第3章 写本工房
東西に延びるドナウ川はバイエルンでレーゲン川と合流する。
その合流地点、ローマ時代からの城壁に囲まれたレーゲンスブルク。
城壁の最も奥まった木々の中に聖エメラム修道院はある。
「いたたたたっ! 放せよ! わかったから」
俺に引きずられ、修道院の回廊の端まで連れてこられたエリアスは、ジタバタと手足をばたつかせた。
エリアスの護衛兼、剣の師匠である俺様にがっつり掴まれては、さすがにお得意のすり抜け技も通じないだろう。
「全く、おまえというヤツは!」
そこまで言うと辺りを見回して、声を潜めて言った。
「見透かされたら、どうするんだ!?」
何のことかわからないといった様子のエリアスに重ねて言う。
「あの事を……黒い予言の悪魔に……!」
「それで、僕を引っ張ってきたのか! てっきり怒られるものだとばかり……」
「怒っとるわ!! それとこれとは別問題だからな!」
全くどうしてこうも、この護衛対象は図々しいというか神経が図太いというか。
俺は深いため息を一つついた。
街では黒い予言の悪魔について、噂が持ちきりだ。
あの目に睨まれたら、すべてを見透かされるだの、誰も知りえないことを悪魔との契約で知っているだの。
一対一の勝負であれば大抵の敵に勝つ自信はあるが、悪魔にだけは敵わない。
物理攻撃が効かない相手とどうやって戦えというのか。
そして、あの悪魔。
噂に違わず、司教様の外出の理由や病のことまでスラスラと、いとも容易く言い当てやがった。
どこまでバレている?
考えると、心臓が馬の速足のように駆けだす。
「大丈夫だ。バレるようなヘマはしない」
ヘラリと笑う護衛対象。
人の気も知らないで……
こいつが護衛する対象でなかったら、一発くらいぶん殴っていたところだ。
俺が掴んでいた首根っこを放すと、軽い足取りで回廊の突き当たりまで進み、その先の扉を開く。
軽い……
俺の気分は鉛のように重いというのに。
扉の中は薄暗く、石造りの冷たい壁に囲まれている。その中央にある石の階段をトントンと駆け上がると、視界が開ける。
回廊の最奥の二階――ここは禁域。
修道院の中でも限られた者しか立ち入ることが許されない場所。
幾重にも重ねられたアーチ型の天井は、相も変わらず鐘の音を反響させている。そのクリーム色にくすんだ漆喰が二百年の歳月を、音とともに吸い込んでいた。
そして、エリアスは手前の樫でできた分厚い扉を開ける。
昼でもなお薄暗い修道院でありながら、唯一陽の光の差す場所。
陽の光を受け、窓際に座った修道士たちは、黙々とインク壺につけた羽ペンを動かしている。
ガチョウの風切り羽根をナイフで削ったペン先が、羊皮紙の表面をカリカリと滑る音だけが響く。
神経を研ぎ澄ます写本作業。そこは息の気配すら感じられない静寂。
ここはヨーロッパでも最高峰の技術を持つ聖エメラム修道院の写本工房。
ここに逃げ込まれたら、俺は手が出せない。
彼らが作っている写本は、1冊でこの辺りの荘園の一つや二つ、農民ごとお買い上げできてしまうほどの価値を持つ。
誤って傷などつけようものなら、伯爵家の五男ごときが支払えるわけもない。
静寂が支配する傾斜した机の列の間から、見知った顔が手を振って、エリアスを手招きしている。
ベルンハルトだ。
「ここ! ここ!」
声にならない声で、エリアスに自分の隣の席を指している。この時間、陽の光が最も入り、最も本を写すのに適した場所。
強い陽の光が差し込み、机の上に光の窓を形作っていた。
だが、エリアスは手前の席の椅子を引いた。
「なぜ!?」
ベルンハルトの口の形が抗議している。
その時、閉まりかけた分厚い樫の木の扉の隙間から、はっきりと見えた。
深い緑の瞳が影をたたえたかと思うと、瞼が閉じられた。
瞼が再び開いた時、エリアスの唇が動いた。
「陽向は好きじゃない」
陽向を避けるように指示した、エリアスの父はもういない。
「まだ、昨年のことだ……」
思いがけず言葉が漏れた。
……俺は、緑の瞳に再び光を宿すエリアスを見ることができるのだろうか?
鉛のようだった心は、さらに深く重く沈んでいく。
――――――どれほど時間が経った頃だろう。
ふと陽の沈む方角を見やった。秋とはいえ、幾分日は長い。
そろそろか。
いつも太陽の落ちるギリギリまで、エリアスは写本する。だから作業を終えるには、まだ少し早い。
なのに、なぜか俺は工房への道を急いだ。
流石に過保護すぎるかとも思う。
修道院の敷地内。迎えが必要という年でもない。
危険とかけ離れた生活。
強いて挙げるなら、なんとかいう皇帝の寵愛を受けた美少年。そいつを彷彿とさせる容姿に引き寄せられ、密かに少年を愛でようという不埒者が出てくることくらいか?
天使の見た目でも中身は……
性格に少々難があったとしても、見た目に騙されるヤツは後を絶たない。
ただ、俺のバカ弟子は、少々……? どころか、かな――――り難がある。
俺が心配してるのは相手の方だ。
さりげなく肩を抱いてきたり、濃厚な抱擁やキスをしかけてきた者は、こっぴどい返り討ちにあっている。
だから古参の者は間違ってもそんな不埒な真似はしない。
ならば、俺は何を急いでいるのか。
工房の中には、エリアスの世話係の老修道士コンラートもいる。
なのに、何を……。
とてつもなく、嫌な予感がする。
俺は、工房へと続く回廊で足を止めた。
そう、
《《新参者》》がいるじゃないか。
一人。
ここには。
今日、現れた。
黒い予言の――漆黒の悪魔が。




