61.電設のヒデオさん、石にされる。
交通事故に遭った人は、世界がスローモーションに見えたりするらしい。
生命の危機に瀕した際に、脳のリミッターが外れて情報処理が高速化する事により、主観的な時間が伸長する、とか何とか。
そういう話を聞いた事がある。
聞いた事はあったが、体験した事は無かった。今までは。
「……………………」
世界がスローモーションで流れる。
世界から色が失われ、モノクロに変わる。
世界から音が失われ、静寂に包まれる。
スクーターは宙に跳ね上がっている。この状態では、どうする事もできない。
勇者級の身体能力があっても、空は飛べない。
石像になるまでの体感時間が長引くだけ。無駄。無意味。
「ますたー」
色も音も失われた世界の中で、そこだけが鮮明だった。
諦観に呑まれかけた精神を、鮮烈な可愛さが刺激する。
可愛いフェアこそが正義。わずかに意識が立ち直り、正気を取り戻す。
自分は正気です。
「……っ……」
まだできる事はある。全て諦めて投げ出すには、まだ早い。
スクーターに刺していたカバーを引き抜く。
ハンドルを握り締め、空中で大きく振りかぶる。
足場が無いせいで踏ん張りが利かない。勇者級の身体能力でゴリ押しする。
開けられた大口に目掛けて、スクーターを全力でブン投げた。反動で、落下の軌道がズレた。
喉の奥から光が溢れる寸前、見事シュートが決まった。
大口が閉じられ、スクーターは一噛みで噛み砕かれる。
火花が一瞬散った。
一瞬で火花は消えた。
「ぐぇっ!?」
地面に顔面ダイブ。痛みは無いが、変な声が出た。
スローモーションが終わる。世界が元の早さで流れ始める。世界に色と音が戻ってくる。
生きてる。自分は、まだ生きてる。石像にはなってない。
「うえぇっ、ぺっ、ぺっ……口に入った……」
口の中がジャリジャリして気持ち悪い。
勇者級の身体能力があっても、砂を噛むと気持ち悪い。
土の味のマズさに、意識が不思議とハッキリした。
「フェア、無事?」
「はい。無事です。ますたー」
手の中のカバーには、いつも通りのフェアの姿が映っている。石にされなくて良かった。
一瞬、ホッとした。
ホッとできたのは一瞬だけだった。
「はははっ……めっちゃ怒ってらっしゃるわぁ……ヘビの大将……」
爬虫類マニアでなくても、わかる。
表情は読めないが、わかる。
怒ってる。超怒ってる。中央の左首が超怒ってる。
当然と言えば当然。後頭部にバイクをぶつけたのも、ついさっきスクーターを口に放り込んだのも、中央の左首だ。そりゃ怒るわ、当然。
「……くそっ……足が言う事聞かねえ……」
逃げなければマズい。頭では、わかってる。でも、できない。動けない。
まるで石にされてしまったかのように、うまく足が動かない。
地面に手を付いたまま、うまく腕に力が入らない。
地べたに座り込んで、見上げる事しかできない。立ち上がる事すらできない。
逃げられない。
石化の危機を間一髪で回避できた安堵が、悪い方に作用している。
極度の緊張と、安堵による解放。緩みきった所に、魔物の怒りを真正面から浴びせられた。
身体が制御不能に陥っている。意識だけは妙にハッキリしている。意識と身体制御のリンクが切れて繋がらない。
身体が石にされたかのように固まって動かない。動けない。
十本首の赤蛇が近付いてくる。鎌首をもたげて悠々と近付いてくる。
さっきまでとは打って変わり、もう急ぐつもりは無いらしい。ヘビに睨まれたカエルに向かって、余裕の態度で近付いてくる。
「……まあ、無駄にはならないか、一応……」
中央の左首は超怒ってる。逆に、残りの九本首は案外怒ってないっぽい。むしろ、ちょっと楽しそうな雰囲気を感じる。気のせいかもしれないけど。
良くも悪くも、十本首の赤蛇の興味は今、完全に自分に集中している。十本の首の全てが、一心に自分を見つめている。他への興味を完全に失っている。
この分なら、中央の左首の憂さ晴らしが終わった後には、そのまま縄張りに帰ってくれるかもしれない。
自分一人で終わってくれるなら、最低最悪の事態だけは、どうにか回避できるかもしれない。
この状況は、必ずしも悪くは無い。
見っともない最期の悪足掻きが無駄にならずに済むのなら、悪くは無いと思える。
悪くは無いと思いながら、終われる。
