22.電設のヒデオさん、塩が少ない。
この家で生活し始めて、そろそろ1ヶ月。
現在、我が家は喫緊の大問題に直面していた。
勇者召喚の魔法陣の解析がなかなか進まないとか、書類整理がいよいよ終わりそうでムチムチさんの手が空くまで秒読み段階とか、頭を撫でている時のムチムチさんのプルプル具合が可愛くて理性が焼き切れそうとか、それらの問題が些細に思えるほどの深刻な大問題である。
「冷蔵庫の中に塩、冷蔵庫の中に塩、冷蔵庫の中に塩……。いでよ、塩!」
冷蔵庫の扉を開けた。冷蔵庫の中に、塩は入っていなかった。
「ますたー。冷蔵庫の中に塩が入っているのは変です。あり得ません」
「……うん、そうだね。俺もそう思うよ、フェア」
フェアの的確な指摘に、うなずくしかなかった。
自分は勇者として異世界に召喚された際、スキル『電気設備』を獲得した。
電気設備の存在しない異世界で『電気設備が使用可能になる』ように電気設備を出現させる。それがスキル『電気設備』である。自分は正気である。
自分が電気設備を想像すると、スキルの妖精(仮)が電気設備を創造してくれる。自分は正気である。
スキルの応用範囲は広い。電気で動くものは大体何でも電気設備扱い。更には、電気設備に付属品を追加し、電気設備の消耗品を補充し、破損した電気設備を部品も含めて完全な状態に修復するなど、とにかく『電気設備が使用可能になる』ようにするためならば大体の事は実現するという、割と何でもアリな仕様になっている。
割と何でもアリなスキルではあるが、完全に何でもアリという訳では無い。明確な制約として、電気設備に関連していなければ、スキルは発動しない。また、スキルの発動に際しては、自分の想像が主体となり、フェアがそれに従属する形で創造する。
想像が主で、創造が従。この非対称な関係が問題だった。
フェアの創造力はかなり強力で、自分の脳内イメージが曖昧でも、電気設備は完璧に創造される。イメージが欠けている部分に関しては、フェアの方で勝手に補完してくれる。しかし逆に、イメージが過剰な状態にあると、それは補正されない。過剰なイメージは過剰なまま再現されてしまう。
偏見。先入観。思い込み。様々な要因により、脳内イメージは歪む。歪んだイメージは、歪んだまま伝わり、歪んだまま創造される。
イメージの欠如は補完されるが、イメージの歪みは補正されない。
自分にとって、冷蔵庫とは、食材を冷蔵保存するための電気設備である。
冷蔵庫の中に入っているのは食材だけ。砂糖、塩、酢、醤油、味噌などの調味料は、冷蔵庫の外に常温保存するのが普通だと思っている。他にも、ソース、麺つゆ、顆粒出汁、コショウ、ゴマ、海苔、小麦粉、片栗粉、パスタ、マカロニ、食用油、ゴマ油、茶葉、紅茶パック、コーヒー豆など、冷蔵庫の中に入れない物は多岐に渡る。
人伝に聞いた話によれば、冷蔵庫の中に何を入れるのかは、各家庭によって異なるらしい。ジャガイモやタマネギなどは冷蔵庫に入れないご家庭もあれば、塩でも小麦粉でも何でも冷蔵庫に入れてしまうご家庭もあると聞いた事がある。
あくまでも、人伝に聞いた事があるというだけで、実際に見た事は無い。今まで、そんな機会は無かった。他人のご家庭の冷蔵庫を覗き見るなどという無作法は、した事が無い。
冷蔵庫の中に塩が入っているという話を聞いた事はある。しかし、見た事は無い。見た事が無いものをイメージするのは難しい。
自分にとっては、冷蔵庫の中に塩は入っていないのが普通。幼少の頃からのイメージの刷り込みは、そう簡単には拭えない。
昔の偉い人も言っている。自分の心ほど、ままならぬものはない、と。
治したくても治せない。それが偏見というものだ。
「……マズい、マズいぞ、これ……食材はあっても、このままだと塩が……」
この家に引っ越してきてから今日まで、塩は全て、城の厨房から持ち出してきたものを使っている。
王国の資金不足のせいなのか。仕入れのタイミングが外れていたのか。厨房の塩の備蓄は最初から少なかった。
スキルによって補充できない以上、塩は減るばかり。使い続けていれば、当然、いつかは尽きる。そのいつかは、目前にまで迫っていた。
「……誤魔化しようはあるけど……ただでさえメニュー単調なのに、更にレパートリーが限定されたら……これ以上は我慢できないぞ、俺が……」
