14.逃避の意思
「あぁ、憂鬱なことも嫌なことも忘れられる。」
父がそう言って稀にワインを浴びるように飲んでいたことがあった。
そんな時に母は
「そういうことは逃げるためにするんじゃなくて、祝うためにしなさいよ。」
と叱っていたことを思い出した。
きっと今の私を母が見たら父に対して言ったことと同じようなことを言うだろう。
シモーネは珍しくまだ起きていなかった。背中に大きな温もりを感じながら目覚めた私は、自分の身体を確かめるように微かに動こうと試みた。
しかし結局彼も目覚めていたようで、彼は彼なりの暖かさを探すように手を動かしている。その感覚がくすぐったい。素肌の感触を確かめるように肩を撫でられる。私はつい縮こまると
「すいません。」
彼は少し眠そうな声でそう言って手をすぐ離した。私がいくら止めようとしても制御できないそれは朝になると鳴りを潜めるようだった。
「起きますか?」
そう尋ねてみた。今日は私も彼も休日なのだ。
「空腹ですので起きますね。」
と言い彼は身体を起こした。
彼が肌を晒している姿を日差しの下で見てしまわないように私はシーツの中に潜り込んだ。こんなことを言うと厚かましいが、心は未だに少女のようだった。実家で暮らしている時と何も変わらないのだ。
あんなに厳しい環境に晒されても私はただ大人のふりをしているだけだ。
そんなことを考えていると、とんとんと肩を優しく叩かれた。
そして
「先に食堂の方に向かっていますね。」
と彼は言って、退室する音が聞こえる。彼なりに気を遣ったのだろう。
正直身体の調子は良い方ではなかった。彼には心配されたくなくて誤魔化したが、完全に違和感を隠し通すことは難しいだろう。
重い身体を起き上がらせ、デイドレスに袖を通した。腕と足を曲げて伸ばして確認する。大丈夫、ただの筋肉痛だ。これなら久しぶりに馬に乗りましたからね、で十分だ。
食堂に向かうと、彼が座って待っていた。
「お待たせしました。」
と言うと
「いえ、いただきましょうか。」
そう返事をする。既に食事の準備は整っていた。
「食事中に失礼いたします。」
と言ったのはミリだった。
「ご依頼されておりました花の準備が完了いたしましたのでご報告に参りました。」
そう彼女は伝えにきた。
本格的な春が訪れる前に、この屋敷の庭を整えたくて花を手配していたのだ。屋敷の皆が私たちがやりますと言っていたが、自分で配置を決めて植えたかったのでそれは断った。
「ありがとう。後で作業に向かうわ。」
と言って食事を続けていると
「手伝わなくて本当に大丈夫ですか?」
そうシモーネに問いかけられた。
「えぇ、そこまでの量はないですから大丈夫ですよ。」
と返す。
「そうですか。貴方のセンスを楽しみにしています。」
その言葉はとても彼らしい応援だった。
庭の方に向かう。そこには屋敷で料理人を除いて、ただ一人の男性職員であるロアが待っていた。
「奥様、こちらになります。」
と彼が手を差し伸べている方を見ると小さなスコップが用意されていた。そして花壇の区画を整備してあるようだった。
「私は庭師ではないので詳しくは分かりませんが、ちゃんと育つようにするには整えられた場所に植えた方が良いそうなので。」
と説明をしてくれる
そして彼は
「まず印をつけた部分の土を起こしませんか?」
そう提案した。
正直実家でやったことはあった。しかし、庭師がほぼやってくれたので、専門的な知識がなく、とても助かった。
「あとお申し付けの通りプリムラを用意いたしました。」
と彼は苗を持ってくる。
可愛らしくも絢爛な色味のプリムラは少し植えるだけで庭が鮮やかになる。どれも状態が良さそうで、すくすくと育ってくれると嬉しい。
私は早速スコップを手に取り土を掘り返し始めた。
「農家の方から栄養のある土を分けて頂きましたので、後ほどこちらを混ぜましょう。」
とロアは言う。
普段はシモーネと働いていて私は話す機会が少ない方だ。彼は本当にしっかりしていて仕事ができるようだった。彼が信頼している理由がよく分かる。
