第15章 解明! ミミズ文字
声がする……
『黒い瞳に黒い髪、忌まわしき印』
何度も聞いた声。
『呪われた悪魔の目だ』
悪魔と呼びながら支配しようとする、あの蜂蜜を煮詰めたような――――
『悪魔なら、余に手を貸せ。その忌まわしき呪いの力を――』
はっ……
目が覚めると、そこは見慣れたユトレヒトではなく、聖エメラム修道院の宿坊だった。
「はぁ……」
乱れた呼吸を整えるように、一つ息を吐いた。
全身に汗をかいている。
夢を見た。何年ぶりだろう。
油断するとこれだ……
呪われた悪魔……
『悪魔は予言を外すのか?』
エリアスは言った。
私は何を外した?
あいつは何を見た?
『君が知りたいのは、君自身の世界の真実じゃないのか?』
目に映るままの世界、耳にするままの世界が、人とは違うことを自覚したのはいつのことだろう。
どこまでが人と同じで、どこからが呪われた世界なのか。
何を口にしても、呪いとしてしか人に届かぬ世界を、紐解くものは誰もいなかった。
世界の法則から、自分だけはじきだされたかのように、この世の理が理解できない。
闇で囁く悪魔の支配する世界――――
それを『混沌』と名付けたのは……
私か――――?
今、何時だろう。
窓の鎧戸を開けると、空が白んでいた。
秋になるとこのレーゲンスブルクは、ドナウ川から立ち上った水蒸気で街全体が覆われると聞いた。
窓の外に目をやると、ドナウ川から離れたこの修道院でも、うっすらと白い霧に包まれている。
その白い霧の中を何かが駆けてゆく。
こんな時間に?
朝モヤの中、朧げに映し出される。
白い長衣をまとい、金色の髪をした人影。
もう見慣れたエリアスだった。
修道院の写本工房のある方向へ駆けている。
「なぜ、あいつはいつも……」
想定の上を行く……?
私は慌てて上着を手に取り、後を追いかけた。
今は夜の祈りと朝の祈りの間。
修道士たちは再び眠りについているらしく、院内は静まり返っている。
既に入り口の鍵が開いているのは、朝の勤めをしている者がいるからだろう。
エリアスは工房の扉を開けるとするりと中に入っていく。
私は後に続いた。
石の階段を上がり、樫の木の厚い扉を開け、写本を行う工房へと入る。
そして、一番奥の筆や絵皿が雑然と並んだ机の前で立ち止まった。
机の上に置かれた数枚の羊皮紙の中から、一枚を手に取っている。
私はエリアスの背後に近づき、その背中越しに手にした羊皮紙を見た。
数枚の羊皮紙の下から取り出したのは、着色途中の1枚だった。
二頭のクマと一匹の龍がそこに描き込まれていた。
おそらく、おおぐま座とこぐま座、そしてその間に横たわっているのはりゅう座。
「『アラテア』か……」
エリアスがびくりと跳ねて、手の羊皮紙を落としかけた。
「まったく! 足音を消して近づくなよ! びっくりするじゃないか」
足音を消した覚えはないんだが。
「一昨日みんなのページを集めた時、重なった羊皮紙の隙間から見えた絵柄を思い出したんだ。ルーカスはここ数週間ずっとこのページにかかってたんだ」
エリアスは私の抗議の視線を無視して話を進める。
「それを確かめるために、こんな早朝に?」
「思い出したら眠れなくてね。『アラテア』はさる大聖堂が依頼した大型案件なんだ。最高級のラピスラズリや金、銀を使えって渡されて」
「さる?」
「内密なんだって」
金銀はまだしも、ラピスラズリを用意できる大聖堂ということは、かなりの巨大聖堂ということか……
「まあ、僕たち写字生や、ペーペーの絵師にはそんな高価な顔料は触らせてもらえないから、関係ないけどね」
肩をすくめながら、手にした絵を机に置いた。
「宝物庫に入れず、どうしてこんなところにあったんだろ?」
