42.電設のヒデオさん、魔法陣を調べる。
勇者召喚の魔法陣は、異世界に行くために開発された魔法陣の失敗作である。
今から千年前、王国は滅亡の危機に瀕した。南からは魔族、北からは諸外国に攻め込まれ、進退窮まった。
追い込まれた王国は、完全な滅亡を避けるための最後の手段として『王子と王女を異世界に避難させる』という計画を立案した。来るべき再起の日のために希望を託して若い王族を異世界に一時避難させる、そのための魔法陣を宮廷魔術師達は総出で開発した。
碌な試験もできないまま、ぶっつけ本番で起動された魔法陣は、物の見事に誤作動を起こし、異世界より一人の男性を召喚した。それこそが初代勇者。千年前の王国を救い、王女様と結婚して王様となった初代勇者王様である。
余談だが、初代勇者王様は生涯妻一筋の愛妻家だったらしい。
初代勇者の召喚から50年後、王国は再び窮地に陥った。すでに勇者王様は亡く、封印されていた魔法陣は再び起動され、異世界より一人の老婆を召喚した。それこそが二代目勇者。戦場に存在する全ての人間と魔族に等しく死を与えた、老婆の姿をした災厄である。
戦場を屍の野と化した後、老婆は王国を放置し、さっさと自力で元の世界に帰還している。被害甚大ながらも、王国は滅亡を免れた。
二代目勇者の召喚から50年後、王国は三度目の勇者召喚を試みる事にした。当時の王国は別に窮地でも何でも無かったが、王族が『人格も能力も優れた異世界人を召喚できれば、世界の覇権を握れるのではないか』という分不相応な夢を抱いた末の凶行だった。
この時、勇者召喚に際して、これまでとは変更された点があった。
まず第一に、勇者召喚の魔法陣に近付けるのは、王族と宮廷魔術師長だけという制限が課せられた。他の宮廷魔術師達は、近寄る事が許されなくなった。万が一にも他国に魔法陣をコピーされてしまわないよう、機密保持のためである。
本来であれば宮廷魔術師達が総出で起動するはずの魔法陣は、宮廷魔術師長単独では起動に必要な魔力が足りないため、大量の魔石をかき集めて使う事で不足分を補う事になった。王国の財政が傾くほどの金がかかった。
第二に、勇者召喚の魔法陣の改良が行われた。王国にとって有益な勇者を召喚するためである。
準備に大金をかけすぎて財政的に窮地に陥ってしまった以上、勇者召喚は絶対に成功させなければならない。元を取らないと王国は滅ぶ、財政的に。元を取るためにも、運任せの召喚など許されない。宮廷魔術師長に、魔法陣の改良の勅命が下された。
当時の宮廷魔術師長は困り果てた。
そもそも、勇者召喚の魔法陣は失敗作である。たまたまバグが運良く有用だっただけで、当初の開発意図とは異なる機能を発揮している。開発者が意図していない機能のため、下手に手を加えると既存の機能が喪失する恐れがあった。
勇者召喚は絶対に成功させなければならない。
だからこそ、魔法陣の本体には絶対に手が出せない。
しかし、勅命には絶対に逆らえない。
苦肉の策として、既存の魔法陣の本体には手を付けず、その周囲に新たに術式を追加した。占術の一種、人探し用の探索術式を、ほとんどダメ元で追加した。
どうせ専門技術的な事など、王族にはわからない。魔法陣に近付けるのは王族と宮廷魔術師長だけなので、余人に気付かれる心配は無い。
とにかく誰でもいいから異世界人さえ召喚できれば、それでいい。後は何とでも言い訳が立つ。悪人そうに見えても実は性根がイイ人だとか、無能そうに見えても実はヤればデキる子だとか、適当に言いくるめれば良い。
ほぼ自棄だった。
ここで想定外の奇跡が起こる。原理不明のバグと、付け焼刃のパッチは、奇跡的に噛み合った。当の宮廷魔術師長自身ですら信じていなかった奇跡は、この時、確かに成就した。
