても言葉で形容することができない状態の王城へ一人の貴族女性がやって来た。
その顔に見覚えがあった。硬い床に倒れ込んでしまいそうな彼女を抱き止めると、ステラ・デ・コルサーノ、彼女だった。風の噂で既に彼女が結婚していたことは知っていた。
衰弱して行く中でも領地の民のことを気遣う姿を見て心を痛めた。しかし、彼女はコルサーノ領で一緒に過ごした私のことを忘れてしまっているようだった。
幸せに暮らしているのであればそれで良かったというのに、運命は彼女に対して酷い仕打ちをした。
その後、調査で判明したのは彼女が婚家で常習的に虐待を受けていたことだった。それに加え、夫は城でフィリア・トネットと関わりを持った後に賭博や異性関係に溺れていたこと、その資金源として税収を横領していたこと。
そしてとうとう民の一揆が起き、家族は残りの金品を持って逃げたのだ。彼女には幸せのかけらさえもなかった。
そのような状況に置かれてもなお、食糧庫は民のために開けられていた。彼女は命からがら抜け出し、一人で馬に乗って駆けて城まで来たというのだ。
そしてこう叫んでいた。
「領地の民を救ってください。このままでは多くの命が失われてしまいます。」
と。
最後の最後まで自らの命ではなく、民の命についてのみ考えていた。
誰にとっても尊かったはずで、自分にとって最も尊いものが失われた時に人は壊れるのではなかった。何かに夢中になるしかないようだ。
幾日も眠れない中、私は夢を見た。このことを王女であるヴェロニカ殿下に伝えに行きなさいというものであった。
彼女は少し前まではあまり政治に参加していなかった。しかし、婚約者の問題があってから国を再起するために努力をされているということを聞いていた。確かに伝える意義はある。
結果、自分に任されることになったのはあまりにも大き過ぎる責任であった。
確実に間違ってはいけない綱渡りの中、自分はこの国を救うために悪魔になることを決心するしかなかったのだ。
始まった二度目の人生は同じことが繰り返されるものであまりにも味気がなかった。
しかし――
「シモーネ様!」
彼女がそう呼んだ声が聞こえた。少しうたた寝をしてしまっていたようだ。
「寝ていらっしゃるのかしら……」
そうやって彼女が自分を見ていると思うと恥ずかしい。起きることができなくなってしまう。
「少し、少しだけ。」
突然自分の顔に触れるのであまりにも驚いてしまう。
一体何を考えているのだろうか、と困惑している間に唇を奪われてしまう。
それはたった一瞬のことであったはずであるのに永遠のように感じられた。このような出来事は一度目の人生にはなかったのだ。
「私ったら何をしてるんだろう。」
そう言って彼女は急いで去って行く。その間も心臓の高鳴りが収まることはなかった。
その時、一度目の人生で彼女のために封をしていた感情が再び戻ってきてしまったのだ。自分が彼女をこの腕の中で愛したい、と。
しかし、それには問題があった。
自分が文官になって最短で事件を解決できたとしても、彼女が先に結婚してしまう可能性が高かった。また、彼女の本当の幸せを願うのであれば、もっと良い縁談を見つけてくることが最も良い手段に違いなかった。
それでも自分の欲望は止まらなかった。決して良い行いではないと分かっていても、彼女に憎まれたとしても遠くからであったとしても、生きている姿を見ていたいと望んでしまった。
そして友人にそれとなく言うのだ。
「ステラさんの結婚相手は決まっていないのか?」
と。
そうすると彼は
「何だよ、気になるのか?」
そう嫌そうな言い方をした。
しかし、ある日こう話してきたのだ。
「まあ、俺に任せろよ。」
結局、彼はかなり強引な方法で私と彼女の縁談を作り上げることに成功したのである。
彼女がこの結婚の提案について疑心を抱いていたことも知っていた。もちろん、妹の求婚について悩んでいることも知っていた。
しかし自分がついに文官になり、手を汚している最中であったため彼女に憎まれても構わない。それが普通だと認識していたのだ。
そして事件は解決した――かのように思えたが、とても人間には不可能な方法でフィリア・トネットの報復はやってきた。
ステラは生来何か仕事をしていたい人物だと考えていた。それ故に彼女を城に招き入れてしまったのは間違いだったのだ。そう思い悩んでいたものの既に後戻りはできない状態だった。散々彼女を傷つけてしまい、この計画の脆弱さが露になってしまった。
それでも彼女を自分の闇の中で永遠に閉じ込めておきたいと願ってしまったのだ。その身体の温かさに触れるたび、愛おしく思っていた純真な輝きが変化していくのが分かっていても止めることができなかった。
しかし私の執着と言っても過言ではない感情によって何もかもが晒されても、彼女の中に真っ直ぐ通っている一本の芯は誰にも曲げることはできなかったのだ。
「貴方が救ってくれた命よりもずっと、貴方のことを大切だと私は今、感じていますから――」
その言葉で全てが救われたように感じた。
情けなく彼女の腕の中で涙を流していた自分は、まるであの日消えゆく彼女を目の前にしても泣けなかった自分の代わりに、やっと泣いてあげられているようだった。
結局彼女が真実を見つけ、受け止めたことによって全てが解決した。私だけではなく殿下を初めとした全ての人々が救われたのだ。
そんな中、ステラにどのような噂が立ったとしても気持ちが揺らぐことはなかったが、セルジョ様と出会った際は焦ったことを覚えている。
ヴェロニカ殿下が彼から距離を置いているものの、心は拒絶していないことは一目瞭然であった。なので、自分と殿下がどう見られているかということについては一切気にしたことがなかったのだ。
しかし、彼女があのような麗人に出会ったらどうなるのだろうと考えてしまう。結果、彼女は全てを俯瞰で見ていたのだ。
そのことに関して嫉妬に襲われたと同時に、そんな彼女の心を自分が動揺させているという事実に震えてしまった。彼女がもっと主観的に自分を見ることを暴力的にまで望んでいた。
それでもこのような時間は終わったのだ。彼女には休養が必要だ。屋敷の中でさえも完全な安らぎの場所ではなかったに違いない。
彼女の願いを叶えられるという殿下からの報告を聞いた日、そっと寝顔を見ながら
「ありがとうございます。」
とだけ囁いた。




