21.贖罪の代替
朝、目覚めて最初に目に入ったのはシモーネ・デ・ピノンの顔だ。まだ彼はぐっすり眠っている。
こんな風に彼の顔を近距離でしっかりと見たのは、それこそ昨夜彼に指摘された実家の庭でのあの日以来だった。
眉の下に薄らと傷がある。てっきり幼い頃から勉学が好きで身体を動かすことが得意な方ではないと思っていた。それでも、彼は優秀な剣士である双子の兄妹と一緒に訓練をしてきたというのだからすごいものだ。
私が想像していたよりもやんちゃな子供だったのかもしれない。私はその傷を撫で、覆い被さっている前髪を避けた。
いくら私が長男との結婚を望んでいて、上昇志向で欲深い人間であるとしても。まさか悪魔に魂を売るほどの願いを抱くなんて。そのようなことが私の人生においてあるとは考えもしなかった。
しかし昨晩、私は間違いなく魂を売ってしまったのだ。いや、私は対価も得ずに捧げた。
確かある国の寓話によると、人の血を吸う蠱惑的な怪物が同胞を増やすために誘惑をすると聞いたことがある。惑わされた人間は自らの意思で彼らに血を捧げてしまうのだ。
自分では価値があるとも思えない躯体を与えた。彼に唆されたからではない。
「貴方は一体彼に何を与えられるの?」
と言い放ったフィリア・トネット、彼女からの挑戦を受けて立つようなものだ。
でも本当の気持ちは未だに見えなかった。ただ彼が私を利用するように、私も彼を利用してみる。そうすれば、この痛む心が安らぐことを期待しているのだ。
そんな迷いを朝の光に溶かして手を頬に添えた。彼があの頃と何も変わっていないように見えて変貌していたように、私も何か変化をしたのだろうか。
もうそのことについては怖くなかった。人間は気付かなくとも毎日少しずつ変化している。それを止めることはできない。
「ステラ、さん?」
彼は夢うつつのまま、目を上手く開けないのか睫毛をはためかせ、私に呼びかけた。
「さぁ、今日もお仕事ですよ。」
私はそう言ってシーツを持ち上げ、身体を起こす。
しかし彼の腕は私の腰に絡みついた。そして、再び甘い夢の中へと手繰り寄せようとするのだ。
「貴方もお疲れのはずでしょうからもう少し、もう少しだけ寝ましょう。」
それはただの二度寝へのお誘いだ。
「いつもこの時間には起きてるじゃないですか、ダメですよ。」
と私は無理にシーツを剥いでベッドから降りた。
私はクローゼットの中から簡単なドレスを出して身に着ける。再びシーツを自分の手元に引き戻した彼を起こそうとそれに手をかけようとすると――
「きゃっ!」
目の前に飛び込んできたのは普段よく見ている彼の背中だ。確かに先ほどの顔の傷と同じように古い傷もあるようだった。しかし、あまりにも新しい傷が多い。数が多いわけではないが、細かくて浅いものだ。
「こちら……どうなさったんですか?」
と尋ねてみる。
彼は急いで起き上がって
「本当に、知りたいですか?」
そう問いかけられた。
もちろん心配だった。こんな傷をつける人にはちゃんと一言ぐらい伝えるべきだろう。
「えぇ、気がかりですもの。」
と答えると
「では、私を抱きしめてみてください。」
そう言うではないか。
意味が分からず私は黙りこくってしまう。
腕を少し開いて待っていた彼は、その様子を見て
「していただけないと教えられませんね。」
と呟く。
その態度はどうも私を揶揄っているようには思えなかった。言葉通りに彼を抱きしめてみる。と言っても彼の方がずっと身体が大きいのだ。私が滑り込むような形になってしまう。
目を瞑っているせいか、彼の素肌の熱がより伝わってきて気恥ずかしい。子供に戻った気分だ。。
「ちゃんと見てください。」
肩越しにそう語りかけられて目を開けた。私の手は彼の背中に回っている。
「……分かりましたか?」
彼は小さく囁く。
私は尋ねたことを後悔した。私が本当に怒るべきなのは自分自身だったのだ。
「ご存知だったんですか?」
と恐る恐る聞いてみると、彼は具体的な回答を返さなかった。
ただ
「もし私が不貞を疑われたら、この背中を証拠として提出していただいても構いませんよ。」
それだけ言うのだ。笑い事ではない。