一応、塩分の摂取という観点だけならば問題は無い。ミネラル類の欠乏による栄養失調は考えなくても良い。しかし、食事の飽きという精神的な面は、どうにもならない。
「冷蔵庫の中に塩!入っていて当然!塩!来い塩!出ろ塩!塩!」
「ますたー。冷蔵庫の中に塩が入っているのは変です。あり得ません」
「そりゃそうなんだけども!そこを何とか!冷蔵庫に塩!塩!塩!」
「ますたー。冷蔵庫の中に塩が入っているのは変です。あり得ません」
「ぬおおおおっ!出ないっ!バターやハムは出るのにっ!」
「はい。バターとハムです。ますたー」
「欲しいのは塩なんだよおおおおっ!」
「ますたー。冷蔵庫の中に塩が入っているのは変です。あり得ません」
塩気のあるバターやハムが出せるのだから、塩が出せない道理は無いはずだ。
でも出ない。何度やっても出ない。出ないものは出ない。出ないったら出ない。
塩が出ない。
「おじちゃん、どうしたの?」
「どうした、ニンゲン?」
冷蔵庫の前で呻いていたら、黒夫と魅雪がやって来た。
「……なんでもない」
「嘘だ!ニンゲンは嘘を吐いてる!オレにはわかるんだぞ!」
「おじちゃん、困ってるの?ボク、お手伝いするよ?」
「いや本当に大丈夫だから。気にしなくていいよ」
「ニンゲンめ!オレは騙されないぞ!」
適当に誤魔化そうとしたら、黒夫に首にしがみ付かれた。鼻をスンスン鳴らして何か臭いを嗅がれた。
「やっぱり!嘘吐きの臭いがするぞ!」
「いや何言ってんの、お前」
「汗から嘘吐きの臭いがする!嘘吐いてるな!オレにはわかるんだぞ!」
どこぞの某麻薬捜査官みたいな事を言い出した。ハッタリにしては目が本気だ。
身体が成長した事で、嗅覚まで成長しているのだろうか。成長した獣人の嗅覚は、嘘の臭いまで嗅ぎ分けられるのだろうか。なんか本当にできそうで怖い。
「……おじちゃん、ボクに嘘吐いたの?」
黒夫の言葉を聞いて、魅雪の声のトーンが一段下がった。
幼くとも、さすがは鬼の女。小柄なのに凄まじい迫力があって怖い。
「ニンゲン」
「おじちゃん」
そして両側から圧迫。腹部に強烈な圧力がかかる。
こうすれば、いつものように簡単に屈するとでも思っているのだろうか。
大人を舐めるな。
「塩が残り少なくなってるんだよ」
物理的にゲロ出る前に、ゲロった。
どうせ隠していても、塩不足はすぐにバレる。
すぐバレる秘密を前もってバラすのは負けじゃない。
決して、子供達の圧力に屈したのではない。
「塩?その箱から出せないのか?いつもプリン出してるみたいに」
「残念ながら、塩は出ないんだよ、これ」
「お塩、そんなに少ないの?どれくらい残ってるの?」
「今のペースで使ってたら、もう3、4日したら無くなるくらいの量だな」
「「……っ……」」
塩の在庫状況を正直に話したら、子供達の顔色が変わった。
「お塩無くなっちゃうの!大変なの!」
「凄く大変じゃないか!塩無いと死ぬぞ!」
どうやら塩の重要性を正しく認識しているらしい。凄く慌てていた。
「慌てすぎだ。塩はまだあるし、無くなる前に手に入れればいい」
「手に入れるって、どうするんだ?」
「手っ取り早いのは、どっかから調達してくる事なんだけど……」
「そうか、わかったぞ。獲物を狩って、その血から塩を作るんだな」
「いや全然違うから。何そのワイルドな発想」
そもそも、この荒野には獲物と呼べるような動物は生息していない。
仮にいたとしても、血から塩を作る方法など知らない。
サバイバル上級者みたいな真似は無理だ。
「ここから東に行った所に街がある。そこなら、ほぼ確実に塩がある。調達するなら、第一候補はそこだな」
「略奪か。腕が鳴るぞ」
「なんで奪う前提なんだよ。するか、そんな事」
「違うのか?」
「違うに決まってんだろ。普通に買い出しに行くんだよ」
「お買い物?ボク、お買い物行きたい」
「買い物じゃなくて、買い出しだよ、買い出し。塩が必要だから買ってくるだけだよ」
「それでもいいの。ボク行きたいの」
「まあ、そんなに行きたいなら連れてってもいいけど……。その前に問題があって、それを解決しないと買い出しに行けないんだよ」
「お手伝いするの。どんな問題なの?」
「……お金が無いんだよ」
お金が無い。他にも色々と問題はあるが、何を置いても先立つものが無ければ塩の買い出しは無理だ。
「お金……ボク持ってないの……」
「落ち込まなくていいよ。何とかするから」
