第05話:静まり返った地下廊
背後で、大地を揺るがすような咆哮が爆ぜた。
巨大な鎌を持つ異形と、上空から急襲した白い目の怪物が、地上の遺跡で凄まじい縄張り争いを繰り広げている。
激しい衝突音。石畳が砕け散る轟音。
爆発みたいに連続するそれらを背に受けながら、陵と美玲は暗い地下階段を転がるように駆け下りていた。
「……っ、はあっ、はっ……!」
美玲の乱れた息遣いが、冷たい石壁へ反響する。
陵に強く腕を引かれ、足元も覚束ないまま暗闇へ引きずり込まれていく。
冷たすぎる空気が、激しく上下する肺を容赦なく焼いた。
どれくらい階段を下っただろうか。
急なカーブを描く石段を、ひたすら下り続けるうち、不意に美玲は異変へ気づいた。
先ほどまで遺跡そのものを揺るがせていた地上の轟音が、嘘みたいに遠ざかっている。
まるで深い水底へ沈んでいくみたいに、重い衝突音も、異形たちの甲高い咆哮も、分厚い岩盤の向こうへ押し潰されていく。
やがて。
陵の足が、ぴたりと止まった。
階段が途切れていた。
平らな石畳へ踏み出した陵の背中へぶつかりそうになり、美玲も慌てて足を止める。
「……陵?」
息を整えながら声をかける。
だが、陵は答えなかった。
左手で美玲を背後へ庇いながら、じっと前方を見据えている。
暗闇の中で、ぼんやりと青白い光が脈打っていた。
壁面へ埋め込まれた光石だ。地上で見た時より、ずっと冷たく見える。
微かに明滅を繰り返しながら、冷え切った石壁を青白く濡らしている。
頼りない薄明かりが、広大な地下廊の輪郭だけを闇の中から浮かび上がらせていた。
荒れ狂う地上とは対照的に、不気味なほどの静けさが空間を支配している。
風の抜ける音もない。葉擦れもない。虫の羽音ひとつ存在しない。自分たちの荒い呼吸と、耳の奥で暴れる鼓動だけが、嫌になるほど鮮明に響いていた。
陵は微動だにせず、薄闇の奥へ神経を研ぎ澄ませる。
足音。衣擦れ。呼吸。熱。獣特有の臭気。だが、何も引っかからない。
何かが、誰かが、ひっそりと息を潜めているわけではない。
潜む気配そのものが存在しない。この広大な地下廊には、生き物らしい「生きた気配」が、不自然なほど綺麗に消え失せていた。
まるで。
命だけが、この場所から抜け落ちてしまったみたいに。
陵は警戒を解かないまま、ゆっくりと一歩を踏み出した。
――がりっ。
石ではない、硬い音が足元で鳴る。陵は視線を落とした。
光石の青白い明かりが、瓦礫の間に埋もれた赤茶けた鉄片を照らしていた。
暗闇へ目が慣れるにつれ、床へ散乱しているものの正体が浮かび上がってくる。
一つや二つではない。広い地下廊のあちこちに、無数の残骸が転がっていた。
刃の欠けた剣。半ばから折れた槍。激しく潰れ、原形すら残っていない鎧。まるで、何かに踏み砕かれたみたいに。
だが、奇妙だった。
これほど武具が散乱しているのに、死骸が一つもない。
血の跡もない。骨の欠片すら落ちていない。ただ、夥しい数の「戦いの痕跡」だけが、そこに残されていた。
美玲は陵の背中越しに、その光景を見つめる。
強張っていた思考が、少しずつ現実を理解し始めていた。
「……これ……」
掠れた声が漏れる。
「戦った、跡……?」
陵は答えない。
ただ静かにしゃがみ込み、散乱する残骸へ手を伸ばした。
「な、なにしてるの……?」
瓦礫を退け、腐食した武具を無言で物色していた。
その横顔は妙なほど静かだった。
瓦礫の山から、陵は一本の柄を引きずり出した。
鞘はない。
刀身は深い闇みたいに黒く、刃は中ほどから無惨に折れている。切っ先も失われ、どう見ても使い物にならない鉄くずだった。
――だが。
柄を握り込んだ瞬間、陵の動きがわずかに止まる。
(……なんだ、これは)
奇妙だった。
見た目はボロボロだというのに、柄を握った感触が異様なほど手に馴染んだ。
陵はその違和感を口にせず、折れた黒刀を静かに握り直す。
その背中を見つめながら、美玲は足元ではなく、周囲の壁や天井へ視線を向けていた。
そして。
青白い光石に照らされた石柱を見た瞬間、美玲の表情が強張る。
「……陵」
呼ばれて振り返った陵へ、美玲は震える指先を向けた。
石柱の表面へ、深く抉れた数本の溝が走っている。硬い石を削り取った、巨大な爪痕だった。
地上の怪物たちが残したものより、さらに大きい。
「ここ……安全な場所なんかじゃない」
美玲は地下廊の奥を見つめたまま、小さく呟く。
「生き物の気配がないの、最初から何もいなかったからじゃない」
足元へ散乱する武具。
潰れた鎧。
そして、この爪痕。
「……全部、終わった後なんだ」
静けさが、急に違う意味を持ち始める。
ここは逃げ込むための場所じゃない。
すべてが終わった後に残された場所だった。
陵は折れた黒刀の柄を握り直す。