「……はぁ……もう二度とやらねえぞ、こんな役回り……」
それでもやっぱり嫌なものは嫌だ。このまま終わるなんて嫌だ。
悪くは無いが、良くも無い。こんな結末、嫌だ。
帰りたい。
「……ああ、まったく、嫌だ嫌だ……」
我ながら、この期に及んで未練がましい。最期の最期まで、ちっとも男らしくいられない自分が嫌だ。
「……フェア、絶対に出てこないように。これ命令。絶対だよ」
「ますたー」
「しばらく静かにしてて。……まあ、意味無いかもだけど……」
ほとんどダメ元で、自分の背中にカバーを隠す。他にできる事が無い。これが、今の自分にできる精一杯。情けない。
中央の左首が大口を開けた。喉の奥に、水色の光が溜まっていく。
「……っ……」
狙いを絶対に外したくないのか、中央の左首が近付いてくる。
数秒後、水色の光が溜まりきり、放たれる。
「にゃああああああああああああああああっ!」
直前。赤い頭を黒い塊が下から突き上げた。
「……………………えっ?」
アゴに強烈な一撃を食らい、中央の左首が天を仰ぐ。強引に閉じられた口の隙間から、空に向かって水色の光が漏れ出て消えた。
アゴに強烈な一撃を食らわせた黒い塊は、勢い余ってしばらく滞空した後、別の首からの頭突きによって地面に叩き落とされた。
咄嗟に体が動いた。
「っ、間に合え!?ぐぇっ!?」
「ぶにゃっ!?」
黒い塊が地面に叩き付けられる寸前、自分の体を滑り込ませる事にギリギリ成功。ギリギリ間に合った。
でも目測を誤り顔面キャッチ。変な声が出た。
カッコ良く両手でキャッチしたかったのに、カッコつかない。こんな時くらい、少しは勇者補正とか効いてくれてもいいのに。
顔面から黒い塊を引き剥がす。よく見慣れた黒だった。
「なんでいるんだよ、黒夫!?」
黒夫がいた。
「どうやって来た!?もう1時間経ったのか!?どうしてここにいるってわかったんだ!?……い、いや、そんな事より!なんで来たんだよ!待ってろって言っただろ!」
「ふんっ!ニンゲンの言う事なんか聞くもんか!オレはオレのやりたいようにやるぞ!」
「んなこと言ってる場合か!?」
こんな時まで面倒臭い。もう本当に面倒臭くて面倒臭くて、どうしようも無い猫である。
もう本当にどうしようも無さすぎて頭ん中グチャグチャになりそう。喜怒哀楽恐の整理が追い付かない。
自分の感情の整理は後回し。とにかく面倒臭い猫をどうにかするのが先だ。
「ええい、来ちまったもんはしょうがねえ!こっちで何とか注意を引き付けるから、お前は逃げ――……っ……!?」
黒夫は足が速い。本気で逃げれば、逃げきれる可能性はゼロじゃない。
今からでも、逃がせば助かる見込みはあるはず。そう思った。
そう思ったのに、逃がせなかった。
「く、黒夫……、お、お前、その足、どうした……!?」
足が、変な方向を向いていた。
一瞬、狼男のように身体を獣化したのかと思った。
そうではなかった。人間そっくりな足のまま、変な方向を向いていた。
「にゃははっ……全力出しすぎて、折れちゃった……」
「折れるほど全力出す奴があるか馬鹿!」
それは、魔物に一撃を食らわせた代償だった。
石化のブレスは防げた。その代償に、黒夫は脚力を喪失した。
これでは、逃がそうにも逃がせない。
「なんで俺なんか助けたんだよ馬鹿!」
「た、助けてないぞ!急に全力で走ってみたくなっただけだ!」
「どんな言い訳だ!?」
おかげで九死に一生を得た。しかし、窮地から脱するには程遠い。このままでは、共倒れにしかならない。
たったの一撃では、魔物は怯まない。のけぞっていた首が、こちらを見下ろしてくる。また大口が開く。喉の奥に水色の光が溜まっていく。
再び、大口を近付けてくる。絶対に外さない至近距離。
黒夫の脚力が喪失しているのは、一目でバレている。もうアゴへの一撃は無いとバレている。
数秒後、水色の光が溜まりきり、放たれる。
「――――――――a――――――――」
直前。咆哮が轟く。空間ごと揺さぶるかのような凄まじい大声。地面が波打った。
「……………………えっ?」
中央の左首がグラリッと傾き、水色の光が明後日の方向に飛んで消えた。
震源地には、白い塊。
至近からの激烈な轟音の余波で、一瞬、魔物の動きが止まった。
止まったのは、ホンの一瞬。
次の瞬間、別の首の頭突きが白い塊を弾き飛ばした。