そして、三度目の勇者召喚は成功した。異世界より召喚されたのは、一人の若い女性。強く正しく美しい、まさに追加の術式で指定した条件通りの女勇者だった。
三代目勇者。名は伝わっていない。王族が望んだ通りの、強く正しく美しい女勇者は、その強さと正しさ故に、王族の下を去った。
彼女にとっては望まぬ召喚。縁もゆかりも無い異世界の王国。にもかかわらず、彼女は王国の民のために勇者の力を使った。
民と共に笑い、民と共に泣き、民と共に怒り、民と共に喜び、民と共に戦い、民と共に傷付き、民と共に生き、そして死んだ。
彼女は短命だった。異国の風が合わなかったのか、弱き人々に寄り添う生活が心身に負担となったのか。若く美しい彼女は、若く美しいままに亡くなった。
最期まで、彼女は王族の命令に従わず、王族の望みを一つも叶えなかった。
最期まで、彼女は王国の民のために働き、王国は豊かな国となった。
結果的に、彼女のおかげで王族の権威は増し、王族の憎しみは燃え上がった。
無駄に自尊心の強かった王族にとって、王族を歯牙にもかけない女のおかげで王族の権威が増すという事態は、ただただひたすら屈辱でしかなかったらしい。素直に喜んでおけばいいものを、無駄に自尊心が強い。そのクセ、恩恵を自ら手放すようなプライドの高さは無い。
何もせずに文句を垂れ流しつつ、もらえるものは全部もらう。ずっと昔から、この国の王族はそんな感じである。
彼女の死後、その亡骸の行方は知れない。王族が奪おうとし、王国の民がそれを阻み、激しい内乱が起こる中、いずこかへと消えた。
ちなみに、この時の内乱では辛くも王族側が勝利したが、これを切っ掛けにして様々な運動が活発化した。最終的に、なんか王国の奴隷制度が崩壊したりとかしたらしい。至極どうでもいい。
異世界から召喚した勇者のせいで、王国は変わった。王国の民にとっては良い変化であり、王族にとっては不本意な変化を強いられた。
これに懲りて止めときゃ良かったのに、野望と憎悪を拗らせた王族は、それ以降も勇者を召喚し続けた。
50年ごとに、勇者は召喚される。
50年ごとに、王族は要望を出した。
50年ごとに、宮廷魔術師長は条件術式を追加した。
強い勇者が良い。王国の戦力を結集しても駆逐できない魔族を駆逐し得るほどの力を持った、強い勇者が良い。
強すぎる勇者は良くない。王国の戦力をもって脅せば言う事を聞かせられる程度の力しか持たない、そこそこの強さの勇者が良い。
正しい心を持った勇者が良い。魔族や諸外国の脅威に晒されている王国のため、母国でも無いのに義憤に駆られて戦ってくれるような勇者が良い。
正しすぎる心を持った勇者は良くない。国家の運営に必要となる諸々の必要悪に理解を示し、清濁を併せ吞める勇者が良い。
美しい勇者が良い。戦場の兵士の士気を高め、民の心を一つに束ねる旗印として、見目麗しい勇者が良い。
美しすぎる勇者は良くない。王族の人気を食ってしまわない程度の、そこそこ見れるくらいの見た目の勇者が良い。
頭の良い勇者が良い。一を聞いて十を知り、上からの指示を受けずとも察して先んじて仕事を成し遂げるような勇者が良い。
頭の良すぎる勇者は良くない。上からの命令に何の疑問も不満も抱かず唯々諾々と従い、独自の判断で勝手に動かない勇者が良い。
若く未熟な勇者が良い。その方が駒として操りやすい。
経験豊富な勇者が良い。その方が駒として使いやすい。
男の勇者が良い。王女と政略結婚させて取り込みたい。
女の勇者が良い。王子と政略結婚させて取り込みたい。
何度も勇者は召喚された。いずれの勇者も王族の思い通りにはならず、しかし、王国には利益をもたらした。
