37. 魔法オタクは己の立場を思い知る
「おいテメェ! 歯ぁ食いしばれ!!」
「ソル!」
「エビネ、構わん」
拳が頬を打つ鈍い音に、夢見心地から現実に引き戻される。
そのまま床に放り出される殿下に駆け寄ろうとして、兄さんに腕を掴まれた。
痛いほどの力で引っ張られると、彼の背後へと押し込まれる。
「に、兄さん——っ!」
「無事か?」
「は、い……」
「……一発程度で王家が無事で済んだことを、有り難く思え」
エビネ様に取り押さえられながら怒りを露わにする兄さんに、改めて事の重さを実感する。
しかしどんな理由であれ、王太子に手を上げたのは不味い。
誰かに見られでもしたら——!
血の気が引く思いで周囲を確認し、そこが王太子執務室であることに安堵する。
大方、エビネ様が機転をきかせてくれたのだろう。
≪闇檻≫からは抜け出せたけれど、闇の魔力は俺の身体に絡みついたまま離れない。
——殿下の魔力が、酷く不安定だ。
安定者としての任を解かれて以来、こんなに暴走してしまったことがあっただろうか?
殴られながらもギラギラとした目を俺から逸らさない殿下に、堪らない気持ちになる。
「兄さん、お願い。お願いします、どうか——……」
「……ちっ! 少しでもおかしな真似したら、その首跳ね飛ばすからな」
「ソル、それは俺が見過ごせないよ」
「ありがとうございます、兄さん!」
床に蹲ったまま肩を上下に揺らす殿下の表情は、あの頃と同じ無だ。
それでも、駆け寄り床に膝をつく俺の腹に顔を埋める仕草は、紛れもなく縋るもの。
すっかり俺よりも大きく育ってしまった身体に腕を回し、緩やかに魔力を交わす。
荒れ狂う闇の魔力は触れると痛いほどで、初めて出逢った時を思い起こさせた。
「殿下、ゆっくり呼吸をしてください。俺の魔力を感じて……」
「……嫌だ、そんな……」
表情は見えないけれど、明らかに拗ねた口調。
両腕をしっかりと身体に回され、腹にぐりぐりと顔を埋められる。
……子供だ。
だけど俺には、この大きな子供がどうしてへそを曲げてしまったのかが分かってしまう。
「ヴァン、いい子だから……」
「……ん」
小さく頷いた気配。
そのまま数回深く呼吸するだけで、あれほど荒れ狂っていた魔力は嘘のように凪いだ。
安定が確信できたタイミングで、漆黒の髪を撫で顔を上げるよう促す。
片耳を彩るキャンディピンクが愛おしい。
切れて血を流す殿下の口元に≪光癒≫をかけて、唇の動きだけでごめんなさい、と告げた。
その場で兄さんに向き直り、そのまま額づく。
腕を組み一部始終を見ていた兄さんの眼差しは、硬い。
「当主代理。判断を誤ったのは私です。責は、全て私が負います」
「っ、違っ!」
口を開きかけた殿下を、片手で制止する。
これはルーチェの問題。
王族とて、口出しは許されない。
「そうだな、お前が悪い」
「はい」
一刀両断、返す言葉もない。
一言で言葉の空気を支配した兄さんは、ゆっくりとソファへと腰掛けた。
脚を組むその一連の動きは酷く洗練された強者そのもので、彼を実年齢よりも遥かに老成して魅せる。
「実に軽率で安易で浅はかだ」
「はい」
「他家にまで波及させた時点で、越えてはならない線を越えた。それが世界の理を壊す行為だと、理解していないはずがない。ルーチェを危機に晒す者を、俺は容赦しない。——首を切るべきは、お前か」
ヒュッと、息が詰まった。
——もしこれがルーチェを好まざる外野に知られれば、俺は異端とされ断罪される格好の的になる。
知らず“ののの”のお気楽さにあてられていたのか、事態をあまりにも楽観視し過ぎていた——……
「ソル、何もそんな言い方は、」
「黙れ」
温度のない一刀両断に、エビネ様が口を噤み、頭を下げる。
快適な室温を保つ執務室が、今は寒いくらいだ。
「俺はそんなに頼りないか」
「……え?」
トーンの落ちた口調に、何を言われているのかが分からなくて、一瞬呆けてしまう。
「お前から見た俺は、魔力が低く力の及ばない、取るに足らない兄なのか。相談する価値もないか?」
「何を言って——!? そんなことっ!」
あるわけがない——!