白い塊を受け止めようと手を伸ばした。
「っ、今度こそ!?ぐぇっ!?」
「きゃあっ!?」
手を伸ばすまでも無く、こっちに弾き飛ばされてきていた。
また顔面キャッチ。また変な声が出た。
下手に手を伸ばさなければ、そのまま受け止められたかもしれない。無駄に動かなければ良かった。
顔面から白い塊を引き剥がす。よく見慣れた白だった。
「魅雪!?いつの間に!?」
魅雪がいた。
「なんで魅雪まで!?どうやって追い付いたんだ!?いつの間に来てたんだ!?……い、いや、そんな事より!なんで来てるんだよ!?」
「けほっ。……おじちゃん?お口パクパクさせて、どうしたの?」
おそらく、自分の注意が魔物と黒夫に向いている内に近付いたのだろう。
魔物は魔物で、意識を完全にこちらに向けていたせいで接近を許し、至近で轟音の直撃を食らったのだろう。
だが今はそんな事どうでもいい。自分の事も、魔物の事も、どうでもいい。
「み、魅雪……、み、耳から、血が……!?」
「けほ、けほっ。……おじちゃん?さっきからどうしたの?お口パクパクさせて、お腹空いたの?」
「声が聞こえてない……!?」
それは、魔物の動きを止めた代償だった。
魔物の首をグラつかせるほどの咆哮。音響兵器並の音源を生身で行使した結果、魅雪は聴力を喪失した。
これでは、逃げるように言い聞かせる事もできない。
「っ、二人がいるって事は、まさか!?」
ふと、嫌な予感がした。慌てて辺りを見回す。
いた。
離れた所に、ムチムチさんがいた。ムチムチさんなりに必死になって、こちらに走ってきていた。
走っていると言うか、おそらく本人的には走っているつもりだろう感じのフォームで、ヘロヘロと歩いてきていた。
特定部位、揺れてる。
遠目にもわかるくらい、揺れてる。
男心が揺れた。変な火が付いた。
「……本当に、しょうがないな……」
せっかく火が消えていたのに、また火が付いてしまった。
だから、しょうがない。
これから自分がやる事は全部、もう本当にしょうがない事だ。
「あ、コケた」
現状、頼れる人が他にいない。
他にいない以上、頼るしかない。
距離が結構離れている。魔物の興味の範囲外。
今の自分に視認可能な範囲内で、一番マシな安全地帯がそこしかない。
「チビどもが!お姉ちゃんと一緒に待ってろって言っただろうが!」
「「うわぁっ!?」」
黒夫と魅雪の襟首を引っ掴み、持ち上げ、振りかぶる。
丁寧に扱ってなんかやらない。物のように雑に扱う。
「本当にもうどうしようもねえチビどもが!大人の言う事ちゃんと聞け!」
命より大事なものなんて、あるものか。
そんな当たり前の事もわかってないような子供には、こんな扱いで十分だ。
自分は大人の男だから、当然、わかってる。わかってるから、自分は別にいい。
「犬死になったら死ぬほど恨んでやるからな!」
全力でブン投げた。腕の骨も折れないし、出血もしないし、子供達とは比べ物にならないほどショボい全力だけど、まあとにかく自分なりに全力で投げた。
完全に物扱いだが、文句は受け付けない。こんな所までノコノコやって来た方が悪い。自分は悪くない。
「ニンゲン!?」
「おじちゃん!?」
投げ飛ばされた黒夫と魅雪が、空中でマヌケ面してる。
マヌケ面したまま飛んでいく。
笑える。
笑えるから、笑う。
「はははっ!大人を助けようなんざ生意気なんだよ、チビどもが!毛ぇ生え揃ってから出直して来い!……いや、やっぱ来ちゃダメだな。うん。戻って来るなよー」
子供二人分の質量をブン投げた反動で、姿勢が崩れた。
両手で二人を投げたせいで、地面に手も付けない。そのまま尻モチついて、へたり込む。
見上げた先には、鎌首をもたげた赤い頭。中央の左首が大口を開けている。
ちょっと距離が遠い。横槍を警戒しているのか、もう頭を近付けてくる気は無いらしい。
喉の奥には、すでに水色の光が溜まりきっている。
「……絶対に、もう二度と、こんな事しねぇっ……」
手の届かない頭上から、水色の光が降り注いだ。
「うわああああああああっ!」
そして、石にされた。
スキル設定。
【スキル:過速】
身体の限界を超えた速度で動けます。
速度は大幅に上昇しますが、身体強度は変わりません。
【スキル:声焉】
指向性の音波攻撃を放ちます。
余波が無差別に波及します。