何度も王族は要望を出し続け、それがどんな要望であれ、宮廷魔術師長は条件術式を追加し続けた。
もはや完全に要望は破綻していた。
「……そう言えば、今年の社員旅行、どうなったんだろう……」
元の世界の職場で、社員旅行の幹事が頭を抱えていたのを思い出した。
ベテランの若い女性バスガイドを用意しろ、とか何とか専務に無茶ぶりされてたけど、あれ結局どうなったんだろうか。少し気になる。
王国の勇者召喚は50年ごとに行われる。今から50年前にも、王国は勇者を召喚している。
前回、異世界より召喚されたのは、今際の際にある老人だった。辛うじて生きている内に召喚されたものの、召喚直後、老人は亡くなってしまった。
死後、老人の遺体見分が行われた。その身には無数の古傷が刻み付けられていたと言う。
もしかしたら、生前は数多の戦場を駆け抜けた歴戦の英雄だったのかもしれない。老人は何も語らぬ内に亡くなってしまったため、真相は誰も知らない。
為政者にとっては、死んだ英雄だけが良い英雄である。ある意味、王族の要望通りの勇者が召喚されたと言えなくもないが、とても公表できる結果では無かった。
幸か不幸か、三代目勇者召喚以降、王国の勇者教育が完了するまでは公表は差し控える風潮になっていたため、召喚直後に死んだ老人の事を知る者は少なかった。
公式記録上、この時の勇者召喚は行われていない事になっている。
「しっかし、こういう重要な情報、なんでこんなものに書いてんだよ……」
「体に溜まっているものを吐き出しつつ、心に溜まっているものを吐き出していたと推測されます。極めて合理的です。ますたー」
「ええっ……嫌な合理性だなぁ……」
城の書庫の隠し棚から持ち出した春画。その裏には、歴代の宮廷魔術師長の愚痴がグチグチと書き殴られていた。
内容が内容だけに、公的な文書には残せない。かと言って、ただ黙って耐え忍ぶのに耐え切れなかったのだろう。心身に溜まっている色々なものを春画でまとめて吐き出していたようだ。
こちらとしては、情報さえ手に入るなら、入手経路は気にしない。
無題の春画に付箋紙を張り付けて渡してくる時のムチムチさんが、気のせいか物凄いジト目だったような気がするけど、それも気にしない。
気にしないったら気にしない。
残された文書を読む限りでは、歴代の宮廷魔術師長は完全に被害者面である。
王族から無茶ぶりされる立場という意味では、一応被害者と言えなくもないかもしれないが、召喚された勇者側からすれば、馬鹿言うなって感じである。
誘拐の実行犯のクセに図々しい。
まがりなりにも王国に有益な勇者が召喚できている内は、一応まだ理解できなくもない。だが、実質的に老人の死体しか召喚できなかった時点で、もう止めておくべきだったのだ。
プログラム本体にバグがあると知りながら、根本的な原因解明もせず、その場しのぎの修正パッチを幾重にも重ね掛けし続けた末に、とうとう致命的なシステムエラーが発生したようなものである。
本体よりも修正パッチの方が容量の大きいプログラムなど、まともに動くと期待する方がどうかしている。
もう限界が来ている事は、素人目にも明らかだった。宮廷魔術師長は当然として、王族も薄々は気付いていたのではないだろうか。
それでも、誰も止めようとは言わなかった。言ってしまえば、これまでの全てが無駄になる。これまでにかけてきた時間も手間も資金も、全てが無駄だったと認める事になってしまう。失敗も失敗、大失敗である。その責任は、誰が取るのか。
王族は無責任に要望を出すだけの存在に堕している。己の代で責任を取ろうなんて気概、誰も持っていない。
王族が無責任なのに、宮廷魔術師長が責任を取ろうなんて思うはずも無い。三度目の勇者召喚の時から、どうやって責任逃れをするかという事だけを考えて仕事しているフリだけしている。
