第13章 月夜の散歩
その夜、私はまどろみさえ訪れる気がせず、自室から窓の外をぼんやりと眺めていた。
夜はまだ更け初めで、月が煌々とあたりを照らしている。
今は何時ごろか。
私はユトレヒトから持ってきた荷物を開けた。中から木製の円盤を取り出し、星を見ようと空を見やった。
ふと目をやると、修道院の正門近くにある鐘楼に光が。
最上部にある鐘の階。チラチラと光源が動いている。
こんな夜に。修道士だろうか?
しかも、鐘楼。
私はランタンを手に取り、そのまま宿坊の外へ、夜の散歩へと繰り出した。
ランタンがなくても、外は月明かりに照らされ、修道院の庭を迷うことなく歩ける。とても明るい夜だった。
鐘楼は石造りの塔になっていて、建物の4階ほどの高さがある。
塔の下に着いた時、入り口の木の扉は開いていた。
私は扉をくぐり、中へと足を踏み入れる。
煌々とした月明かりが、明かり取りの窓から差し込み、夜目であっても難なく上階へ上がる階段を見つけることができた。
そうだ。
今宵はおそらく中秋の名月。
一年で最も月が美しく冴えわたる日だ。
星より月を愛でる方が正解かも知れぬ。
そう思い、窓から冴え冴えとした月を見やると、ふと心に浮かぶ。
『天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも』
かつて聞いたことのある歌が。
大空をはるかに仰ぎ見ると、月が出ている。あれは、かつて故郷で見たのと同じ月なのであろうよ。
遥かいにしえに、異国へと渡ったのは、同じ血を引く一族であろうか。
かつて乳母の口ずさんだ歌が、この煌々と輝く月には相応しい気がした。
ここには山はないが、同じ月をここではないどこかの国で、誰かが見ていることを思い描く。
細く、何度も折れ曲がった木の階段を上り、塔を何周かした時、天井に吸い込まれるように最上階へと着いた。
最上階には鐘が大小4つ並んでいた。そして、鐘から吊るされる長い縄が地上まで垂らされている。
日々、時を告げる鐘の音はこの下で鳴らされるのだろう。
そして視線を上げると、最上階に開けられた足元まである吹きさらしの窓のそばに、空を見ている人影があった。
私の予想に反し、月明かりを反射しキラキラと輝く、黄金の髪。
白い長衣。
エリアスだった。
「レーゲンスブルクがここからだと一望できるな」
私はその後ろ姿に声をかけた。
昨日書庫で私が声をかけると、かなり驚かれた。
足元のおぼつかない場所で足でも踏み外されたなら、寝覚めが悪い。
「月明かりはいいね。君がここへ来る様子もここからよく見えた」
そう言って、エリアスは微笑みながら私の方に振り向く。
月を背にして、輪郭が淡い光に縁取られた姿は、まるで月の精が降ってきたようだ。
地味な黒い服を着た修道士を予想していた私は、少し拍子抜けしてしまった。
どうも、このエリアスには調子を狂わされる……
「塔の上にランタンの明かりが見えたからな。悪魔でも徘徊しているのかと」
星の観測をしている修道士以外で、酔狂にも塔の上にいるとしたらそんなところか……
「悪魔にお目にかかれるのなら、どんなしっぽを持ってるのか見てみたいよ」
そう言って不敵に笑う姿は、月の精というよりは、夢魔のように妖しく幻想めいていた。
「こんなところで何をしていた?」
人気のない鐘楼の最上階。
「犯人は再び現場に舞い戻るっていうからね」
エリアスは意味ありげに笑う。
私の頭に、グンターの言っていた転落死という言葉がよぎる。
そして鐘楼の床に置かれたランタンを見た。
「こんな明るい月夜にランタンか?」
「そういう君もだろ?」
エリアスは私の手に持つランタンに目配せする。
「秋の空は変わりやすい。いつ月が雲にかくれるかわからぬからな」
そう言ったが、エリアスは聞いてるのか聞いていないのか、じっと塔の下を見ていた。
「ティーロはここから落ちたんだよ」
突然、ぼそりと呟いた。
やはりそういうことか。
「いくら明るい月夜でも、物陰になればはっきりものが見えない。夜中の検分か?」
ランタンを掲げて、あたりを見回しながら聞いた。
「せっかくだけど、何にもなかったよ」
私の言葉に肩をすくめるエリアス。
「なぜ、わざわざこんな夜に?」
何もないと言ってはいたが、念のために私も、鐘楼の床や鐘をランタンで照らす。
確かに何もない。
「なんだか寝つけなくてね」
こいつも夜の散歩組か……
何も見つからず私がランタンの明かりを下げようとしたとき、
「待って!」
エリアスが鐘楼の石の壁を見つめ声を上げる。
「キラっと何か光った」
「何?」
「ここ、何かが付いてる」
ちょうど人の顔の高さほどの石壁を指して言った。
たしかに、よく目を凝らしてみなければわからないが、うっすらと。
光源とある程度距離をとっているから、暗闇の中で一瞬光ったことに気づけたのだろう。
足元まで開いた窓側の壁、誰かが、何か付いた手で壁を触ったか?
ランタンの灯りを近くでかざしてみると、石のざらついた面にうっすらとこびりついたものが、光を反射してチラチラとわずかに光る。
ただそれは、誰かに拭き取られたのか、石のくぼんだ隙間にわずかな痕跡を残すだけだった。
「ここに上ってくる修道士は?」
私は他に同じようなものがないか、ランタンを掲げながら聞いた。
「そりゃ定期的に、星を観測するヤツが上ってくるかな?」
そうだろうな。星を観測し、時間を計るのは修道院の大切な役割の一つだ。私もその明かりだとばかり……
蔵書で名の知られた、聖エメラム修道院の修道士がどのように観測しているのか興味がある。
ただ、不特定多数の者が、上がってくるとなると、
「これといった物証とは言えぬか……」
「そうだね」
エリアスが地味な痕跡に早速興味を無くし、空返事をする。
わかりやすいヤツだ。
「それにしても、今日は空がきれいだね」
エメラルドの瞳が夜の光を受けて、輝きをたたえていた。
エリアスの言葉に、私は鐘楼の外の星を見た。
確かに、雲一つない。
空を見上げると、明るい月と星々が輝いている。
まだ、夜はこれからだ。