本人が亡くなってしまったので、そのままになっていたのかもしれない。
だが、金や金より高価と言われるラピスラズリの絵を放置するというのは、たしかに不用心ではある。
絵を眺めながら、
「このメモを見ていると、エンジ虫以外もなんとなくわかってきたんだ」
エリアスは腹から取り出した例の羊皮紙の束を見せる。
どこから取り出したんだ?と見ると、長衣の腹に大きな一枚の布を縫い付け、中にものが入れられるようになっている。
バイエルンでは流行っているのか? 随分と便利なポケットだ。
ポケットはともかく、私はその束をめくった。昨日、賊が落としていったという羊皮紙の書付。
用心棒に持ち込み禁止を言い渡されていたはずだが、やはり宿坊に持ち帰っていたか。
「エンジ虫はラテン語で『vermiculus』。それをバラして、二度目のUを除く。すると使われている文字は、V・E・R・M・I・C・U・L・Sの9文字」
エリアスはV・E・R・M・I・C・U・L・Sの9文字を書いたメモを見せた。
その下には、癖のある字体をまねた文字が書かれている。
「なるほど。この9文字をヒントに判読するのか」
「そう」
そう言いながら、エリアスは自分で書いたメモをめくる。
「これを書付の単語に当てはめてみたんだ」
メモには三つの単語が並んでいた。
◯URUM、◯R◯E◯◯UM、L◯◯UR
エンジ虫の下に続く判読不明な単語が、エリアスの文字で書き直されていた。
◯が、まだ出てきてない文字というわけか。
ここまでくれば……
「AURUM=金、ARGENTUM=銀、LAZUR=ラピスラズリか」
わずかに残されたピースに文字を当てはめるだけだ。
「ちょうどこの『アラテア』に使われてる顔料と一致するな」
私はもう一度着色途中の『アラテア』を見た。
「瞬殺かよ!?」
エリアスは、ああ、8文字のヤツはARGENTUM=銀なのか……と自分のメモを見返していた。
「そして多分横の数字は金額だ。2400とあるのはデナリウス銀貨の金額」
2400デナリウスともなれば、一般的な職人の10年分ほどの収入だ。
最高級の赤で縁取られた枠の中に、宝石ラピスラズリの空、その中にちりばめられる黄金の星。
これが何ページも続くとしたら、完成した本の価格は計り知れない。
「クマの色がないぞ?」
メモに書かれていない色があるのに気が付いて、おおぐま座とこぐま座を形作っている茶色いシルエットを指した。
「クマの茶色はその辺で取れる土だよ。値段なんてつかない」
そっけない返事が返ってきた。
土も原料になるのか。色味だけでなく、値段も地味だった。
「ともかく、この書付は絵の顔料絡みということか。それがわかっただけでも進展だ。お手柄だな。エリアス」
ふと言った言葉に、てっきり得意げになるかと思ったら、頬を微かに赤く染めて目を逸らした。
金髪の小僧らしからぬ反応に、私は再び調子を狂わされる。
やはりこいつのことはわからない。
「だが……用心棒は宿坊に書付を持って帰ってくるな、と言ってなかったか?」
書付を返しながら少しだけ毒づいた。
「大丈夫だ」
エリアスはこちらを見ずに書付を受け取る。
「何故?」
「君がバラさないから」
金髪の小僧らしい笑みを浮かべてこちらを見た。
勝手に共犯にするな。
軽く睨むが、照れ隠しなのか、知らぬ顔で受け流されてしまった。
「ところで、ティーロのことは昨夜少し聞いたが、ペーターはどんな亡くなり方をしていたんだ?」
気になっていたことを聞く。
グンターのまとめた報告書では、ティーロは転落死、ペーターは窒息死と書かれていた。
私は二人の絵師について聞き取りを始めた。