「ならば慎め。口だけでなく、行動で示してみせろ」
「っ! ——イエス、マイ・マスター」
……一切の反論さえ許してもらえない。
しかし、全ては自分の浅慮が招いたことだ。
屋敷での謹慎か、領地への帰還か——……
「——とまぁ、ここまでは当主代理として、だ」
「…………へ……?」
ガラリと変わった空気に、思わず頭を上げる。
すっかり皺の寄った眉間に手をやり、深海にまで到達しそうな深い溜息を吐いた兄さんが、苦く微笑む。
「ダチに新たな可能性を与えてくれたことを、咎める気はない。そこは誤解するな」
「兄さん——っ!」
思わず立ち上がって抱き着こ——うとして、正面からまともにデコピンを喰らう。
「うっ!」
「やり方に問題があるってことには違ぇねぇんだよ! この魔法バカが!」
「ごめんなさいぃ〜」
押さえた額が痛い。
いや、これで済ましてくれるって、物凄く寛大なんだよ……
傍らに立つエビネ様に視線を送った兄さんが、溜め息混じりの声を出す。
「エビネ、悪いがこの件は——」
「無論だ。……しかしすまない、父への最低限の報告を許してほしい」
「それは仕方ねぇよ。……まぁ、侯爵閣下であれば上手くやってくれんだろ」
「あぁ、そこは期待してくれて構わない。グラディクトはルーチェの盟友だ」
揺るぎないエビネ様の言葉に、兄さんの表情にようやくいつもの笑みが戻る。
「な、エビネ。魔法バカだって、俺が話した通りだろ?」
ニィと上がった口角に、今度はエビネ様が困ったように俺と兄さんを見比べる。
「いや、まぁ、何というか……好奇心が勝ると後先考えられなくなる典型的魔法師タイプであるとは、言えるかもしれないな」
カーキの髪を掻き上げながら、ゆっくりと考えながら言葉を紡ぐ。
……いや、エビネ様。それはフォローになってない!
「それ、つまり魔法バカってことですよね!?」
「君のそんな面が知れて、私は僥倖だ」
「殿下ぁ……」
無表情の中にあるガチの気配に、胸がじんと甘く疼く。
緊張が切れてへたり込む俺に甲斐甲斐しく手を貸してくれる殿下の体温を噛み締めていると。
「お前、風だったのな」
「あぁ、実感はないのだが……」
「そりゃそうだ。魔力を得たからってすぐどうこう変わるもんじゃねぇよ。お前はお前だ」
気安い親友同士の会話に、つい耳をそばだててしまう。
「まぁ、まずは基礎訓練からだな。その年齢で、ご愁傷様なこった」
兄さんのからかい口調に、エビネ様が困ったように微笑む。
「行き詰まったら助けてくれるだろう?」
「ハッ! 甘えてんじゃねーよ、バーカ」
ソファから軽快な動きで立ち上がった兄さんが、エビネ様の背中を叩きながら艶やかに笑う。
「ま、気が向いたらな」
蒼穹の宝石眼が、窓から差し込む日差しに煌めいた。
……この瞬間のエビネ様の顔、みんなに見せてあげたかったよね。
“先日、階段から落下した愚息に関し、迅速なるご助力を賜ったと聞き及んでおります。グラディクトは、このご厚意を忘れは致しません。いずれ然るべき形にて。”
——グラディクト侯爵閣下から山ほどのマカロンと菫の砂糖漬けが届いたのは、翌日の話。
.




