第06話:折れた刃と赤い瞳
ガギィィィィィン!
地下廊を震わせる凄まじい金属音。
「――っ、ぐぁ……!」
陵は歯を食いしばった。
消えた。
そう認識した次の瞬間には、甲冑の拳が眼前まで迫っていた。
咄嗟に引き抜いた折れた黒刀。
その刀身の腹が、辛うじて鋼の拳を受け止める。
だが、衝撃を殺しきれない。
両腕に焼けるような痺れが走り、陵の身体が石床を削りながら後方へ押し込まれた。
――そして、それはまだ序奏に過ぎなかった。
空洞の甲冑は、陵が体勢を立て直す暇すら与えない。
背負っていた身の丈ほどの大剣を、流水のような滑らかさで引き抜く。
「陵っ!」
美玲の悲鳴と同時に、甲冑が弾けた。
それは「踏み込む」などという生易しい速度ではない。
炸裂。
圧縮されたバネが解放されたかのような超高速の突進。
振り下ろされた大剣が風を裂き、つい先ほどまで陵が立っていた石床を容赦なく粉砕した。
轟音。
砕けた石片が散弾のように地下廊へ飛び散る。
「――下がってろ!」
陵は美玲を背後へ突き飛ばすように庇い、自らも後方へ跳ぶ。
飛散した石礫が頬を掠め、浅く皮膚を裂いた。
甲冑は床へ突き刺さった大剣を、羽毛でも持ち上げるかのように軽々と引き抜く。
兜の奥。
闇の中で燃える赤い双眸だけが、不気味な軌跡を描きながら陵を捉えていた。
「は、ぁ……っ……」
美玲は息を呑んだまま立ち尽くしていた。
逃げなければならない。
頭では理解している。
だが、圧倒的すぎる「死」の気配が、身体の自由を根こそぎ奪っていた。
心臓だけが狂ったように脈打つ。指先から感覚が抜け落ちていく。
甲冑が再び動いた。
今度は横薙ぎ。
唸りを上げた大剣が、地下廊の空気そのものを切り裂いた。
陵は壁際へ追い込まれないよう、最小限の動きで身を捻る。刃が鼻先を掠めた。
剣圧だけで頬が裂け、熱い血が一筋流れる。
だが。
陵の瞳は、異様なほど冷静だった。
恐怖に呑まれるどころか、死が近づくほど思考は研ぎ澄まされていく。
敵の重心。踏み込み。剣速。呼吸。
すべてが鮮明に見えていた。
「……来いよ」
短く吐き捨て、陵は折れた黒刀を低く構える。
逃げ場はない。
なら――斬るしかない。
陵は静かに腰を落とした。
折れた黒刀の切っ先だけが、闇の中で鈍く揺れている。
再び、甲冑が地を蹴った。
もはや剣筋など見えない。
ただ、死を孕んだ鋼の暴風だけが、陵へ連続して叩きつけられる。
ガキンッ! ギィィンッ!
耳を劈く金属音。
散った火花が、地下廊の闇を断続的に照らし出す。
陵は真正面から大剣を受けない。
そんなことをすれば、腕ごと叩き潰される。
折れた黒刀の腹を斜めに滑らせ、圧倒的な質量を逸らす。
防ぐのではなく、流す。
刃が噛み合う瞬間、手首を返す。
それだけで必殺の軌道をわずかに狂わせる。
平時の道場で振るうような、型に嵌った洗練された剣術ではない。
幼い頃から叩き込まれた武術の理を、極限の死地で生き残るための剥き出しの暴力へと変換した生存本能。
陵の動きは、ただ「生き残る」ことだけに特化していた。
「くっ……!」
受け流しきれなかった衝撃に、陵の身体が揺れる。
石床を削りながら、また一歩、壁際へ追い込まれた。
火花が散るたび、美玲の視界に陵の横顔が浮かび上がる。
頬を裂いた傷から血が伝い、顎先から赤い雫が落ちていた。
(だめ、このままじゃ……!)
胸の奥で、冷たい警鐘が鳴る。
陵は異常な反応速度で死線を潜り抜け続けている。
それは美玲が誰より知っている。
けれど――相手が悪すぎた。
甲冑は疲弊しない。痛みもない。呼吸すら存在しない。
ただ殺すためだけに動く、空洞の鉄。
防戦一方の陵は、連撃を捌くたび確実に体力を削られていく。
陵が先に力尽きるか。
それとも、折れた黒刀が限界を迎えるか。
どちらにせよ。
このままでは、いつか必ず直撃を受ける。
その未来だけが、美玲の脳裏に黒く焼き付いていた。
甲冑が、これまでで最も大きく大剣を振りかぶった。
空気が悲鳴を上げる。
地下廊の闇そのものを抉り取るような、必殺の一撃。
――躱せない。
陵は瞬時に悟った。
折れた黒刀の腹を斜めに合わせる。
全身のバネを総動員し、その斬撃を強引に逸らしにかかった。
ガァァァンッ!!