「つまり略奪だな」
「なんでだよ。奪わないって言ってんだろうが」
「じゃあ、どうするんだ?オレも金持ってないぞ?」
「初めから当てにはしてねえよ。心配しなくていい」
着の身着のまま、この家まで流れ着いた子供達に、お金の無心をするつもりは最初から無い。
当てはある。当てはあるのだ。ただ、あまり気乗りしないだけで。
できるだけ避けたくて、切羽詰まった状況になるまで塩不足から目を逸らしてしまった結果、今の状況に追い込まれた。完全に自業自得だ。
本音を言えば、街には行きたくない。
異世界の街に興味はあるが、それ以上に、身バレに対する恐怖が勝る。
この家で生活していると忘れそうになるが、今の自分は絶賛逃亡潜伏中である。
王国としては、逃亡した勇者をそのまま野放しにはできないはず。
同時に、勇者が逃亡したという事実は公表したくないはず。
少数の人員で秘密裏に捜索している可能性が高い。
少数の人間の目を欺きつつ、街で塩の買い出しを行う。
難易度が高いのか低いのか、微妙なラインである。
少数の目による監視網なら、すり抜けられると信じるしかない。
「金は無いけど、手持ちの品を売れば金は作れる。問題は、何を売るかなんだよな……」
「プリン売れば?」
「そんなもん売ったら露骨に怪しまれるわ。って言うか、まず売れねえよ。見ず知らずの余所者が売るプリンとか、誰が買うんだ」
「おじちゃん、キレイな服たくさんあるの。きっと売ったら、みんな喜ぶよ」
「うーん、服はちょっと……。古着屋にでも売れば売れそうではあるけど、俺の故郷の様式の服だから、売ったら俺がいるって気付かれそうで嫌なんだよね……」
「気付かれちゃダメなの?」
「まあ、色々あってね。できるだけ避けたいんだよ……」
悩む点は多い。
安全を最重視するなら、そもそも塩の買い出しは諦めるべきだ。栄養摂取の面だけを考慮するなら、塩分補給に支障は無いので、必ずしも塩は必要無い。食事の献立が貧弱になるのを我慢して、この家に引きこもっていればいい。
どうしても我慢できないので、塩の買い出しに行く。現時点でも結構我慢しているのに、これ以上、我慢を強いられるのは嫌だ。ストレスで死ぬ。
塩の買い出しに行くとして、どこに行くべきか。
移動距離が短いほど、移動中に見付かる危険は減る。そういう意味では、最寄りの街が安全だ。ただし、街中で見付かった場合、街の近辺を捜索されると、この家が見付かる危険がある。
街中で見付かった時の事を考えれば、遠出した方が良い。その場合は、街中で見付かっても、この家が見付かる可能性は低くなる。ただし、移動距離に比例して移動中に見付かる危険は増す。こちらが気付かない内に見付かり、追跡されれば、結局、この家が見付かる。
また別の問題として、塩の買い出し中、自分はこの家からいなくなる。遠出をするほど、不在時間が長くなる。それもまた不安要素となる。
外出する以上、どうしても相応のリスクは発生する。それなら、近場の方が不安要素が少なくて済む。
塩の買い出しは最寄りの街で行うと決めた。
塩の買い出しのための資金調達をどうするのか。目下、これが一番の難点だ。
現状、自分は無一文。お金は持っていない。だが、お金になりそうな物なら持っている。
手持ちの品を街で売れば、資金は調達できるだろう。ただし、身バレの危険がある品はなるべく売りたくない。
城から持ち出した備品の数々は、絶対に売れない。バレる気しかしない。通勤カバンに死蔵している光の魔道具など、質屋で売ったら高値が付きそうな品はあるが、売るのは危険すぎる。却下。
食料品が売れるなら、それが一番良い。消え物系は後に残らない。しかし、どこの誰とも知れない余所者が食料品を売ろうとしても、とても売れるとは思えない。却下。
衣服は、売らない方が良いだろう。どの服も、この世界の様式からは、かけ離れている。無地のシャツや綿パンなど、遠目にはこの世界の衣服と大差無いように見える無難な衣服でも、実際に手に取って観察されれば質の違いがバレる。この世界には化学繊維もファスナーも存在しない。そこそこ良い値が付きそうなだけに、とても惜しい。でも却下。
電化製品は、当然、売れない。電池で動くタイプであれば、新開発の魔道具という名目で売れるかもしれないが、確実に目立つ。それに、電池が切れたら、この世界の人達には再使用できない。そんなものを売るのは詐欺だろう。却下。
