26.奇跡と決意
「ステラさん、ステラさん!」
シモーネが私を呼ぶ声が聞こえる。次の瞬間、大きく身体を揺さぶられたので目を開いた。
目の前には、すぐにでも泣き出しそうな顔をしたシモーネがいた。彼のその姿は今も変わらない。
「ありがとうございます。」
私はそう呟いた。
彼は
「どうされましたか?」
と言葉の意図が読み取れず困惑している。
微笑んで
「私の命を救ってくれて――。」
私はそう伝え、深い眠りの中に落ちていってしまった。驚きに満ちた彼の表情が暗闇に落ちていく。
知ってしまうと、もう元に戻ることはできないのだ。彼の甘い毒に麻痺している状態がどんなに幸せだったか。
目が覚めた次の瞬間、もしあの冷たい屋敷に戻っていたらどうしようなどと考えてしまうのだ。
しかしそこは暖かいベッドの上だった。隣にはシモーネが座っており、呼吸の音が聞こえる。
「お目覚めですか?」
と優しく尋ねられた。
「夜が深くなっていますが。夕食にされますか?湯浴みをされますか?」
続けて問いかけられる。
私はその言葉に甘え、どちらも用意してもらうことにした。
彼は湯浴みは済ませていたようだが、食事はしていなかったようだった。不摂生が習慣化しているに違いない。私がちゃんと見ていないといけない。
就寝の準備が終わり、私はベッドに横たわった。
彼は目の前を真っ直ぐ見ていた。何を考えているのだろうか。差し出された手は私の髪をただ撫でるだけだった。
「私の話を聞いていただけますか?」
そう部屋に漂う沈黙を破ったのは彼の方だった。
「……このようなものがあるとは私も知らなかったのです。」
と言って彼はナイトテーブルに置かれた手鏡を手に取った。興味深そうに眺めている。
「貴方が何も知ることはなく、ただ自由に幸せに生きていて欲しかった。私の欲のせいで――」
そう言葉を詰まらせる。手鏡を置いて咳払いをした。
「貴方が結婚してしまう前に、過去に起きた全てを阻止する必要がありました。」
彼は自身の手でそれをやってのけたのだ。
「しかし、それまでに解決しなかったのです。かえって貴方に負担をかけてしまうことになり申し訳ありませんでした。」
彼はそう静かに話した。
私の知っているシモーネ・デ・ピノンが唐突に帰ってきた。そう思ってくすりと笑ってしまう。
「そうですね。一体何から話せばいいのか。あまりにも非現実的な話ですから。」
と彼もつられたように笑う。
「まだ私も信じられません。」
そう伝えると
「そうですよね。」
と彼は目を細める。彼の雰囲気が少し和らいだ。
そして
「この話はどうかご内密に。」
そう話を続けるのだ。
「まず時戻りは私ではなくヴェロニカ殿下を中心に行われたことです。」
私はそれを聞いて納得した。
確かにシモーネは有能であるが、現在の地位まで登り詰める以前から殿下と親しげであることを不思議に思っていたのだ。
周囲はただならぬ関係であるのではないかと邪推していたが、殿下が誰を愛しているかというのはあまりにも明らかな事実だ。それを彼が知らないわけはない。
「フィリアによって貴族社会が破壊され、この国までもが崩壊の危機にありました。」
彼は淡々と語る。
私は思い出していた。あの悲しげな人々の姿を。
「それに心を痛めた殿下は、王族に代々伝わるとされる時戻しの神器に選ばれました。」
なんと非現実的な話であろうか。
「神器の存在は秘匿されています。なので、口外しないで欲しいということです。よろしくお願いします。」
と彼は伝えてくる。
私は次々と明かされる真実に着いて行けないままだ。
「殿下は私の人柄を買ってくださり、時戻しに関する使命を与えてくださいました。」
殿下が選ばれたのは運命だったが、彼は偶然による選択だったのだ。
「あの時あの場所に私がいなかったらと思うと、そうですね。私は後悔していません。あの頃の私がこのような罪を犯していないとしても、社会そのものが罪でしたから。」
私は
「どうしてこのようなことをしたのか。」
などと責めることはできない。実際に荒廃した世界を見てしまえば、そのようなことは決して言えないはずだ。
