20.禁じられた契約
「落ち着きましたか。」
彼は心配そうに私を見た。
こんな状況で湯浴みをしたからと言って気分が安らぐとは到底思えなかった。早くこの世界から逃避してしまいたい。しかし良い夢を見ることができるとも限らない。
私は彼を鋭い眼で見て、何も言わなかった。最初からそうだ。私が何を言っても、彼自身が思っていることと違うことは受け入れる気がなかった。いつも自分が正しいと思う解釈しかしないのだから。
「貴方がお望みのものを今届けましょうか。」
私は冷たくそう言って彼に口付けた。
「どうですか、貴方の思い通りに翻弄されている滑稽な妻のご機嫌取りは。」
もう昔のように無邪気に笑っていた頃には戻れない。
私はエフィジオ・ギアッチのように平気で人に対して不躾で品性のない皮肉を放つことができるようになったのだから。
彼は何も言わなかった。それが余計に腹立たしくて、目の前にいる彼を手で精一杯押し退けた。
「落ち着けるわけがありません。分かりませんか?会話をする気がないのなら出ていってください。」
そう叫ぶ。彼は少し狼狽えていた。
こんな自分が情けなかった。不穏な空気が広がって自分を蝕んでいくというのに、ずっと彼を突き放せず、蝕まれるままにしていた。自分でもあり得ないと分かっているのに。
「貴方に後ろ暗い話をしたくない、聞かせたくないが故に耳を塞ぐことで解決しようとしていました。本当に申し訳ありません。」
彼はそう言ってただ頭を下げるだけだった。
まるで愛する妻に言うのではなく、城でヴェロニカ殿下に報告するかのように。
「謝罪も弁解も必要ありません。ただ、私をもう貴方から離してください。何が本当の意味で真実なのか、何が悪意で作られた嘘偽りなのか分からなくて辛いんです。」
涙で前が見えなかった。
泣くのを我慢していたせいか、鼻水さえも出てきて何もかもが美しくなかった。ここで私が全てを受け止めて我慢すれば丸く収まるのではないか。そう思ってしまうことを拒否したかった。
どうして私だけが心美しくあらねばならないのだろう。崇高でなければいけないのだろう。
震える身体を彼は抱きしめた。まるで子供を慰めるように手を後ろに回してゆっくり揺らすのだ。憎らしかった。彼が血の通っていない、人ではない生き物であれば良かったのに。
「そんな風に優しくしなくて良いですよ。」
私は手元にあったハンカチで顔を拭い、わざとらしく笑顔を作った。
「約束ですから。」
そう言って私は彼のブラウスに手をかける。
「ステラさん、私はまだ湯浴みを済ませていません。」
彼は焦ったように私の腕を掴んで止めようとする。
「気遣いは必要ないです。」
私は意地になっていた。
「いえ、貴方がそう言っても私は気にします。」
と彼は私を抱き上げてベッドに降ろした。
「どうか、お願いですから。」
そう彼は走って行く。
再びその言葉に主語はなく、本当に何を伝えたいのか理解できなかったのだ。
時間が経ち、彼はガウン姿で部屋に戻って来る。私を見るなり、少し安心したような顔をしていた。ヤケを起こすとでも思っているのだろうか。いつもそんなに何を心配しているのだろう。
座っている私をあのトパーズの瞳が射抜いた。
「謝意があるなら隣に座っていただけますか。」
そう言ったものの、我ながらあまりにも傲慢だ。心の中で苦笑いしてしまう。
「貴方の願いなら何でも。」
彼らしい返事だ。
今まで様々なことがあった。私は最初から彼のこういった甘言を正面から受け取れるような人間ではなかった。それでも彼はそのような人物であるのだとぼんやり認識できていた。
しかし今更そんなことを言われたとして、何もかもが薄っぺらくなるだけだ。彼自身がそれを分かっていないのが嫌だった。
「じゃあ何でもしてあげます。」
彼の薄い唇が開いて何かを伝えようとしたようだった。しかし、喉が動くだけでそれ以上は何も起きない。
彼の耳から後頭部を掴んでこちらに顔を向かせると瞳が熱を帯びてくる。私の指示通りに合わせて身体を捻らせるので、鼻の先を見つめていた。きっと彼は私の様子を眺めていたかもしれないが、それ以上は確認しないことにした。
