第4章(2) 悪魔の取引
「そっちがギリシャ語版の原典で、こっちがそれをラテン語訳した『アラテア』だよ」
僕は机に置いていた、もう一冊の本を手に取った。
男が見ているギリシャ語版は挿絵も少なく地味で文章が多い。
一方、ラテン語訳の『アラテア』は色とりどりの絵の具で装飾された、手の平より少し大きいサイズの本だった。
僕は、言ってからしまったと思った。
ギリシャ語なんて誰も読めやしないから、適当に誤魔化して早々に話を切り上げるべきだったのかもしれない。
「ギリシャ語の原典があるのか……」
男はまた
ぱらり。
次のページをめくる。
どうせ読めやしないから、早く返してどこかに行ってくれ。
ラテン語さえ読めるヤツなんて少ないのに、ギリシャ語なんて。
この修道院にも読めるヤツは一人もいない。
ギリシャ文字のαやβはまだしも、Δやφやωとか?
あまりにも僕たちが使うドイツ語ともラテン語とも違いすぎて、見ていると異世界に迷い込んだ気分になる。
ωなんて初めて見た時にはケツかと思っちゃったよ……
だから誰にも読まれず、本棚の片隅に追いやられていた。
僕が再び見つけた時には、埃にまみれ表紙の文字さえ読めなかった。
そう思っていたところ、
「なかなか、面白い。ラテン語の『アラテア』は初っ端から身内の権力者に媚びているが、原典にはそんな箇所はどこにもない」
男は本から目を離さずに言った。
「読めるのか? ギリシャ語!」
思わず声が上擦ってしまった。
アーチの天井に僕の声が反響する。
男がしーっとばかりに自分の唇に指を当てる。
くそっ! 気障な仕草だと思うのに、なんて絵になるヤツなんだ。
そして、男は本の1ページ目を開き、静かな声で読み始めた。
「まずはゼウスから始めよう。我らが人であるならば、かの神を語らずにはいられない」
僕は思わずラテン語『アラテア』の書き出しの文章を口に出す。
「アラトスは、偉大なる神からその詩を始めた。しかし我が詩は、父なる皇帝、最大の創始者たるあなたから始めよう。私はあなたを崇め奉り、聖なる儀式を捧げ……」
『アラテア』をギリシャ語からラテン語へと翻訳したのは、時のローマ皇帝アウグストゥスの孫ゲルマニクス。
確かに!
父だか祖父だか知らないが、身内の皇帝にあれやこれやと歯の浮くような賛美の言葉を送っている。
慌てて手元のラテン語で書かれた『アラテア』をもう一度見返した。
「だから序章がわからなかったんだ」
思わず言葉が漏れてしまった。
僕の記憶にあるのは、遠い遠い――失われた日
幼い僕をその膝にのせ、父は異国の言葉でこれを読んだ。
雪の降る寒い日だった。
僕の呟きの意味を測り兼ね、興味深そうに漆黒の瞳が僕を見る。
説明すべきか……。
僕は一瞬の躊躇の後、誰にも話したことのない話を始めた。
人気のない書庫での秘密の作業――――
「これは、ギリシャ語で書かれていると言ったが、同じ内容の本がラテン語でも存在する」
僕は手にしたラテン語の『アラテア』を軽く上げた。
「僕はギリシャ語を習ったことがないが、ラテン語ならわかる。そしてそれが同じ内容であれば……」
「突き合わせれば、意味はとれるか?」
「そう」
試しに僕は『アラテア』の次のページを開いた。実際に突き合わせたページ。
そこにはおおぐま座とこぐま座、その間に横たわるりゅう座の絵。
そしてそれらが『極』を中心にして回っていることが書かれている。
「確かにこの本には固有名詞が多い。おおぐま座だの、りゅう座だの。それを目印に突き合わせるのは可能かもしれんが……」
「大まかな意味をとるのは思ったほど難しくはなかったけど、序章はさっぱりだった。まさか内容自体が変えられていたなんて……」
僕は再びギリシャ語版とラテン語版の本を手に取り、机の上に並べてみた。
5年間。
書庫で再びこの本を見つけてから、人知れず一つ一つの単語を追っていた。そして気の遠くなるような時間を費やして、なおわからなかった問題。
それが……
「やっと解けた……」
誰にも読まれず、書庫の棚の奥に打ち捨てられ、存在を消された本。
その内容を知ったからといって、どうなるということでもないが、僕は安堵にも似たため息をついた。
つい先刻、悪魔扱いしたこの男。
「……さっきは……悪かったよ」
ぼそりと詫びたが、僕の謝罪などお構いなしといった風情で、ギリシャ語版の本の続きを興味深そうに読んでいる。
「アレクシスだ」
唐突に名乗られた。
確か司教様もそう言っていたか。
「わかった。アレクシス。僕は…」
「エリアス」
そのまま机に置かれた本のページをめくりながら、僕の名前まで名乗られた。
確か、こちらも司教様とヴォルフガングがそう言っていたか。
「そう、エリアスだ。君を殴らなくてよかったよ」
「そうだな」
一呼吸おき、男は何かを考えてる風にギリシャ語版の本を指さした。
「『パイノメナ』」
「何?」
「本のタイトルだ。『パイノメナ』――現象という意味だ」
「現象……」
『……メナ……』
そういえば、遠い記憶の中でもそんな発音を聞いていたのかもしれない。
温かく、優しい父の声が蘇る気がしたが……
あれは夢だったのだろうか。
「では、こうしよう。エリアス。この本はエリアスが先約だ。その優先権の半分を私に渡すというのは?」
「何!?」
突然の提案に警戒アラートが点滅する。
何を言われたのかわからないが、するりと人の心に忍び込み、提案をするのだ。
悪魔という生き物は。
「写本の作業をしている間、私がここで、この本を借りるというのはどうだろう?」
いぶかしげな僕を見て、アレクシスは言い直した。
誰にも読まれず、その価値すら無に等しい、打ち捨てられた本。
「『詫び』として受け取っておこう」
しれっと言った。
この男は――っ。
そしてさらに追い打ちをかける。
「たまに、中身を誰かに語りたくなるやもしれぬ」
ちらりと僕を見る。
――――足元を見やがって。
確かにいきなり殴りかかった僕に非があるのは否定できない。
「……た、たまになら……別に」
僕は目を伏せてそう答えた。
「交渉成立」
男は満足そうな笑みを浮かべる。
やはり謝るんじゃなかった。
この男、悪魔とまではいわなくても、悪魔のしっぽくらいは持っている。
僕はそう確信した。