誰も責任を取りたくないから、誰も従来の慣習を変えない。
従来の慣習に則り、勇者召喚は行われ続けた。
従来の慣習に則り、付け焼刃の条件術式は追加され続けた。
当然、今代の王族も、今代の宮廷魔術師長も、従来の慣習を変えなかった。前回の致命的なシステムエラーには見て見ぬフリをして、過去の失敗の焼き直しを強行した。
無能の極み。無責任の極み。しかし、それを指摘する者はいない。勇者召喚の場には、王族と宮廷魔術師長しかいないのだから。
そして今年、公式記録上では百年ぶりに勇者召喚が行われる事になった。
実に百年ぶりの勇者召喚という事で、王族は気合を入れて、今まで以上に全力で無責任な無茶ぶりをした。
人並外れた才能と経験と併せ持つ、伝説の英雄のような実力者。
上官からの命令に盲目的に服従する、洗礼済の新兵のような従順さ。
政治的にも宗教的にも余計な色に染まっていない、真っ白な精神性。
青い正義を信じている、いかにも騙して利用しやすそうな青二才。
既婚者よりは未婚の者が良く、ついでに見目が良ければ尚良し。
ただし、王族の金髪碧眼よりは多少見劣りする色合いである事。
以上の条件に合致する勇者の召喚。それが王族からの要望だった。
無茶苦茶である。三千世界を探し尽くしても、こんな条件を全て満たしている者など、いるはずが無い。
それでも、宮廷魔術師長は王族の要望に応え、条件術式を追加した。歴代の宮廷魔術師長が仕事しているフリして責任逃れをしたのと同じように。
かくて、今代の勇者は召喚された。
株式会社ブルー精機、電気設備課所属、白木英雄である。
電設の中では一番年少の新人ですが、勤続実績2年あります。お嫁さん募集中。
「よりにもよって、なんで俺……せめてもっと勇者に相応しい奴にしとけよ……いただろ、他にも探せば……」
「いいえ。ますたー以上に勇者に相応しい人財は、他にはいません。ますたー」
「……ああ、うん。ありがとう、フェア。でもそういうのいいからホント」
要するに、またシステムエラーである。過剰な無茶ぶりの果てに、勇者に全く相応しくない平凡なサラリーマンが、勇者として召喚されてしまった。
前回のシステムエラーの原因解明もせずに放置していたのだから、そりゃまたエラーが起きるに決まっている。前回のほぼ死体召喚よりは一応マシと言えなくもないかもしれないが、目くそ鼻くそである。
相も変わらず、王族は責任を取らない。宮廷魔術師長も責任を取らない。
誘拐の主犯にも実行犯にも、責任感も罪悪感も自覚も何もかも一切無い。
当然、そんな連中に付き合う義理など自分には無いので、バックレた。
文句を言われる筋合いは無い。自分は悪くない。自分に責任は無い。
その辺の経緯は、今はどうでもいい。愚痴っても元の世界には帰れないので、ひとまず忘れる。元の世界に帰れたら、その時に改めて盛大に愚痴ろうと思う。
何はともあれ、勇者召喚の魔法陣である。異世界に行くために開発された魔法陣の失敗作ではあるが、その実、重要な機能の大部分は実装できている完成間近の魔法陣でもある。
二つの異なる世界を繋ぎ、人間の安全な移動を可能とする。勇者召喚の魔法陣とは、そういう機能を持った魔法陣である。
最重要で最難関の技術的課題は、すでにクリアしているのだ。ただちょっと移動の方向が逆転しているだけで、もう9割方完成していると言っても過言では無いと言えなくもない。
これはアレだ。うっかり一方通行の道路に入ってしまった自動車をバックさせるようなものだろう、多分。
ペーパードライバーにとっては至難の業だが、帰る方法がそれしかないなら、どうにかするしかない。
どうにかすれば、どうにかなるはずだ。
