閑話. ヴァレンウォート・ユグドラシル
何をしても逃れられなかった身体中を駆け巡る鋭い痛みが、嘘のように消えていた。
四六時中頭の中を掻き回す罵詈雑言は、どこにもない。
窓から差し込む暖かな陽光と、小鳥の囀り。
……違う、これじゃない。
もっともっと温かくて優しくて心地よい——……
「——ルナリア……?」
発した声は、酷くひび割れていた。
室内に人の気配が感じられない。
いつもはそれに安堵するのに、今は違う。
「……どこにいる……?」
静かな部屋には、誰の姿もない。
扉の向こうには常に人の気配がある。
けれど——違う。ルナリアじゃない。
あの心地よい魔力が、どこにもない。
居ても立ってもいられずにベッドから立ち上がろうとするも、上手く身体が動かせない。
痛みは消えても、削げ落ちた体力ばかりはどうにもならないらしい。
募る苛立ちに、ようやく正常を取り戻した頭が狂いそうになる。
早く早く、逢いたい、逢わせてくれ——!
控えめなノックが、二回。
今にも叫び出してしまいそうな喉の奥から、辛うじて人の言葉を引きずり出す。
「——入れ」
「失礼いたします」
扉越しに聞こえた、ここでは聞き慣れない幼子独特の声音。
何より、あの心地よい魔力を感じる。
重い身体を支える腕に、自然と力が漲った。
「殿下、ご気分はいかがですか?」
柔らかな言葉と、甘やかな微笑み。
先ほどまでのどうしようもない恐怖が、一瞬にして消え失せ、代わりに堪らない焦燥感が生まれる。
「喉が渇きませんか? 今、果実水をいただいてきたんです。冷たいですよ」
果実と氷に満たされた汗をかいた硝子の水差しを両手で抱え、こちらへと近づいてくる。
あぁ、早く、早く——!
「水分補給をしたら、湯あみにしますか? 軽くお食事も——うわっ!?」
ベッド脇の小卓に水差しを置くのを確認し、彼の腕を引っ張り自分の元へと引き寄せる。
「ルナリア、ルナリア……」
見開かれた零れ落ちそうなキャンディピンクが、真っ直ぐに私を見てくれる。
優しい魔力も、温かい肌も、その全てが快い。
首筋に顔を埋め、深く呼吸を繰り返すと、あれほど荒れ狂っていた胸の内が、ゆっくりと凪いでいくのが分かる。
大丈夫。もう、大丈夫……
「……落ち着きましたか?」
耳元で囁かれる甘く優しい声と、背中を撫でてくれる心地よい手。
こんなに気持ちいいことが、この世にあったのか。
緩やかに全身を巡る彼の魔力が、せっかく目覚めた身体を再び眠りへと誘っていく。
とろとろと夢見心地で、受け取った果実水を飲む。
冷たくて、甘い。
あぁ、これはこんなにも美味しいものだったのか。
「眠れそうなら、もう少し眠りましょう。今は眠ってお身体を回復させることが一番いいって、お医者様がおっしゃっていました」
優しく横たえられ、髪を撫でられる。
気持ちがいい。
呪いの象徴であるこの黒髪を、こんなにも優しく撫でてくれる人がいるなんて。
「……殿下?」
温かな白い手を握る。
——振り払われない。泣いてしまいそうだった。
「……こわかった」
「……え、と?」
戸惑ったように、握り返される手の温度。
……幸せだ。
「目覚めた時、君の姿がなくて……」
「あぁ! ……申し訳ありません。次にお目覚めの時には、必ずお側におりますからね」
優しい笑顔で、欲しい言葉をくれる。
心地よい安堵は、急速に眠りへと意識を誘っていった。
「……あぁ、ずっと——……」
離れないで。傍にいて。
どうか、この命が尽きる、その日まで——……
.




