第1章(1) 来訪
はるか西――――――
黴臭い廊下を渡り、聖人たちのフレスコ画をぬけると、そこにやつはいた。
この鈍色の世界に穴を開け、光を攪拌し、
風にさえ色彩があると思い知らせたやつが――――――
最初あまりにも光と同化していたため、本を読んでいる人と認識できなかった。
回廊の窓枠に軽く腰をかけ、白いアルバ風の長衣をまとい、ゆるくカールした金色の髪を無造作にたらした姿。
それは精密なレリーフのようで、石造りの回廊にとけ込んでいた。
修道院の回廊の落ち葉を踏んだためか、かさりと足元が鳴った。
ゆっくりと、装飾がほどこされた本から瞳を。
ゆっくりと、煙るまつ毛の隙間からこちらに焦点を。
時が、止まったかのような静寂。
淡く澄んだ、それでいて森のような深い色の瞳が私をとらえる。
「私は、アレ…」
「君が、司教様が言ってたヤツ?」
さえぎるように、象牙のレリーフがしゃべった。
一瞬、何が起こったのか自分でも理解できなかった。
だが、すぐに、今いる修道院の中庭の回廊に引き戻された。
「君が、司教様が言ってたヤツ?」
ヤツが同じ言葉をもう一度言ったからだ。
しかも、ヤツときた。
「たぶんそうだが、初対面でヤツ呼ばわりするヤツとは気が合いそうにな…」
一瞬だけにっこりと笑った直後。
ゆったりと着流した足元まである白い長衣の影に隠してた何か……
杖!?
それがぶん回された。
ぶんっ。
とっさに身をひるがえした私の耳元を、杖の風切り音がかすめた。
「おまえっ、それ!」
間髪を入れず
「主は天より雷を轟かせ、いと高き神は御声を発せられた。
雹よ! 稲妻よ!
矢を放ち、敵を蹴散らせ!
悪魔とその眷属よ、業火のうちに灰となれ!!」
詩篇18篇!? 幼い頃、暗唱させられた聖書の1節。
それが、完璧なラテン語で、勢いよく詠唱され放たれた。
回廊に落ちる木の葉が舞う。
カサカサカサッ――――――……
冷たい風が足元の落ち葉を運んで行った。
目の前に突然出現したのは、天使の顔をしたレリーフでもなければ、フレスコ画の物言わぬ聖人でもない。
生意気そうな小僧。
それもとびきり活きのいい。
そして、当然と言えば当然だが、この呪文の攻撃によるダメージは全くなかった。
杖を掲げたまま静止する天使の顔をした彫刻。
司祭が主の祈りを三度唱えるほどの時間が経った頃、
「今のは見なかったことに……」
無表情を崩さずに、聞き取れるぎりぎりの声が聞こえてきた。
「は?」
「だ・か・ら、今のは見なかったことに……」
「できるか」
私は速攻でお断りを入れた。
彫像の頬がみるみる赤くなっていく。耳まで赤いぞ。
眉間に皺を寄せながら、
「ちょっとくらいダメージ、あっただろ?」
などと、往生際悪く聞く。
ダメージを受けたのは小僧のメンタルだろ。
確かに、今のは恥ずかしい。
限りなく恥ずかしい。よくわかる。
三度の祈りの間にごまかす方法を考えたが、何も出てこなかったのだろう。
少し気の毒になり、
「最初の物理攻撃を食らっていたら、まずかったかもしれん」
私にしては最大限のフォローをいれたつもりで答えると、
「ふ――ん」
涙目で宙の一点を見つめたまま、世捨て人のような声が漏れた。
ふ―――ん。
じゃねぇ…………
「そんな余興で人を出迎えるのがここの礼儀か? そもそも、その杖は……」
「ああ、これ?」
話題が変わってこれ幸いと、先端に渦巻状の装飾がほどこされた杖を無造作に持ち上げる。
バクルスという司教が持つ杖だ。
杖の先には素人目にみても明らかに高価な彫刻の細工がほどこされていた。
「司教様の部屋から、ちょっと拝借?」
私の目が半開きになる。
なぜ疑問符をつける?
明らかに司教殿の部屋からくすねてきた代物だろ。
心の中で声にならない突っ込みを入れる。
司教は、司教区を取り仕切る最高責任者。
本来なら、司教の部屋に忍び込むことも、司教の杖を《《拝借》》することも、大層おそれ多い。
なのに、この小僧は、ちょっと祖父の部屋に忍び込んだ気安さで話す。
心の中の私の突っ込みをよそに、小僧は続ける。
「数日前からこの辺りでは、恐ろしいほど何でも当てる、黒髪の男がうろついているともちきりだ」
ここに来る前にいくつかの修道院で逗留したが、思い当たることは…………ある。
出会う者は皆、怯え切った目で私を見ていた。
「で?」
私がその先をうながす。
「噂では、悪魔が姿を借りて、この地にやってきたのだと」
小僧が探るようにこちらを見る。
ああ――――
まただ。
生まれた時から、何百、何千と聞かされてきたことだろう。
悪魔の目を持つ
呪いを吐く子。
皆、同じ目で怯えたように私を見る。
ユトレヒトの修道院を出た途端これだ。
「だから、悪魔が憑いてるならこの杖の法力で……まぁ、効かなければ、最悪ぶん殴って、悪魔とやらを追い出してやろうかと思って」
「え?」
「聞こえなかったか? ぶん殴って……」
「いや、待て待て待て」
聞き間違いかと思ったら、二回も言いやがった。
いや……
その前におかしなことを言わなかったか?
「私の記憶が正しければ、法力より先に殴りかかられたのだが?」
「あ、ごめん。順番を間違えた」
釈然としない疑問を口にしたら、しれっと謝罪された。
ごめんと手をかざす仕草をする。
そこは素直に謝るんだな。
それよりもっと謝ることがあるだろ……
こいつが振り回したバクルスの杖。それは、教区の統治権と領地を司教に授けたことを示す権威付けアイテム。
法力バトルや、振り回してぶっ叩くといった戦闘用武具では決してない。
百歩譲って悪魔祓いに使うとしても、司教が品よく持ち、神と皇帝の権威をちらつかせて調伏する法具なのだ。
小僧は、バクルスの杖を「おかしいな? それとも詩篇18篇じゃなかったのかな?」と、裏返してみたり、逆にしてみたり検分している。
おかしいのは杖ではない。
そしておかしな改変を加えた詩篇でも断じてない。
小僧の頭……
そう思いかけて、今、何か……。
名前が浮かんだ。
「ヴォルフガング……」
「そう、ヴォルフガングだ」
「何? 何故その名前を!?」
「この修道院中探し回っている。探し物は……」
あたりをすーっと見回すと一つしかなかった。
「金髪の小僧」
小僧の頭を指さした。
なるほど。
金髪の小僧。
たった5文字だが、今目の前にいるヤツをこれ以上形容できている語を私は知らない。
襟足で短く切りそろえられ、動くたびにフワフワと揺れる少し癖のかかった明るい金髪。
だが、私の眼前にいるのは、「金色の髪をした少年」でも、「彫像のような天使」でもない。
まぎれもなく、「金髪の小僧」なのだ。
たぶん、「生意気な」などという形容をつければ、二重表現になる。
「もうすぐ来る。怒り心頭だ」