改めて、勇者召喚の魔法陣を見る。
後付けされた条件術式は、全て落書きみたいなものなので、無視して良い。技術的に重要なのは中央部分だけ。
魔法陣をCADデータに変換した際に、刻印された年代別にレイヤー分けされているので、中央部分だけを抜き出すのは超簡単。
ちなみに、データ変換作業の9割方はフェアが一瞬で片付けてくれた。自分はほぼ何もしていないが、気にしない。仕事はできる人がすれば良いのだ。
「フェア、印刷お願い。大き目で」
「はい。印刷しました。ますたー」
「ありがとう、フェア」
大判プリンターから、A0サイズに印刷された魔法陣が出力された。
思考しながら試行錯誤するなら、ノートパソコンの画面より、紙の方が感覚的にやりやすい。こういうのはデジタルよりもアナログである。
紙に印刷された魔法陣は、ただの絵と同じ。これ自体には何の機能も無い。
例えるなら、電子回路の図面を紙に印刷したのと同じようなものだ。図面自体には何の機能も無い。然るべき材料に然るべき加工をし、図面の通りに電子回路を製作し、バッテリーを接続して初めて電子回路は機能を発揮する。
城にあった魔法陣は、大理石の一枚岩に刻印されていた。正確に言えば、刻印自体に魔法陣の機能は無く、魔法陣を正しく形成するためのガイドである。魔力の含まれた魔鉱石を粉末状にしたものを水銀に溶かし、溝に均一になるように流し込んだ後、水銀を蒸発させて固着させたものが、魔法陣の本体。中央部分も、後付けの条件術式も、作成方法は同じである。
魔法陣の条件術式を設計するのも、大理石に精密な溝を掘るのも、溝に水銀を流し込むのも、水銀を蒸発させるのも、窓の無い部屋の換気をするのも、回路が途切れていないか確認するのも、魔法陣を起動するのも、全ての作業工程において、宮廷魔術師長のワンオペである。機密保持のためとは言え、かなりの重労働だろう。
作業風景を想像したら、少しだけ宮廷魔術師長に同情しそうになった。
よくよく考えたら誘拐のための下準備なので、やっぱり同情できない。
「……どうやって魔法陣を作るのかも問題なんだよなぁ……まあ、今はそれどころじゃないけど……」
勇者召喚の魔法陣を設計変更し、図面の通りに魔法陣を製作し、正しく起動しなければ、元の世界には帰れない。
いずれは自分も魔法陣を製作しなければならないが、それは後で考える。魔法陣の材料の入手なども、後で考える。
今はまだ、魔法陣の設計変更のために魔法陣を調べている段階。余計な事に気を散らしては、できる事もできなくなる。今は調べ物に集中しよう。
参考文献は、城から無断拝借してきた魔術関連の専門書の数々。本当は開発日誌でもあれば良かったのだが、残念ながら開発当時の資料は紛失し、全く残っていない。
この地に引っ越してきてから時間はそこそこあったので、手持ちの専門書には一通り目を通してある。自己評価では、現在の理解度は7割くらい。完璧には程遠いが、未知の学術体系の勉強をゼロからしているような状況にしては、よくやっている方だと思っている。自分で自分を褒めたい。
勇者召喚の副次効果によるものなのか、異世界の文字は読める。文章の意味もわかる。しかし、内容を理解できるかどうかは、また別の話。
一般人が母国語の専門書を読んでも、内容を理解できるとは限らない。同じように、異世界の書物を読めても、読解できる訳では無い。
身体能力は勇者級になったが、知力は据え置き。知らないものは知らないし、理解できないものは理解できない。
知らないものを知るためには勉強が必要である。理解できないものを理解するには時間がかかる。こればっかりは、焦ってどうなるものでもない。
異世界の未知の分野であっても、学問に王道無し。近道無し。