電源ケーブルを分解し、中身を金属塊にして売るという手を考えたが、売れるかどうか微妙だ。そして、もし売れたとしても、かなり目立つ気がする。この近辺に鉱山は無い。却下。
「ヒデオ殿、野菜のおかわりを――……、何をしているのだ?」
何を売ろうか考え込んでいたら、ムチムチさんがやって来た。
ここでの生活に慣れ、おかわりへの抵抗感が大分無くなっている。
きっと良い傾向だと思う、多分。
「大した事じゃありませんよ。おかわりですね」
「ああ、頼む」
ガラスコップを受け取り、適当に野菜を棒状に切って入れる。
どうせすぐ食べ尽くされるので、ちょっと多めに詰め込む。
「どうぞ、おかわりです」
「ああ、いつもすまないな、ヒデオ殿」
ガラスコップをムチムチさんに渡す。早速ニンジンを取り出して齧っていた。
「ミユキとクロオに聞いたぞ。金策に頭を悩ませているそうだな」
「まあ、そうですね」
あっという間に一本消費して、ムチムチさんが聞いてきた。
厳密に言えば、変な物を売って身バレしないか悩んでいるのだが、似たようなものだろう。
「何を悩む事がある。簡単ではないか。野菜だ。野菜を売ればいいのだ。すぐ売れるぞ」
「いや、余所者がいきなり野菜を持ち込んでも、普通は買い取ってもらえないと思いますけど」
「貴殿は何を言っているのだ。誰が持ち込んでも野菜は野菜だろうに。街まで行って、適当に道端で売れば良かろう」
「いやいや、ムチムチさんこそ何言ってんですか。余所者が勝手に路上販売するのはマズいでしょう。何らかの販売許可がいるはずです」
「そ、そうなのか?」
「そうですよ、普通は」
「そ、そうなのか……。道端で売るのがダメなら、どこかの店舗に売り込みをかければ良いのではないか?貴殿の野菜は美味だからな。きっと買い取ってくれるだろう」
「それこそ無理ですよ。その場合、相手は問屋か八百屋になると思いますけど、何の縁もゆかりも無い相手に飛び込みで売り込みかけても、普通は相手にしてくれませんよ。信用の無い相手と取引してくれる商売人はいません」
「そ、そうなのか?」
「そうですよ、普通は」
「そ、そうなのか……。ううむ、思ったよりも随分とややこしいのだな……」
ガラスコップから更にニンジンを取り出しつつ、ムチムチさんが唸っていた。
「野菜がダメなら肉だ。きっと肉なら売れるぞ、ニンゲン」
「肉は余計にダメだろ。野菜より食中毒起こりやすいし。腐りやすいからな」
「なんだ、知らないのか?肉は腐りかけがうまいんだぞ?」
「そういう問題じゃない。肉はダメだ」
「うまいのに、肉……」
ガラスコップからキュウリを取り出しつつ、黒夫が言った。
「おじちゃん、これは?これ売っちゃダメなの?」
「大根も野菜だから売れないと思うよ」
「違うの。これ、これなの。キレイなの。きっと売ったら、みんな喜ぶよ」
「……これか」
ガラスコップから大根を取り出しつつ、魅雪が指差した。
「……ただのコップなら、売っても足が付かないで済みそうか……?」
魅雪が指差していたのは、食洗器の付属品として創造されたガラスコップだった。付属品だからセーフ理論で出た。
あえて言うが、ガラスコップは電気設備ではない。でもセーフ。
それはともかくとして。ガラスコップを改めて観察してみた。
何の変哲も無い、普通のガラスコップ。形状はシンプルな円筒形。無色透明。柄は無し。極めて没個性な品だ。百均ショップで売ってそう。
これなら足が付く心配は無いだろう。
「自前の食器は盲点だったな……。うん、これなら問題無く売れそうだね」
「ホント?売れる?」
「ああ、売っても大丈夫なはずだ。魅雪は目の付け所がいいね。ありがとう、魅雪」
「くふふっ。どういたしまして、おじちゃん」
お礼を言いながら頭を撫でる。魅雪が嬉しそうに笑った。
「これでお買い物行ける?お買い物行けるの?今からお買い物?」
「すぐには無理かな。ちょっと準備しなきゃいけない事もあるし」
「そうなの……」
魅雪が目に見えて落ち込んだ。気分が持ち直すまで、しばらく頭を撫で回した。
「ますたー」
「ニンゲン」
「うん。忘れてないから。ちょっと待って」
「……ヒデオ殿。私は?」
「無理しなくていいって言ってんのに……」
「おじちゃん。手、止まってるの」
「いやもうホントちょっと待って!?」
しばらく頭を撫で回した。




