29. 従者、日常に戻る
王太子執務室に入ると、先ほどはできなかった礼を捧げる。
「宵闇の君にご挨拶を申し上げます」
「顔を上げて」
慣れ親しんだ口上と共に身体に染みついた臣下の礼を取る俺に、王太子殿下が悠然と告げる。
久々の感覚にそろりと顔を上げると、殿下がじっと俺を見つめていた。
漆黒の瞳と髪、褐色の肌に纏うのはいつも黒い服ばかり。
無表情を通り越して表情筋が死んでいるせいで、感情が分かりにくいところが玉に瑕。
……でも、分かりにくいだけであって分からないわけではないところがポイントだ。
「……可愛いな」
「は、い?」
「その髪型は幼い頃以来だ。愛らしくて、私は好きだ」
「っ!」
いつもは登城仕様に前髪を後ろに掻き上げたスタイルにしているが、先ほどの第一王子殿下のせいで台無しだ。
癖のない髪は重力に負け、すっかり降りてしまっている。
額が隠れるとますます子供っぽく見えてしまうから嫌なのに。
思ってもいなかった台詞に、頬が熱くなる。
憎らしくなってちょっと睨んだのに、殿下の目元は微かに緩んだ。
……あ、その表情は反則。
「あー、殿下。ルーチェ令息がお困りですよ」
見ていられなくなったのだろう、傍で控えている王太子付騎士が、咳払いをしながら助け船を出してくれる。
……危ない、うっかり流されるところだった。
グラディクト侯爵令息である、エビネ様。
確か、三男だったかな?
見るからに温厚そうな優しげな顔立ちながら、鍛え抜かれた2m近い長身を誇る。
鮮やかなペリドットの瞳に、砂色の髪を持つ青年だ。
グラディクト家は古参の高位貴族であり、代々優秀な騎士を多く輩出する家門。
侯爵閣下は王城騎士団長を務める凄腕だ。
現在は王城騎士団付の近衛候補生であるエビネ様自身も、学園卒業後は正式入団を希望しているという。
騎士様の制服がよく似合っていて、甲冑は胸元だけの簡易的なもの。
腰に下げた剣と相まって、いつもすごく格好いい。
王城内では専属騎士にのみ許される装いだ。
ちなみに、エビネ様はゲームには設定そのものがない。
こんなに素敵なのに、勿体ないよね……
他の貴族と相容れないルーチェではあるけれど、グラディクトとは代々良好な関係を築いている。
……脳筋同士、馬が合うんだろうな。
「ルナリアは、困ってなどいない」
「そんなにぐいぐい迫られたら、困っていても言えませんよ」
兄さんと同級生、2歳年上のエビネ様は、殿下の扱いも慣れたものだ。
エビネ様が相手だと、いつもは人形のような殿下が、血の通った人間になる。
この二人のやり取りを見るのが、とても好きだ。
「長い休暇をありがとうございました。そちらの書類の分類から始めますね」
「長旅で疲れてはいないか?」
「馬車に乗っているだけですからね。もう慣れっこです」
微笑んでみせると、殿下の纏う空気がやっと柔らかくなる。
エビネ様が安堵したように微かに肩の力を抜くと、謝意を示すかのように俺に目線をくれた。
こちらもそれと分からぬように、小さく頷いて見せる。
俺不在の約一ヶ月間、毎分毎秒あのヒリついた空気を耐え忍んでいたのだろうか?
……まさかね。
気を取り直して、意識を仕事モードに切り替え、集中。
急ぎの案件とそうでないものはもう分類されている。
さすがは王城勤めの凄腕文官たち。
その中から更に案件ごとに取りまとめて、更に時系列が分かりやすいように……あ、計算ミス発見。
こっちは過去の時系列があった方が分かりやすいから、文官さんに一度差し戻すことにしよう。
書棚の少し高い位置にある資料に手を伸ばすと、すかさず長身のエビネ様が取ってくれる。
「ありがとうございます」
「いいえ、そちらは片づけますか?」
「助かります」
……この調子であれば、今日中には片づきそうだ。
何も変わらない日常に、小さく安堵の息を吐いた。
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