近道したい。はよ帰りたい。
「うーん……せめて似ている魔法陣でも載ってれば、取っ掛かりになるのに……」
床に敷いた魔法陣の図面を見ながら、専門書を片手に頭を悩ませる。
目を通した限りでは、類例は見当たらなかった。
さすがは王国の最高機密の魔法陣だけあって、難解すぎる。辛うじて部分的になら読み解ける部分もあるが、全体像は複雑すぎて全く把握できない。
率直に言って、全体を理解できるなどとは端から思っていない。無論、理解できるのなら、それが最良ではある。だが、魔法陣ド素人の自分にそれができるなどと、そんな自惚れをする気は無い。
素人の予想になるが、この魔法陣のどこかに、元の世界と異世界との移動の方向を指定するパラメーターが設定されているはずだ、多分。
パラメーターの正負を逆転させれば、彼方から此方へ召喚する魔法陣は、此方から彼方へ送還する魔法陣になるはずだ、多分。
変更するのは、たった1ヶ所だけで良いはずだ、多分。
ゼロから魔法陣を設計するのは無理でも、たった1ヶ所の部分的な設計変更であれば、素人でも何とかなるはずだ、多分。
システムエラーの原因が、たった1ヶ所の変数の指定ミスだった、なんて事はままあるらしい。情シスの斉藤が、その手のミスをよくやらかすらしい。別の課の事なので詳しくは知らんけど。
たった1ヶ所。緻密で複雑な幾何学模様を描く魔法陣の中から、たった1ヶ所、探し出して修正するだけ。たったそれだけで、帰還のための魔法陣になる。きっと、元の世界に帰れる。
気分的には、某絵本の中から赤白ボーダー服を着た某男性を見付けようとしているようなものだ。
余談だが、個人的は某絵本、物凄く苦手。親戚のチビどもと一緒にやった時は、ただの一度も先に見付けられなかった。地味にトラウマだったりする。
「……ねえ、フェア。これ、CAD上でパパッと設変できたりしない?」
「いいえ。それは無理です。ますたー」
「……そうだよね。うん。無理言ってゴメンね」
ちょっとフェアに頼んでみたが、さすがにそう都合良くはいかなかった。
電気設備関連であれば大体の問題は即行で解決できるフェアだが、できないものはできない。万能ではあるが、全能では無い。
平凡なサラリーマンの自分には、すぎたるほどにフェアは有能である。おかげで、こんな無人の荒野でも安定した日常生活が送れている。これ以上を求めるのは、虫が良すぎるだろう。
わかってはいても、どうしても、虫の良い事が起こらないかと期待してしまう。
自分が異世界に召喚されてから約2ヶ月。言い換えれば、会社を無断欠勤してから約2ヶ月。焦りが募る。
「こんなペースで、一体いつになったら帰れるんだ……」
「焦りは禁物ですよ。ますたー」
「そうは言ってもね……」
「根を詰めるのは良くありません。どうか一服なさってください。ますたー」
電気ケトルを器用に使って、フェアがお茶を入れてくれた。とても可愛い。そしておいしい。ほっこりする。
安い旅館などで飲むような安い緑茶っぽい味と匂いだが、フェアが入れてくれたというプレミアム感で極上の仕上がりになってる。
「ありがとうね、フェア。いつも助けてもらってる上に、こうして気まで遣ってくれて。本当にフェアがいてくれて良かったよ」
「えへへー。過分なるお言葉をいただき、身に余る光栄です。ますたー」
「いや大袈裟な」
「嬉しいです。幸せです。これからも、ずっと、ずぅっと、いつまでも、この家でお世話させてくださいね。ますたー」
「あ、ああ、うん、そうね。無理の無い範囲でお願いね、フェア」
有能なフェアは、細かい気配りに至るまで完璧である。
なんかちょっとだけ、もう帰れなくてもいいかなって気分になった。