鼓膜を叩き潰すような爆音。
火花が炸裂し、視界が白く染まる。凄まじい衝撃が拮抗する。
大剣と黒刀が噛み合ったまま、ギリギリと不快な金属音を撒き散らした。
鍔迫り合い。
だが――空洞の鉄に、疲労も躊躇も存在しない。
甲冑は大剣を押し込んだまま、空いた左腕をゆっくりと引き絞る。
狙いは頭部。
鋼の拳が、殺意そのものとなって放たれた。
陵は咄嗟に身体を沈める。最小限の動きで躱そうとした。
しかし――。
「……っ!」
足がもつれた。
床に散乱していた砕けた武具の残骸。
靴底がそれを踏み、体勢が大きく崩れる。
致命的な隙だった。
無防備な胸元が、完全に晒される。
回避は間に合わない。防御もできない。
鋼の拳が、陵の命を叩き潰そうと迫る。
「だめっ――!」
気づけば、美玲の身体は動いていた。
足の震えは止まらない。呼吸も上手くできない。
それでも。
何もしないまま陵を失うことのほうが、この怪物の前に立つよりずっと恐ろしかった。
美玲は足元に転がっていた兜の残骸を両手で掴む。
重い。腕が震える。
それでも、無我夢中で振りかぶった。
「ぁああっ!!」
ありったけの力で、甲冑の背へ投げつける。
ガキンッ!
甲高い音を立て、残骸が甲冑の背中へ弾けた。
当然、ダメージなどない。
圧倒的な巨体にとっては、小石が当たった程度の衝撃。
――だが。
不意の衝突に、甲冑の動きが止まる。
ほんのわずか。
コンマ数秒にも満たない硬直。
振り下ろされるはずだった拳が止まり、赤い双眸が陵から逸れる。
そして。
闇の奥で燃える視線が、美玲を捉えた。
「――っ」
美玲の喉が引き攣る。死が、自分を見た。
だが。
その“よそ見”を。
死線を潜り抜け続けてきた陵が、見逃すはずがなかった。
赤い双眸が美玲へ向いた、その瞬間。
陵は、すでに地を蹴っていた。
鍔迫り合いの反発を利用し、崩れかけた体勢を無理やり加速へ変える。一気に甲冑の懐へ潜り込む。
甲冑が異変に気づいた。
美玲へ逸れていた視線が陵へ戻る。振り下ろしかけていた左拳が、迎撃へ切り替わる。
――遅い。
踏み込みは、陵のほうが速かった。
「……シィッ!」
鋭い呼気。
右手の折れた黒刀が、最小限の動きで突き出される。
狙う場所は一つ。
鋼の塊の中で唯一空いた穴。兜の奥で燃える、赤い双眸。
左拳が陵の肩を掠めた。
肉が裂ける。
だが、止まらない。
陵はさらに半歩、強引に踏み込んだ。
全体重を乗せた刺突。折れた黒刀が、吸い込まれるように兜の隙間へ突き立つ。
ズチュゥゥゥゥンッ!!
鋼を貫く音ではない。
もっと別の――得体の知れない“何か”を破壊した異音。
黒刀の切っ先が、赤い光の核を正確に貫いていた。
ピタリ、と。
甲冑が停止する。
振り下ろされるはずだった左腕が力を失い、大剣を握っていた右手が緩む。
ガランッ……。
重い大剣が石床へ落ち、虚ろな音を響かせた。
赤い双眸が明滅する。
一度。二度。そして――消えた。
次の瞬間。
甲冑を繋ぎ止めていた“何か”が、完全に霧散する。
ガシャァァァンッ!!
巨体が崩れ落ちた。
ただの鉄屑となって、地下廊へ散乱する。
静寂。
あとに残ったのは、冷えた空気と砕けた鋼の残骸だけだった。
「……はぁ、はぁ……っ」
陵は荒い息を吐きながら、折れた黒刀をゆっくり引き抜く。汗が頬の血と混ざり、顎先から滴り落ちた。
呼吸を整えるより先に、陵は背後を振り返る。
「美玲」
その声は、もういつもの静かな調子に戻っていた。
「怪我は」
美玲はその場へへたり込んでいた。
恐怖と緊張が一気に解け、脚の力が完全に抜けてしまった。
「な、ない……。私は、大丈夫……」
震える声で答えながら、美玲の視線は陵へ向いた。
制服は裂け、頬や腕には浅い傷がいくつも走っている。
無傷には程遠い。
それでも陵は、まるで気にしていない顔をしていた。
「陵こそ……血が……」
「かすり傷だ。問題ない」
短く返し、陵は散らばった甲冑の残骸を冷たく見下ろす。
そして、小さく息を吐いた。
「……助かった」
美玲が目を瞬かせる。
「美玲がいなかったら、やられてた」
飾り気のない言葉。
だが、それが陵なりの感謝なのだと、美玲には分かった。
陵は美玲へ歩み寄り、手を差し出す。血と埃に汚れた手だった。
美玲は小さく頷き、その手を握り返した。
――その時だった。
ふ、と。
陵の握る折れた黒刀が、淡く脈打つように灯る。
「……?」
美玲の表情が強張った。
刀身に走る亀裂。
その隙間から、鈍い光が微かに漏れている。
まるで。
刀そのものが、呼吸しているかのように。