私は愛している人に対して自分の身に降りかかったあのようなことは強要できない。
だからシモーネ・デ・ピノンはヴェロニカ殿下が言ったように奇特というよりも奇妙であり、残酷なのだ。
急いで朝食と準備を済ませていつものように馬車で城に向かう。
馬車の中で
「それは新しいものですか?」
と彼は目を細めて私の姿を見た。
新しく注文したドレスを着用していたのだ。いつも着ているものより華やかで、首元も開いているデザインだった。
彼はそれ少しの間眺めた後に
「ネックレスが必要ですね。私が贈るのでお待ちください。」
そう言った。
そのようなことはしなくて大丈夫だと断りを入れる前に、彼は急いで執務室へと向かって行ってしまった。
ドレスのスタイルを変えたのはほんの気まぐれなのだ。自分が本の虫だと揶揄われるのが嫌で、様々な経験を積むようにし始めた時と同じだ。これが私であるということに固執せず、殻を破ってみたかっただけなのだ。
そしてこれがいつまで続くのかは分からない。良い方向に進めば続けてみようとするだろうし、そうでなければ元の私に戻るだけだ。
城の廊下を歩いていると
「ごきげんよう、ステラさん。」
そう言って挨拶をしてくるのはセルジョ様だった。
騒動があってからは話すことができなかった。かなり久しぶりだ。
「お会いしない間に雰囲気が変われましたね。」
と彼は言って
「もちろん素敵、という意味です。」
そう付け加えるのだ。
「どうもありがとうございます。セルジョ様はお変わりないですか?」
と尋ねる。
すると
「元気にしております。結婚式も近づいてきていますからね。」
そう笑うのだ。
そして
「あ。」
と何か思い出したかのように彼は呟いた。
珍しく慌てるように物を取り出そうとする。彼の手から出てきたのは何らかの棒だった。
「これを見せたかったんです。貴方と殿下に。」
そう言って見せた物品は私にはとても見覚えのあるものだった。
衝撃で心と身体が分かれてしまいそうなほどだった。このようなことがまさか、あり得るのだろうか。
「ちょっと待ってください。」
私もここまで持ち込んでいたそれを取り出し、彼の手の上に載せた。
「あっ。」
二人の声が揃う。
彼が私に見せた物品は私が屋敷の庭で拾った鏡の柄だったようだ。
「まさかこんなことがあるなんて……どうしましょうか?」
と彼は焦っていた。
私は
「とりあえずセルジョ様が持っていてください。」
そう伝える。彼は情報通だ。教養もあるので何らかの調査をすることが可能だろう。
「よろしくお願いします。」
と伝えると
「こちらこそ、ありがたくお借りします。」
彼はお辞儀をする。
そして私は
「これって手鏡ですよね?」
と尋ねてみる。
彼は何か既に心当たりがあるのだろうか。
「そうですね、しかもかなりの品だと思います。」
そう彼は答えた。
私が
「呪われたりしませんか?」
と気になって聞いてみる。
彼は少し笑ってから
「そんなことはないと思いますよ。多分ね。」
冗談めかして答えるのだ。
どうやら高貴な方の品に違いないなかった。しかし、林檎の模様を意図的に使用するような家や個人は現在存在しないはずであるというのが彼の見解であった。
「殿下にはお伝えしますか?」
そう尋ねてみる。
尋ねた方が良いということは分かっているが、いつも私にとってこれは難しいことだ。セルジョについての報告は何かしらの意味を持ってしまう。
「忙しそうでなければステラさんから、よろしく頼みます。」
と彼は答える。本当に誠実な人物だ。
それで会話は終わり、私は殿下の部屋に向かおうとしていた。しかし、珍しくまるで床を叩くような足音が聞こえる。どうやら音の主はかなり急いでいるようだ。その音は止まる。
私の目の前にセーラがいた。音の主は彼女だったのだ。どうしたのかと尋ねる暇もなかった。
「至急、ヴェロニカ殿下の部屋にお越しください。ご連絡したいことがございます。」
彼女の顔が真っ青であったことが、既に全てを明示していた。
大変お待たせしました!
修正・加筆作業に時間がかかっていまして少しずつの更新となります。
もうしばらくお付き合いいただけると嬉しいです。




