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第8章 エリアス、詩篇を唱える

 エリアスが詩篇の暗唱を始める中、私もルーカスの遺体の検分を始めた。


 詩篇90篇。詩篇は150篇あるから、折り返しも少し過ぎたところだ。


 澄んだ声で唱えられる、美しい発音のラテン語が聖堂に響く。


 私はふとエリアスを見た。


 エリアスが部屋の扉を叩いたのは、夜も随分更けてからだった。


 ノックというよりまさしく叩くといった音に、書きかけの報告書のペンを止めた。


「陣地は侵してないぞ」


 扉を開けながら先に無実を主張した。


 そして少し驚く。


 そこにいたのは、黒い修道士服を身につけたエリアスだったからだ。


「殺害だと言ったな」


 エリアスは、伏し目がちに言う。

 

 私は写本工房での会話を思い出した。


「言ったのは用心棒で、私は無罪だ」


 あくまで無罪を主張する。


「無罪じゃない奴がいるってことだろ?」


「まぁ、そうだな」


 ほぼ確実に。

 

 エリアスはその言葉を聞き、私に視線を向ける。


「君はそいつを止められるか?」


 真摯な声色で問う。


「調査次第だな」


 そう答えると、エリアスは何かを決心したようにまっすぐに緑の瞳でこちらを見た。


「じゃあ、僕について来い」


「ついて来い?」


「ルーカスを検分する」


「検分!?」



 正直なところ、遺体を検《しら》べるなどという発想はなかった。身辺調査はしても、遺体検分など聞かない。


 しかもだ。


 修道院では人が亡くなると夜を徹しての祈りが行われる。

 翌日の追悼ミサまで修道士たちが交代で寝ずの番をするのだ。


 つまり、ルーカスは追悼ミサが終わり無事に墓に入るまで、途切れることなく常に修道士に見張られる。


 何を見張るのか。


『悪魔』が近寄らぬように見張っている。


 

 そんな中、遺体の検分など。


 巷で『黒い予言の悪魔』と噂される私が言い出せばどうなるか。


 私は、ここに来た真の目的と連続死の捜査の軽重を秤にかけようとした。


 そんな私をエリアスのエメラルドの瞳がまっすぐに見つめている。


 何かを思いつめた、強い覚悟を持ったような瞳だった。


 確かに、検分は何より有効な方法ではある。



「わかっていると思うが……」


 最悪、見つかれば悪魔を手引きしたと取られかねない。


「理解しているよ。それでも案内してやるから、検分しろって言ってるんだ」


 そう言いながら、どこから持ち出して来たのか、黒いフードのついた修道士服を投げてよこした。


「さっき一緒にいた相棒は?」


「ヴォルフガングか? 人手がいるから連れて行くよ。でもあいつはビビリだから、連れていくにはちょっとしたコツがいるんだ」


 コツ?


 と言うか、七つも八つも年下の小僧に、ビビリ呼ばわりされる用心棒なんて聞いたことないぞ……


 ◇◆◇


 私はエリアスの詩篇を聞きながら、いつものように、見たまま脳裏に浮かぶ言葉を読み取っていく。

 

 生者でも死者でも変わりない。

 