そして私のような貴族が冷たく萎れていくのを考えると、もっと多くの人々が犠牲になっていたのだ。言うまでもないだろう。
「幸い殿下と私は同い年です。なので、同時に生まれ直しという形で人生をやり直しました。」
彼は話した後に目尻を少し下げて
「既に知っている日常の中にいると突然孤独に襲われるものです。」
と吐露した。
「しかし再び生きている貴方に出会えることができました。本当にそれは幸いでした。貴方はあの小さな身体を横たえて息絶えてなんかいませんでした。」
呼吸を整え話は続いていく。
「生き生きと私の知っているその姿のままでした。馬に乗り勢い良く走り、私に読んだ本についてどう考えたかということを語ってくれるのです。」
そう話した声は震えていた。
「それでも、私には使命がありました。とても私には遂行する自信のない使命が。」
私は起きたこと全てを知っている彼しか知らない。しかし、私の死を見届けた彼が、どのように今よりもずっと幼く見えたかを知っている。
とても簡単に決断できることではない。
「直接存在を抹消することはできません。そして考えられたのが私が実際に実行した計画でした。」
その言い方はとても冷ややかだ。
「フィリアは頭が切れますが、享楽的です。しかしその分、警戒心が強いので彼女の弱みを完全に狙うことも危険でした。なので彼女にとって危険ではない人物として現れる必要がありました――」
彼はこれ以上話す必要はないと判断したのか、そこでフィリアについての話は終わった。
「無事に確実な証拠を掴むことができたため、彼女は捕縛されました。しかし段階が早かったため関係者への取り調べなどが終わっておりません。彼女の罪が明らかになっていても処罰できないままであるのです。確かにこれはとても大きな不安要素でした。」
唇を噛み締めている。
「信奉者を使って計画を再開させることも可能ですからね。」
と言う。
これは現在の彼女について最も警戒すべき点であろう。二度とあのようなことを引き起こしてはならない。
「それでも貴方を妻に迎えてしまった。そしてあのような恐ろしい場所に引き込んでしまった。」
彼は項垂れている。
「これも――そうです。貴方はこのようなことを望んでいないと言うのに。本来であればもっと良い人物を探すことなんてできたはずなんです。しかし私は、私は――」
声がくぐもり、さらに小さくなっていく。
「貴方が生きている姿をこの目で見ていたいと、見続けていたいと望んでしまった。」
いつだって彼の思いは私が受け止めるには大き過ぎるのだ。相応しいと思えない。
辛く悲しいものを全て背負ってきた貴方に私という人間がこんなにも思われても良いのかと問いかけてしまう。
「一つだけ、そう一つだけなんです。」
彼は顔を上げて本当に幸せそうに微笑んでいた。
「二回目の人生で唯一変化したことがありました。」
その声はとても嬉しそうに聞こえる。
「もっとたくさん勉強しようと思って気合いを入れて学生時代を過ごしていました。それでも得もいえぬ不安に襲われることがありました。しかし、そう。コルサーノ領で過ごさせていただいていた日々のことです。」
気のせいか私の肌がちりついた。それは――
「あの庭での貴方からの口付けは最初の人生には存在しなかった出来事なのです。それがどんなに私にとって、幸運のように思えたか。」
何度打ち明けられても慣れない。それは私の人生においても存在しなかったはずの出来事なのだから。
「……決して、それで、貴方に執着しているわけではないんですよ。」
と小さく呟く。
それがあまりにも愛おしく感じられた。私はもう耐えられなかった。
シモーネは私を見つめこう言った。
「貴方を愛しています。本当に最初に出会った時からずっと。」
と。
それは実際、彼から私に贈られた求婚以上に最もそれらしく感じられた。
「そして、貴方にそれを求めることは――」
「私も貴方を愛しています。」
彼の言葉を封じ込めた。口付けなどは必要なかった。それはきっと煙を巻くだけになってしまうから。
「貴方が救ってくれた命よりもずっと、貴方のことを大切だと私は今、感じていますから――」
私の胸に抱かれたままの彼はそのまま何も言うことはなく、黙っていた。