私は作業をしながら考え事をしていた。
いくら自分が大人になれないと思っていても、自分が考えていたよりは取り乱すことはなかったのだ。
確かに現状に不満はあれど、自分が動くことによって解決できることはないだろう。それなら今ある流れに乗ってしまえばいいのだ。きっとそれは諦めではなく、現状でできる最善のことなのだから。
そんな風に毎日を過ごしていれば、いずれか彼も適度な距離感を覚えてくれるかもしれない。もっと離れていくならばそれだけだ。ただでさえ彼は一人で就寝することも多いのだから、今みたいなことがずっと続くわけがない。
私はあれこれ先のことを考えて心配し過ぎているだけなのだ、と。
土は大方掘り起こすことができた。次は栄養のある土をかけて混ぜていこう、そう思った瞬間にスコップの先に固いものが当たった感触がした。もう一度確認するため、スコップを地面に突き刺してみるとやはり間違いではないようだ。
私はそこを目掛けて周囲を掘ってみる。硬い音がしたのでおそらく金属のようなものだと考えられるが――私が手にしたのは手鏡だ。しかし柄の部分は折れている状態だった。その分かれてしまっている部分は綺麗に削られていて不思議だ。
「拾ったら呪われたりしたりして。大丈夫かしら。」
私は冗談めかしてそう言った。
ロアは私がスコップで必死に探そうとしている様子を静かに眺めているだけだったが
「洗ってみますか?」
とだけ尋ねてくる。
私は
「そうね、とりあえず花を植えてからにしましょう。後でお水を用意してもらえる?」
そうお願いした。
作業している途中も発見したそれのことが気になって仕方がなかった。前に住んでいた人物が人に知られないように破棄したものだったのだろうか。それならなぜ柄は折られているのだろうか。いくら想像してみても答えが出てこない。
そんな注意散漫な中でも花は無事綺麗に植えられた。春になればこの屋敷を美しく彩ることだろうし、ここにテーブルセットを置いて外でお茶をしてみても良いだろう。
他に置物を置いても良いだろうし、季節ごとに模様替えをしてみるのも良いだろう。そんなことを考えると笑顔になれる。私の屋敷だ。
「お水を持ってきました。」
とロアが私の方に向かって伝える。
「ありがとう。」
そう手に取ろうとすると、思っていた以上に陽気が小さかったので驚いた。
「シモーネ様から、作業が終わり次第お飲み物をお出しするようにと承っておりまして。」
とのことだった。彼らしい。
ロアが持ってきたのは手鏡を洗うためではなく私が飲むための水だったのだ。
「いただきます。」
そう言って私はコップの水を一気に飲み干した。
少し行儀が悪い気がするが、ゆっくりしてはいられない。休むなら全ての作業を終えてから身を拭って、お茶をしたい。
彼は再び戻ってきて
「こちらが洗うためのお水と拭きものです。」
と布まで持って来てくれた。
「では洗ってみましょうか。」
そう私は水を少し手鏡に流してもらって布で拭き始めた。どうやら酷い汚れはついていないようで、土や泥を落としてしまえば元通り綺麗になりそうだった。
それは本当に厳かな手鏡だった。表面はアンティークゴールドでシンプルな草木の模様で装飾されている。ところどころに林檎だろうか、大きな実が生っているのが印象的だ。
しかし、それ以外何の変哲もない品だった。ただ、この豪華さを見るに持ち主は普通の人物ではないに違いない。仕舞っておくのはあまり気が進まなかったが、元に戻す気にもなれなかった。
「気になされるかもしれないからシモーネ様にはお伝えしないで。ね?」
とロアに話してみる。しかし彼は報告するだろう。それでもいい、ただ私からは伝えない方が良い気がするのだ。
それでもこのことを一人で黙っているのもつまらない。こんなに美しいものなのだからヴェロニカ殿下にお見せしたらどうだろうか。危険なものではないだろうし、もしかしたら何かご存知かもしれない。
少し好奇心が湧いてきた頃、冬にしては穏やかな風が庭の草木と私をさざめかせた。