 次々と来歴、性格、病歴などが浮かび上がる。


 他の人間にはそれが見えないという。


 呪われた目。


 そんな言葉が思考の端をよぎる。



 ルーカス。

 年は30といったところ。レーゲンスブルク生まれ。ほぼ街を出たことはない。

 修道士ではなく職業、絵師。字は読めるが書くのは苦手。

 近頃は体調を崩すことが多かったと聞いたが、それだけではない。皮膚炎を長く患っている。



 エリアスの暗唱が続く。


 蝋燭の炎を照り返すブロンドの髪が暗闇の中でさえ輝いている。


 知らない者が見たら、天使が降臨したと錯覚しそうな風景だが、こいつが小悪魔だということは知っている。


 つい先ほどの出来事が脳裏によみがえった。


 常闇《とこやみ》を思わせる冷たい地下を抜け、そのまま聖堂内部に続く階段を上がると、祭壇のわきに出た。



 暗闇に紛れ、詩篇を唱える修道士たちの傍へ忍び寄る。


 一人の修道士が私たちに気づいたので、エリアスは手の動きで交代を告げた。


 すると一番若手と思われる修道士がこちらへ来た。


「誰だ?」


 低く音量を絞ってはいるが、最大限に警戒した声で修道士は身構えている。


「ベルンハルト! 僕だよ、僕」


「エリアス?」


「次の交代がトラブってるから、頼まれて代わりに来てやったんだ」


 そう言いながらフードを外す。


 黒いフードの下からは、暗闇でもそれとわかる金髪が姿を現す。


 ベルンハルトと呼ばれた修道士が、一気に同僚に向けた自然体に戻る。


「助かったよ。交代が来なくて、もうクタクタだよ。何があったんだい?」


「よく知らないけど、修道士服がなくなったらしいよ」


 私は顔を動かさず、目だけで自分が着ている修道士服を見る。


 眉間にしわが寄りそうだ。


「ベルンハルト、食事もまだだろ? 食堂にみんなの食事を準備してもらったから、早く行けよ。特別に魚とワインを付けてもらったよ」


「マジで!? エリアスは天使だよ! フーゴ達にも教えてやるよ」  


 ベルンハルトは喜び勇んで、朗読を続けている残りの三人にも知らせに行った。


 疲労と空腹と眠気に支配されていた空気が、魚とワインに支配されるのが傍目にもわかる。


 そして、エリアスの背後にいる私に誰も注意を向けず、彼らは聖堂を出て行ってしまった。


「天使が聞いてあきれる。盗人め」


「拝借しただけだよ。後で返す」


 こちらを見もせず答えるが、司教の杖といい、昨日からこれで二犯目だ。


 私はふと気になった会話を思い出す。


「交代が来ないとは? コンラートは《《今》》足止めに行ったばかりのはずだが?」


 先ほど分かれたばかりのコンラートを思い出す。


 交代がずっと来ていないかのようなベルンハルトの言い様で、話の辻褄が合わない。


「本当の次の交代は、僕が代わってやると言ったら、喜んで眠りについたよ。今コンラートとヴォルフガングが足止めしているのは、次の次の交代だ」


 天使の顔をした小悪魔は悪びれず言った。


 つまり、ベルンハルトは二班分の仕事をしたことになる。


 疲労と眠気と空腹に加え、いつまで続くかわからないフラストレーション、マックスの状態から解放されるのだ。


 疑いもせず喜び勇んで帰っていくだろう。


 食事とワインはその詫びか。



 ◇◆◇



 胸の上で組まれたルーカスの手が目に入る。


 両手で十字架を握るように組み合わせられている。

 

 手の皮膚は一部色素が抜け落ちたかのように白く、指の爪にも白い線が入っていた。


 そして唇に絵の具の黄色い沈着。


 服の下はわからないが、素足の裏は黄色く変色していた。そして分厚い皮が塊のようにこびりついている。

 

 組んだ手の指の皮膚を見るに、手も同じような状態だろう。




 エリアスの暗唱する詩篇も90篇から100篇に差しかかろうとしていた。


 そろそろ潮時か――


 修道士たちがこちらに来ている。


 私はエリアスに引き上げの合図を出した。



「あそこで首だけ出している用心棒を回収し忘れると、コンラートのせっかくの苦労が無駄になる」


「え?」


 エリアスは怪訝そうに私の指し示す方向を見る。


 すると、そこにはクリプタの隙間から顔だけ出しているヴォルフガングがいた。


 私は交代の修道士に見つからないように、ヴォルフガングを回収し聖堂を出た。

 

 あとはエリアスがうまくやるだろう。


挿絵(By みてみん)

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