25.世界の真実
その日は本当に大変だった。シモーネは収拾がつかないほど気力を失ってしまったのだ。
泣き腫らしたエフィジオ・ギアッチを見ただけでも動揺したと言うのに、自分の夫までそのようになってしまうとは思いもしなかった。
彼は調度品のように台車に乗せられ、その上から布をかけて隠し、馬車まで運ばれていった。あの彼が、だ。
実際、私の心の中は未だ騒がしいままであった。もちろん彼を完全に信用することは難しい。法はそのような曖昧なものに支配されていないからだ。
それでも私は彼を支持することにした。
彼が大切に抱えているその自尊心でさえ折り曲げ、私に告白した全てを信じている。そんな自分に関して恥ずかしいとは思わない。寧ろ、恥ずかしいのは私が彼の気持ちを理解してしまったことだ。
屋敷に到着した。湯浴みと夕食の準備をしてもらう。夕食は食堂ではなく寝室に持ってくるようにお願いした。
ロアはシモーネの様子を見るなり
「私がお連れします。」
そう言ったが
「私にもさせてもらえるかしら。」
と頼んだ。
彼と共にシモーネを寝室まで運ぶ。
部屋に到着するなり意識を取り戻したシモーネは
「申し訳ないです。」
と小さく呟いた。
用意してもらった夕食を私が手ずからシモーネに食べさせようとする。彼はその行動を拒否することはなかった。彼が羞恥を感じることよりも、自罰的に食事を摂らないことの方が心配だった。ちゃんと食事をしてくれたので安心する。
その後、湯浴みをしてきたシモーネは肌の色が随分と良くなっていた。ベッドの上に座っている彼の背中を甲斐甲斐しく撫でると、すぐに夢の中へと落ちていくのだ。私はあまりにもそれが辛かった。
このようなことは子供騙しだと思っていたが、存外嬉しいのだ。される側の身になってみるとぎこちないが、する側としては何でもできるような気がしてくる。
彼が私に与えた全ての優しさの意味が解かれていく。
私は随分と長い時間、よく眠ることができていなかった。しかし、今夜は穏やかに眠れるに違いない。私は彼の腕を抱いて眠る。今まで決して、そのようなことはしていなかったというのに。
・・・
「随分と幸せそうに見えますね?」
城の中。少し引き気味でそう言うのはセルジョ様であった。
それはそうだろう。このような渦中で微笑んでいるのはあまりにも気味が悪い。
「ごきげんよう。どうされましたか?」
と尋ねる。
少し微笑んだ彼は
「もしかしたらあなた方にはこれは必要ないのかもしれませんね。」
そう先日託していた手鏡を私に渡そうとする。
「何か分かりましたか?」
そう問いかけると
「えぇ、とてもよく分かりました。」
と彼は答えた。
しかし、その後に説明するような雰囲気が全くなく戸惑う。
「それで……」
そう私が尋ねると
「このようなことを言うと変に思われるかもしれませんが――」
と彼は話し始める。
「……この手鏡が教えてくれます。」
伝えられたのはただそれだけだった。
確かに彼は冗談も言う。しかし、無意味な言葉を場所や時を考えずに話すような人物ではない。だからこそとても不思議なのだ。
それが本当であるならどうやって?彼は何を理解したというのだろうか?
