序章 五芒星
東の山の端に昇った月が、冷ややかな夜の薫りを、都の端々にまで行き渡らせた頃。
西洞院と土御門大路の交わる屋敷には、
ぽつり。
ぽつり。
と、火が灯っていく。人はそれを、妖の力だとも、式神の力だとも語った。
「宋から帰られたばかりだと……」
夜の気配をまとって現れた陰陽師は、都人らしい優雅さで杯をすすめた。杯は琥珀色をした液体で満たされており、その芳香は鼻腔をくすぐる。
「これは驚きました。拙僧が宋の都で飲んだものと同じではございませんか。まさか日本で再びお目にかかるとは!」
陰陽師は静かな笑みを浮かべ、文机に置かれた護符を脇へやった。
感嘆した僧は、挨拶もそこそこに、琥珀色の液体を口に運び、次にその護符に目を奪われた。
宋から摺本一切経を持ち帰った僧ではあるが、護符としては初めて目にする文様だった。
五つの頂を持つ星。
五芒星。
「珍しき、印にございますな。それは、いかなる」
「これは……」
陰陽師は、護符を取り上げ、僧の前に差し出した。
「奝然殿が宋より持ち帰られた書物と同じく、遥かなる西の国からの叡智でしょうか」
「叡智?」
ゆっくりと星の頂点から頂点を指でなぞりながら、陰陽師は続ける。
「五つの頂が、このように一筆で結ばれ、元の頂に還る。魔や邪気というものは、途切れた隙間から入ります故、途切れぬことが守りとなります」
「ほう」
僧は、何度目かの感嘆をもらした。
「叡智もまた同じでございます。受け継ぐ者が途切れると知の光は永遠に失われ、闇に還ります」
指が次の頂から、また次の頂へと筆の跡をたどる。
「名もなき写本師が次の世代、次の世代へと途切れることなく言葉を受け継ぎ、叡智をこの現世に書物として還す。途切れることなく受け継がれた光が、この印にございます」
「しゃほんし?」
聞き慣れない言葉に僧が首をかしげたが、陰陽師は答えなかった。
思いを馳せるように、かすかな微笑をうかべ、護符を桔梗の文様がほどこされた硯箱の上に置いた。男物にしては雅で風情のある意匠である。
その時だった。
御簾の向こうから、地響きのような足音が近づいてきた。僧は、思わず身構えた。脳裏に都人の噂話がうかぶ。
式神?
かの陰陽師の邸では、異形の式神が仕えているという、
あの噂の――
御簾越しに、六尺はあろうかという、鬼のような影が映る。
「よう! セーメー。例の酒が届いたと聞いたぞ! 今年のは葡萄の出来がいいとか。懐かしい味をこのケンプ様にも一杯飲ませろよ!」
「ご客人の前だ」
「おお! それは悪かった」
チラリとこちらを覗きこんだ影は、のそりと頭だけ下げ、再び御簾の向こうへと消えた。
御簾の隙間から見えた顔は、天狗のように高い鼻の赤ら顔で、頬には刀傷のような跡。目を引く鳶色の髪。
噂に聞く大江山の鬼のような大男だった。
人ならざる妖を使役する陰陽師。
噂を裏付けるような異形のものに僧は目をみはる。
「これは失礼を」
「あのような髪の色の偉丈夫を、宋の都で一、二度見かけましたぞ」
陰陽師の言葉に重ねるように僧は言った。
宋の皇帝から紫衣と大師号を賜った僧の興奮をよそに、陰陽師は涼しい顔で問う。
「今日お越しになったのは、宋からの届け物を私に?」
夜闇を震わすその声は、この世の真理を全て見透かす深さをたたえ、よどみがなかった。
僧は己の居住まいを正した。
「遥か西の……外国の大王様からの賜り物と聞きおよんでおります」
僧は、懐から取り出した包みを解いた。差し出したそれは手の平より少し大きな木の塊であった。
天文博士でもある陰陽師の黒く濡れた瞳が、燈台の光を映し、一瞬またたいた。
噂では、その母は狐だともささやかれる。
狐狸の類が人をばかす話は、古来より聞きおぼえがある。だが、帰朝したばかりの僧は、宋で見た西方の旅人を思い起こした。
「拙僧が身を寄せておりました、宋の青龍寺の清昭様からお預かりした品にございます。こちらの品は、あなた様にと」
陰陽師の木の塊を取る手が、かすかだが震えたように見えた。
「あなた様。
安倍晴明様にお渡しするように。と」
全てを見透かし天地の理を知る、大陰陽師と言われる男の顔が、一瞬揺らぐ。
ほんの一瞬。
僧はそれを見逃さなかった。
――――――――硬く閉ざした堅牢な函。
確かにその函には見覚えがあった。
あれは、誰の言葉だったであろう。
『……ひだ。これは……ひ…だ。』
かすかな断片となった記憶が……
甘く冷たくそして懐かしい声が。
乾いた秋の香りが。
脳裏によみがえる。
「言付けにございます」
そう言いながら、僧はゆっくりと頭を下げた。
「これは『慈悲』でございます。と」
大陰陽師は瞳を閉じた。
よみがえる。
色鮮やかに。
色を持たない記憶が、次々と、色をおびて。
「拙僧も青龍寺の僧も、これをよう開きませなんだ。ただ、『慈悲』とのみ聞き持ち帰ったものとして、『何か』お聞きしてもよろしいかな?」
晴明は一つ息を吸った。
湿った夜気が肺を満たす。
あの頃の夜はもっと乾いていた。
燈台の灯りが揺れる。
語らねば、記さねば、永遠に失われるはずの過去。
――――あの街では、こんな予言が流行っていた。
『緑玉と青玉、二色の瞳を持つ娘が――――世界を、終わらせる』
息を一つ吐いた。
「今宵はひとつ、遥かなる外国の話にお付き合いいただきましょうか」
僧、奝然の双眸が、燈台の灯を映した。
「夜は、まだふけ始めでございます。拙僧でよろしければ」
秋の夜は、煌々と月が照り、そして長かった。
遥かなる外国の話にお付き合いいただきましょうか」
僧、奝然の双眸が、燈台の灯を映した。
「夜は、まだふけ始めでございます。拙僧でよろしければ」
秋の夜は、煌々と月が照り、そして長かった。




