第51話 『北の報せ』
雨は去ったが、安心は長く続かなかった。
ラグナ村の朝は静かだった。
畑には薄く緑が戻り、土はまだ痩せているものの、完全な死色ではない。人々の表情にも、ようやく“次を考える余地”が生まれていた。
国家備蓄制度の通達は各村に行き渡り、南部連盟の会合も以前ほど張り詰めたものではなくなっている。
それでもエリシアは、板の前から離れなかった。
国家備蓄率。
地域別倉庫整備状況。
南部価格推移。
投機監視機構の摘発件数。
数字は少しずつ落ち着きを取り戻している。
だが、落ち着いている時ほど、次の綻びは見えにくい。
「……南部は持ち直してる」
レオンが板を覗き込みながら言った。
「はい」
エリシアは頷く。
「でも、完全ではありません」
「嬢は相変わらずだな」
苦笑まじりの声。
「少しは喜べよ」
「喜んでいます」
そう言って、ほんの少しだけ微笑む。
本当に、少しだけ。
ルナが広場を走り回っている。リリアナがそれを見守り、ナディアは荷車の車輪を点検していた。アデルは今日、ローヴェル領へ戻っているが、夕刻には次の備蓄比率の確認に来る予定だ。
平穏。
少なくとも表面上は。
そのとき、村の入り口から馬の蹄の音が響いた。
速い。
急ぎの使者だと分かる。
ナディアが顔を上げる。
「また王都か?」
埃を上げて駆け込んできたのは、王都議会の伝令だった。馬は汗を吹き、使者の顔色は青い。
「南部連盟代表、エリシア・ヴァルドール!」
「はい」
使者は鞍袋から封を取り出す。王都議会の紋章。そして、その横に見慣れない北方紋章が押されていた。
嫌な予感がした。
封を切る前から、胸の奥がわずかに冷える。
ミレイアがちょうど集会小屋から出てきて、彼女の手元を見た。
「北部議会補佐院……?」
エリシアは無言で封を切る。
中の文は簡潔だった。
『北部グランデル地方において、主要穀倉地帯の収穫激減を確認。緊急調査と対策協議を要請する』
広場の空気が、すうっと冷えた。
「……北部」
ナディアが低く呟く。
「北って、あの大穀倉地帯か?」
「はい」
ミレイアが先に答える。
「王国北部最大の農業地帯。平年なら南部の二倍以上を出す」
「そこが?」
レオンが言いかける。
エリシアは手紙の二枚目を開いた。
添付された速報値。
主要三地区、収穫見込み四割減。
地下水位急低下。
夏季高温の異常継続。
備蓄率、平時前提のまま。
「……干ばつ」
小さく、しかしはっきりと口にした。
ルナが走る足を止める。
「また?」
その声は幼く、真っ直ぐだった。
エリシアはすぐには答えられない。
また、だ。
周期は巡る。
南部だけでは終わらなかった。
「北部は慢性じゃない」
ミレイアが資料を覗き込みながら言う。
「突発型です」
「突発……?」
レオンが眉をひそめる。
「南部のように、じわじわではない?」
「はい」
エリシアが答える。
「南部は何年もかけて乾いていった。だから、最悪でも“予兆”はあった」
「北部は違う」
ミレイアが続ける。
「大穀倉地帯ゆえに、平年収量を前提に回している。備えが薄いまま、一気に落ちた」
ナディアが舌打ちする。
「最悪じゃねぇか」
「はい」
最悪だ。
平時の豊かさは、非常時の脆さになる。
収穫が当たり前の土地ほど、備蓄を軽んじる。
市場が強い土地ほど、国家の床を嫌う。
そして今、その両方を満たす地域が崩れ始めている。
「価格は?」
エリシアが問う。
ミレイアは即座に計算板を取り出した。
「南部価格はまだ安定域」
指が素早く動く。
「ただし、北部収穫激減の報が王都に届けば……」
「再上昇します」
エリシアが言った。
「しかも今度は南部以上に速い」
「なぜだ」
ブレイン村の代表が、いつの間にか広場に来ていて問うた。
「北部は供給規模が大きいからです」
エリシアは手紙を掲げる。
「大穀倉地帯が揺らげば、王都は恐怖で動く。投機も、買い込みも、南部の比ではない」
沈黙。
せっかく静まり始めた価格が、また燃える。
しかも今度は、国家備蓄制度が始まったばかりの時期だ。
制度の真価が問われる。
いや――制度の“弱さ”を突かれる可能性の方が高い。
「バルドが動くな」
ナディアが吐き捨てた。
「確実に」
ミレイアも同意する。
王都議会。
国家備蓄制度成立。
投機監視の導入。
それらへの反発を、北部危機に乗せてくるだろう。
「国家制度の初試験になる」
エリシアはそう言って、板に新しい欄を作った。
北部収穫率。
北部備蓄率。
王都価格感応度。
国家備蓄放出基準。
広場の空気が変わる。
南部のための板ではない。
今度は国家全体の板だ。
レオンがその文字列を見上げた。
「……また始まるのか」
「はい」
エリシアは頷いた。
「でも同じではありません」
「何が違う」
「南部には連盟があった」
静かな言葉。
「北部には、まだありません」
それが意味するものを、全員が理解した。
北部は豊かだった。
だから備えなかった。
だから連帯も薄い。
大地主制、商業農業、強い市場依存。
南部より厄介だ。
制度をそのまま持っていっても、通らない可能性が高い。
そのとき、アデルがローヴェルから戻ってきた。
馬を降りるなり、広場の空気を見て顔をしかめる。
「何があった」
ミレイアが手紙を差し出す。
一読して、アデルの目が細くなった。
「……北か」
「はい」
「早いな」
「はい」
短いやり取り。
だが十分だった。
アデルは板を見つめる。
「制度は通ったばかりだ」
「だからこそです」
エリシアが言う。
「試されます」
「北部は南部じゃない」
「分かっています」
「地主が強い。商人も強い。現場が制度を受け入れるとは限らない」
「分かっています」
静かな応酬。
アデルは腕を組み、しばらく黙ったあと、低く言う。
「行くのか」
問うまでもない問い。
だが、答えは必要だった。
エリシアは手紙を握ったまま、空を見上げた。
南部の空は、まだ少し湿っている。
だが北部は、もう乾き始めているのだろう。
「行きます」
迷いはなかった。
怖くないわけではない。
むしろ怖い。
南部で通ったものが、北部で通らなかったらどうするのか。
国家制度が初手で失敗したらどうするのか。
王都は再び揺れ、バルドは息を吹き返すだろう。
それでも。
「私が設計した制度です」
広場の全員を見て、言う。
「他の土地で壊れるなら、その責任も見ます」
ルナが小さく手を挙げた。
「責任って、またそれ?」
少しだけ笑いがこぼれる。
重い空気の中で、ほんのわずかに。
エリシアはしゃがんでルナと目を合わせた。
「そう。またそれです」
「たいへんだね」
「はい」
「でも行くの?」
「行きます」
ルナはしばらく考え、それからこくりと頷いた。
「じゃあ、気をつけて」
「ありがとう」
立ち上がる。
エリシアは板の一番下に、新しい言葉を書いた。
**北部――調査開始**
南部連盟の面々が、それを見つめる。
国家制度は紙の上では成立した。
だが現実は、紙の通りには動かない。
それでも進むしかない。
周期は巡る。
干ばつも、政治も、責任も。
広場を吹き抜ける風は、どこか冷たかった。
北から来る風だ。
嵐は、まだ始まったばかりだった。
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