「私がステラさんと親交を深められた理由も分かりました。きっと貴方も分かると思います。」
これ以上説明するのは野暮であると言わんばかりに彼はそれだけを伝える。そして、その場をすぐに立ち去った。
いつも悩ましげな美しさを誇っている彼が、少し吹っ切れているように見えたのは気のせいだろうか。そのようなことを考え、城を後にした。
屋敷に戻ってドレッサーの椅子に座る。私は手渡された手鏡を眺めた。まるで最初から壊れてなどいなかったように元通りだ。
美しい林檎は大きな木に実っており、木には蔓が巻き付いている。それは柄の部分まで伸びていた。非常に絢爛であるが特に印象的であったり、意味ありげな装飾もない。
私は恐る恐る手鏡に自らの姿を映してみた。
すると私の姿が映された途端に形状が変貌した。――これは私が夢で見た私自身の姿だ。
それに気付いた瞬間、手鏡から出る強い光に照らされる。強い風が吹いて目の前を見ることができない。やっと地に足がついた感覚がするとそこは見覚えのある草原だった。
私は白いドレスを身に纏っていた。ドレスはふんわりと膨らみ、同じように袖にもボリュームがある。豪奢なデザインではあったが全体的に古風だ。
確かに結婚式の場で家門で代々受け継がれている伝統的なドレスを使用するのは珍しいことではない。しかし、そのまま使用することは少ない。それではあまりにも貧相に見えてしまうからだ。
また、客観的に見てもそのドレスは私には似合っていない。作り直しをしなかったに違いなかった。
私は不便そうに式場の方まで歩みを進める。その先に居たのは純朴そうな男性だ。私は彼と結婚するようだ。
ふと気付く、あの夢で私の手を取ったのはシモーネではなく彼だったのだ。一体この記憶は何を示しているというのだろうか。
空間に吸い込まれるように場面は変化する。あの冷え切った屋敷へと辿り着いた。しかし、季節はあの時のように冬ではなかった。空気は暖かく、部屋は整頓されており綺麗だ。
それでも私は夢と同じように床に跪いていた。叱咤されている。私を冷たく見つめる女性はあの男性の母親だと悟る。
私は虚ろな目でそれを受け止めていた。悲しむ暇もなく椅子に座って作業を再開する。
部屋にある時計が突然早く回り出した。時は経ち、秋がやってくる。男性は屋敷に帰ってきた。
しかし、再び外へ出て行こうとする。瞳は異常なほど充血しており、金目のものを探すためにあらゆる棚を漁っていた。次々と金品を袋に入れていく。
一体ここで何が起きているというのだろうか。結婚式の際の穏やかな姿は既にそこにはなかった。残されたのは火の灯されない屋敷だけであった。
やつれた顔で私が向かう先は見慣れた場所であった。王城だ。
人々は私の酷い姿、とても貴族とは思えない状態の私を見て怪訝な顔をしたり、見て見ぬ振りをする。
しかし、そんな彼らも現在の姿とは違い、豪華絢爛ではなかった。決して幸せそうだとは言えない。暗くて質素な服を身に着け、静かに話すだけだった。
一際大きな声が聞こえる先に向かうと――フィリアがいた。
先日出会った時とは比べ物にならないほどの大きな宝石を身に纏っている。それに加え、煌めく宝石がふんだんにドレスにも縫い付けられていた。しかし、彼女自身の輝きはそれらにさえも負けていなかった。
彼らは賭け事をしているようだった。彼女は変わらず美しい声を大きく鈴を転がすように響かせている。
その周りには甘くて鼻を貫くような匂いが漂う。人々は気怠そうに歩いていた。
フィリアの部屋に向かおうとするのは――セルジョ様だ。
それを廊下の陰から不安そうに見つめているのはヴェロニカ殿下であった。彼女は私が知っている姿よりもずっと繊細そうに見え、眩しいまでの強靭さが感じられない。
セルジョ様が話していたのはこのことなのだろうか。
再び城の玄関の方に引き戻される。目の前には今にも倒れそうな私がいる。
「どうか……どうか、お願いします。」
涙も声も枯れてしまっていた。
「陛下を呼んでください。それが難しければ――」
このままでは喉までも潰れてしまいそうだ。
「せめて領地の民を救ってください。このままでは多くの命が失われてしまいます。」
そう伝え、倒れそうになった私を抱きかかえたのは――シモーネだ。
「私のことはいいですから……」
そのような状態でなお、そう呟いた私の顔を見て彼は苦しそうな顔をしていた。
どうやら私は彼のことを覚えていないようだった。知らないような人物として接するにはあまりにも近しい関係だったと言うのに。
自分の直感でそう感じたものの理解できない感覚に襲われる。
彼は目の前の私を助けようと必死に走って行った。私は彼に着いて行き様子を覗き見た。しかし、水を一つ用意するにも苦労している。
この城には正常な状態で働けるような人物があまりにも少な過ぎた。皆が皆、正気を感じられない。
「もう少し、もう少しだけ頑張ってください。」
と彼は必死に私に呼びかけていた。なだらかな頬に大粒の涙を流して。
私はこの感覚を知っている。どうしてこのことを忘れてしまっていたのだろうか。これは実際に私の身にあった出来事なのだ。
やっと真実を知ることができた。痛いほどに感情が伝わってくるのだ。彼の表情から全て。
私を含めた全ての人々は、シモーネは、時を戻してやり直した時間を生きているということが真実なのだ。
この手鏡はその中心に彼がいるということを伝えたかったのだ。そしてこの手鏡は時戻りに関係しているということ。
もう決して疑うことはできないだろう。
彼は私の命を救うために私と結婚し、巨大な社会悪となってしまったフィリアを陥れるために彼女をも凌駕する悪魔になったのだ、ということを。