二人は言葉を交わさないまま、地下廊の奥へ視線を向ける。
青白い光の届かない闇が、その先で静かに口を開けていた。
この地下で、何があったのか。
誰が戦い、何に壊されたのか。
答えはまだ、闇の奥に沈んだままだった。
二人はしばらく、その先を見つめたまま動かなかった。
青白い光の届かない先で、地下廊は音もなく口を開けている。
何かが潜んでいる気配はない。
ただ、何もいないという事実だけが、ひどく不気味だった。
やがて、陵がゆっくりと息を吐く。
右手には、瓦礫の中から拾い上げた折れた黒刀があった。
刀としては、もう死んでいるはずの残骸。
刃は中ほどから無惨に断たれ、切っ先も失っている。
それでも、手放す気にはなれなかった。
柄を握るたび、冷えた鉄とは違う妙な感触が、掌の奥へ静かに沈み込んでくる。
陵は警戒を解かないまま、一歩を踏み出した。
美玲も息を呑み、その背中を追う。
石畳へ散らばった武具の残骸を避けながら進むたび、靴裏が砕けた鉄片を踏んだ。
――がり。
――ざり。
わずかな音だった。
だが、この静まり返った地下廊では、それさえも嫌に大きく響く。
風はない。
葉擦れもない。
虫の羽音ひとつ存在しない。
聞こえるのは、自分たちの足音と、呼吸と、耳の奥で暴れる鼓動だけだった。
美玲は無意識に肩を強張らせる。
静かだった。あまりにも静かすぎた。
地上では、あれほど巨大な異形同士が荒れ狂っていたというのに。
この地下だけが、まるで切り離されたみたいに、冷え切った静寂へ沈んでいる。
何かが潜んでいるわけじゃない。
むしろ逆だった。
この広大な地下廊には、生き物の気配そのものが綺麗に抜け落ちている。
夥しい数の武具が砕け散り、石柱には巨大な爪痕が残っている。
これだけの戦いの痕跡があるのに、血も、骨も、死骸すらどこにもない。
命の名残だけが、不自然なほど消え失せていた。
美玲は唇をきつく結ぶ。
自分の呼吸がやけに耳についた。
意識すればするほど肺は浅く震え、衣擦れの音まで大きく感じられる。
この場にそぐわないのは、自分たちの存在そのものではないか。
そんな考えが、ふいに胸の奥を冷やした。
その時だった。
前を歩いていた陵が、不意に足を止める。
美玲も反射的に立ち止まった。
「……陵?」
掠れた声で呼びかける。
返事はない。
陵は折れた黒刀を下げたまま、わずかに顎を引き、闇の奥へ意識を澄ませていた。
背中越しにも、その全身が鋭く張り詰めているのが分かる。
やがて。
「……音がした」
低い声が落ちる。
美玲の喉がひくりと強張った。
「おと……?」
「ああ」
短い返答だった。
だが、聞き間違いではないのだと分かる声だった。
美玲も息を殺し、闇の奥を見つめる。
何も見えない。
青白い光石の明滅が届くのは、せいぜい数歩先までだ。
その向こうは、濃く沈んだ闇が満たしているだけだった。
――からん。
次の瞬間。
回廊の奥で、硬質な音が小さく跳ねた。
美玲の肩がびくりと震える。
金属片が石床を打ったような、乾いた音だった。
それと、ほとんど同時に。
陵の手の中で、折れた黒刀が微かに震えた。
「……っ」
気のせいではない。
柄を握る掌へ、冷たいものがじわりと滲み込んでくる。
まるで、この先にある何かへ、刀そのものが反応しているみたいだった。
陵は無言のまま半歩前へ出る。
自然に、美玲を背中へ庇う形になる。
「下がってろ」
「で、でも……」
「いいから」
押し殺した声だった。
強くはない。だが、有無を言わせない硬さがあった。
美玲は唇を噛み、一歩だけ後ろへ下がる。
その時、また音がした。
――からん。
――ざり……。
今度は一つではない。
何か硬いものを引きずるような、鈍い擦過音が混じっていた。
陵は目を細める。
足音ではない。呼吸もない。熱も、臭いも感じない。
それなのに、確かに何かがいる。
青白い光の縁へ、ゆっくりと影が滲み出した。
最初に見えたのは、黒ずんだ鉄靴だった。
砕けた石畳を踏み、鈍く軋む。
次に、潰れた胸甲。
砕けた肩当て。
裂けた鎧の隙間は、肉も骨もなく、ただ暗い空洞で満たされていた。
中身のない甲冑が、人の形のまま立っている。
兜の奥に顔はない。ただ、その暗がりの中でだけ。赤い光が二つ、ぼうっと燈っていた。
「……なに、あれ……」
美玲の声は、吐息みたいに掠れていた。
陵は答えない。
目の前の異形からは、生き物の気配がしない。
だが、死骸とも違う。
まるで、この地下に積み重なった戦いの残滓そのものが、鎧を着て立ち上がったみたいな、ひどく歪な存在だった。
赤い双眸が、すっと陵へ向く。
その瞬間。
空洞の甲冑が、音もなく消えた。
「――っ!」
反射で陵は折れた黒刀を振り上げる。
次の瞬間、耳をつんざくような衝撃音が地下廊へ爆ぜた。