何度も交わして繰り返される温度は心臓と息を高鳴らせる。彼は私の背中に手を置いて姿勢を崩そうとしたが瞬間的に私はそれを拒否した。舌を軽く噛んだ痛みさえも忘れて
「私に触れないで。」
それは明確な拒絶だった。
「貴方の手は私以外の白粉に塗れているだろうし、貴方の身体は私以外の香水に塗れているでしょう、想像するだけでゾッとするわ。それがただ本当に一時の愛という形なら良かったのに!」
彼の手を掴んで投げるように退けた。
「それなのに今も彼女は、フィリア・トネットは貴方の手の届く場所にいる。そのことがどれだけ恐ろしいことか貴方には分かる?」
感情的にならずに済めば良かったのに。それでもこのことに関しては理性的な話し合いをする期待ができなかったのだ。
「もう好きにしてください。私は貴方になんか全ての初めてを捧げたくなかった。」
冷静になれなかった。それが私の持てる矜持であったのに。限界が来てしまった。
私に傷つけられ、傷だらけになっている彼。それを見ている私があまりにも惨めだったから。
「確かに私は汚れています、それでも私の初めては貴方です。」
彼はそう話し始める。
「貴方は覚えているでしょうか。ある年の春、コルサーノ領の庭園で私が本を読みながら居眠りしていた時のことを。」
私はそのことを記憶を辿らずとも思い出せる。
それは――
「貴方自身は軽い気持ちだったかもしれません。それでも私の心を浮き立たせるには十分でした。もうその時には私の目にはステラさん、貴方しか映っていなかったんですから。」
今告げられるにはあまりにも重い告白だ。
「あれは私が卑怯な手段に手を染める前、純真だった頃の初めてのキスでした。」
そう、それは私が友人から熱烈な推薦を受け恋愛小説を読んでいた頃の話だ。確かに友人の言う通り、文学として展開も楽しく、文章もとても美しかった。
しかし、私は恋愛についてよく分からなかったのだ。人と人との繋がりで気持ちが暖かくなることは理解できる。それでも高揚したり、あるいは落ち込んだりすることに関しては現実に存在しない虚構なのに、と思っていた。
それでもシモーネ・デ・ピノンだけは特別だった。不愉快なところさえある兄の他の友人と比べて年下の私を対等に扱ってくれた。そして、自然に友人として付き合ってくれていたのだ。だから彼の優しさにつけ込んで悪戯をしてしまったのだ。
ただ、好奇心でしてしまった口付けはよく分からなかった。しかし、彼と過ごした初めての夜にそれを思い出して気付いたのだ。あの時から私は彼を特別に思っていたと。
それでも、その感情が私の結婚を勝手に決めた兄への恨みを解消してくれるわけではなかった。全てが情熱的な愛によって救われるわけではない。
「私の愛を信じなくても良いです。信じられるようなことを一才行動で示せていないのですから。それでも私は貴方を愛しています。私は自分を信じているのです。」
彼は何度折られても諦めないようだった。
しかし、次の瞬間
「嫉妬しているのかと尋ねたら気に障りますか?」
そう尋ねられて初めて彼の純粋な悪意を感じて背筋が震えた。それは私の耳にだけ聞こえるようにそっと囁かれたのだ。
「これも計算ですか?」
質問で返答した。答えるつもりなんてない。
貴方がいなくても生きていけると言えたなら良かったのに。とうに私は手遅れだ。
「誠実さは見せられていませんが本当の愛ならいつも貴方に行動で示しているつもりですが。」
答えになっているような、なっていないような返答だ。
畳み掛けるように
「もっと必要ですか?」
と言う。
それは悪魔の囁きに聞こえた。彼がこんな猫撫で声を出せるのだということを初めて知った。いつだって彼は本音で私に愛を伝えていたのかもしれない。しかし、今は私を本気で他者として誘惑しているのだ。
「できるだけたくさん必要です。約束しましたから。」
その言葉を聞いた彼は
「そうですね、何でもしてあげましょう。」
私の言葉を再演しただけであるのに、その姿は本当の悪魔に見えた。
読んでいただきありがとうございます。
お楽しみいただけていますでしょうか。いかんせん暗いお話なのでとても心配です!
正直ここまで書くのも結構神経をすり減らしたことを覚えています。
以降は更新ペースを落とさせていただきます。よろしくお願いします!




