第4章(1) つらいよ秋の写本は
レーゲンスブルクの秋は霧で始まる。
気温が下がり始めると、ドナウ川の水面から水蒸気が立ち上り、朝は霧で街全体が覆われる。
大抵そんな日はいい天気になる。
写本工房では太陽の光を少しでも取り込もうと、秋の気配がしても窓は開けたままになっている。
秋の気配がしても……冬の気配がしても閉められることはない。
秋の終わりからすでに底冷えするこの街で、酔狂にも窓を開けっ放すのは、控えめに言って……
控えめに言わなくても、地獄。
今はまだ地獄のゲートの数歩手前だけど、それでも秋は風が強くて潤いを奪っていく。
それはもう、髪もお肌もカサカサゴワゴワ。油断すると指先がひび割れてしまう。
「エリアス、今日はこんなに写本したのかい?」
ウド工房長が、指先についてるインクをこする僕に言った。
「今日は日当たりがよくて、風もなかったので」
風が吹くと羊皮紙だって飛ぶので、物理的にも邪魔される。
「それにしてもだ。いつも一人で三人分は写本しているだろ? 教え方が良かったから優秀な写本師になったのかな」
僕の完成ページを見ながらウド工房長がほほ笑む。
この修道院に来て、皆がやってる写本に興味を持った僕。
ウド工房長は、何もわからない僕に羽根ペンの削り方から教えてくれた人だ。
「この時期いい感じにヌメッている羊皮紙を触ると、指先が潤うんです。だから……」
動物性のコラーゲンたっぷり、というよりコラーゲンの塊が羊皮紙。
だから触ると微妙に潤い成分が指先に移る。これがカサカサゴワゴワ油分補給にちょうどいいのだ。
よこしまな動機の棚ぼた成果を褒められると居心地がとても悪い。
褒められ慣れてない僕は、速攻で動機をばらし、油分を手の甲にすりすりすり込む。
そして少々インフレ気味な工房長の僕への評価値を正常に戻した。
普通、写本師は羊皮紙に油分が付かないように、手を浮かせた不自然な姿勢で写本する。油分がインクを弾いちゃうんだって。
羽根ペンでだよ?
手はプルプル、肩もガチガチ、書いても書いても終わらない無限修行をやってる気分になる。
だけど僕は、貴重な油分目当てに羊皮紙に密着。
夏とか手の油が気になる時は、羊皮紙を手の下に一枚挟むけどね。こうすれば無理のない姿勢でスピードも出せる。
「それでいいよ。自由に書きなさい」と言ってくれたのはウド工房長だ。
教え方が良かったのは事実なので、そこは否定しない。
「今日はもうおしまいなんですか?」
「この後、ちょっと出かけなければならなくてね」
作成途中のページは工房長が宝物庫に保管し、厳重に鍵をかけるので、今日の作業はこれで締め切りということだ。
僕は、自分の分と他のヤツの分も回収する。
絵師のルーカスの机には新しい羊皮紙が散らかっているが、今日も休みなのか。
全員分のページを渡し、工房を出ていく工房長を見送った。
◇◆◇
「『アラテア』か……?」
声は、すぐ背後から降ってきた。
はらりと落ちた黒髪に、背中を取られたと気づき、はっと振り向く。
黒い瞳が、開いたページを覗き込んでいる。
少しウェーブのかかった黒髪に黒曜石のような瞳。
襟元に金糸の入った青のチュニックを無造作に着流しているが、一目で貴族とわかるいでたち。
足音はなかった。
この書庫では埃の落ちる音さえ聞こえるはずなのに。
書庫は写本工房から続いており、工房のさらに奥にある。
寄進された数々の蔵書を保管するため、天井まで届く鍵付きの棚が列をなし、棚と棚の間の通路には古い羊皮紙の匂いが沈殿していた。
今日の陽の最後の名残が窓から部屋に差し込み、キラキラと陽の光を受けた埃が舞っている。
僕は手に持っていた本を、もう少しで落としそうになった。
男はその本をするりと受け取り、
ぱらり。
ページをめくる。
黒曜石のような瞳が光を宿す。
「違うな。ギリシャ語で書かれている」
確かにギリシャ語で書かれている。
ついさっき喧嘩をしかけた相手の突然の登場に面食らい、次の言葉が出てこない。
こういう場合はまず、謝った方がいいのか?
気配なく後ろを取る相手に?
無条件に友好の印を見せるほど、僕はこの男のことをまだよく知らない。
しかも、さっき『アラテア』って言わなかったか?
男の言った『アラテア』というのは、アラトスというおっさんがギリシャ語で書いた天体に関する知識を訳した、ラテン語の本だ。
星座をカラフルな絵と文章でわかりやすく説明している、超人気の学べる絵本。
ただお子様用の絵本とは一味違う。
夜空を表す青は最上級バダフシャン産ラピスラズリ。
天に輝く星々は純度の高い本物の黄金。
縁を彩る緋色は、高価すぎて王侯貴族以外手が出せない赤の染料。
こんな風に最高級の絵の具が、これでもかと大奮発して使われており、
それはまさに読む宝石――――
庶民や並みの貴族がやすやすと宝石本にお目にかかれるわけがなく、蔵書できるのはそれなりのお貴族様か、もしくは修道院。
そしてラテン語を読める人間も数少ない。
司教様は宮廷から人が来るとおっしゃっていたが、一体何者なんだ?




