体育祭準備編・8
「……」
肩の温もり。それは相良先生に抱きしめられている証拠。けれどどのぐらいの時間が経ったのだろうか。相良先生が離す気配が全くないんですよね。うん。どうしよう。誰か入ってきたらお互いまずいけど、私以上にまずいのは教員である相良先生のはず。
「先生。相良先生。人に見られたら」
「大丈夫。鍵はしまってるから」
「……」
用意周到でした。
じゃなくて。
「あの。こういうのは好きな相手にするものであって」
腕をぺちぺちと叩いて、とりあえず離しましょうっていう意思表示をしてみる。
「俺の好きなのは清宮だよ。伝わってなかったか?」
耳元で囁くような低音ボイス。何これすごくいい声。え? 今めっちゃ口説かれてるよね。口説かれてますよね。え? えぇ? 今まで私は範囲外で、物語りの外から見守っているんだと思ってた。
だって純夜はそれで幸せになれるから。
私の大切な弟だから、幸せになってほしい。ここでは私は物語りの登場人物の一人でしかなくて、台詞多めのモブで、幸せを見守る側の人間だったはずで。
ぐるぐると脳がシェイクされているかのように、こんがらがる。
でも肩に触れる温もりが嘘とは思えずに、私は目を瞬かせた。
なら、今までの私の行動はどうだったんだろうか。
何か違ったんだろうか。
純夜の幸せは、ゲームのエンディングではなかったのだろうか。
頭の中はぐるぐる。
1分。2分と時間は経っているだろうけど、相良先生が離す気配はない。割りと、この高校は自由だ。先生たちが独自の空間を持っているというか。
それもゲームの設定通りかと思っていたんだけど、深く考えた事はなかった。
あぁ、こういう事があるから、先生たちが独自の空間を持っているんだね。身をもって体験して、脳みそが沸騰しそうな程恥ずかしくてどうしようもない。
恥ずかしいのはきっと、肩の温もりだけじゃなくて。今までの自分の空回りぶりの所為。
「せせせせせ先生ぇ」
絞り出した声は、凄く情けないものだった。
「恥ずかしくて死にそうですぅ」
もう色々と。本当に色々と恥ずかしくて、どうしようもない。
顔に両手を当てて、私は口をパクパクと動かす。耳まで熱を持っていて、鏡を見なくても真っ赤になっている事がわかってしまう。それが尚更羞恥心を煽ってどうしようもなくて、瞳には涙が滲んだ。
一体どうしてこんな事になったのか。
それは、自分の不用意な行動が発端だってわかっているんだけど、でも、相良先生からこうして実際に抱きしめられたら、不用意な行動云々以前に照れくさくて、恥ずかしくてどうしようもなくなる。
もう呼吸困難を起こしそう。
そう思っていたら、相良先生が少しだけ離れてくれた。今は私の真後ろに立つ感じだ。ホッと胸を撫で下ろしてしまう私は、本当に免疫がない。
今までは他人事だと思っていたから、前世以上に今世だって免疫力は培われていないのだ。
くすり、と笑い声が耳に届く。
どうやら相良先生が笑ったらしいけど、それさえも羞恥を煽るだけだから、どうしようもない。
「璃音は可愛いな。涙目になって」
相良先生の手が段々と近づき、私の顎をクイッと持ち上げる。
「え?」
そして――……。
「ん」
そう。相良先生は、自分の唇で私の涙を拭った。
ぺろり、と舐めるのおまけつきで。
瞬間、私の身体から力が抜けて相良先生に寄りかかる。
完全な容量オーバーで、情けない事に腰が抜けたのだ。
「ははっ。本当に璃音は可愛いな」
「……」
相良先生。色々はっちゃけ過ぎです。
いや、もう本当に色々と度を越えすぎてます。
でも言葉に出す事は出来ずに、金魚のように口をぱくぱくと動かして意思表示。どちらかというと抗議だったけど、どうやらそれはしっかりと伝わったらしい。
相良先生が口角を上げてにまり、と笑う。
あぁ、私のそんな抗議ですら愛おしいと言わんばかりの表情。これはもう認めるしかない。今まで避けてきた事を。今まで守ってきた事を。
殻を破るかのように、今までの固定概念を破る時がきてしまった。
恋愛は、縁のないものだった。
愛は、手に入らないものだった。
私がいない方が、私の大切な人は幸せになれるのだ。
私という存在は所詮付け合わせのサラダ程度のもので、誰かのメインになる事なんてないはずだったのに。目の前の相良先生は、何故かそんな私が良いという。
まだそういう対象で見れるわけじゃないし、正直恋とか愛とか、理解の範疇外の感情で未だに実感は薄い。けれど、向き合わなければならない時がきたのだ。
今まで目を向けてこなかった感情なだけに、容易く両手から溢れ出してしまう。
けれど、向き合わなければ、相良先生に失礼だ。
「先生。あんまり、攻めすぎないで下さい」
もう十分ですから。そう言えば、漸くかと言わんばかりに笑みを濃くした。あぁ、背けてきた時間をもどかしいと思った人が、ここにいるんだ。それが理解出来てしまい、居た堪れない気持ちになるのは自業自得。
ここまで言われて、ここまでされなきゃ気づかなかった。
私自身それがわかってしまう。
だから、先生はここまでやったんだ。
「璃音には、このぐらいしなきゃ伝わらなかっただろう?」
「……はい」
「十分、伝わったみたいだな」
「………はい」
もう、はいしか言えなかった。
他に言葉を失ったかのように、はいと頷く事を繰り返す。
その時、ぱらり、と体育祭のパンフレットが自己主張するかのように、風に揺れて捲れた。それに顔を見合わせる私と相良先生。甘酸っぱい空気は霧散し、本日やる予定だった仕事が目の前に迫ってくる。
「あぁ……これか。タイミングがいいのか悪いのか」
「正直助かりました」
2階だから、外から見られる心配はないけれど、ここが1階だったらと思うと血の気が引く。
「清宮はそうだろうな」
先生モードに戻ってくれた相良先生にホッと胸を撫で下ろしながら、私は震える指先に力を込めて、ホッチキスを握りしめる。
どんなタイミングかよくわからないけど、兎に角助かった。
あの甘い空気は、今の私には居た堪れなかったから。
あまりにタイミング良く吹き過ぎた風に私は疑問を持つ事なく作業を開始し、相良先生が私の背後から外を睨み付けている事には気付かなかった。




