第04話:地下より這い出るもの
深い森の夜は、すべてを飲み込むような静寂に包まれていた。
遺跡の入り口。
月明かりがかろうじて差し込む境界で、美玲は陵の肩に頭を預けていた。
意識は浅いまどろみの中を漂っている。
肩越しに伝わる彼の体温だけが、この異世界への恐怖を遠ざけてくれていた。
美玲の呼吸は、次第に穏やかになっていく。
だが陵は、森から視線を外さなかった。
闇の奥を探るように、じっと耳を澄ませている。
葉擦れ。
遠くの夜鳥。
隣で続く美玲の静かな寝息。
そのすべてを、危険ではないと切り分けていく。
だが。
――かつん。
その音だけが、明らかに異質だった。
風ではない。木の枝でもない。
背後の地下階段、その奥深く。
冷たい石畳を、鋭利な何かが叩いた乾いた音。
「――っ」
背筋が粟立つより早く、陵は動いていた。
彼は即座に美玲の肩を軽く、しかし鋭く叩く。
美玲はびくりと肩を跳ねさせた。だが声を上げる前に、陵の視線がそれを制した。
言葉はない。
それでも、その緊張だけで十分だった。
美玲の眠気は一瞬で吹き飛んだ。
先に伝わってきたのは、音ではない。
陵の身体から滲み出る、異様な緊張だった。
心臓が嫌なリズムで脈打ち始める。
その直後。
――かつん。
遅れて、美玲の耳にもその音が届いた。
それは、生き物の足音とは思えなかった。
硬く、乾いている。まるで鋼鉄の爪か、あるいは剥き出しの骨が石を叩いているような、生理的嫌悪を呼び起こす音。
美玲は息を止めた。
ついさっきまで「安全」だと思い込んでいた遺跡の闇が、今は巨大な獣の喉奥みたいに見える。
陵は無言のまま立ち上がった。
気づけば、その右手には拳大の瓦礫片が静かに握られていた。
陵は美玲の手を掴むと、音を殺したまま壁際へ滑った。
地下階段から地上へと抜け出して、倒壊した巨大な石柱の陰へ、二人の身体を押し込む。
石と石の狭い隙間の中、美玲は陵の腕へしがみついた。
近すぎる距離で、互いの鼓動だけが嫌に鮮明に聞こえる。彼女の震えが、陵の腕へ直接伝わっていた。
――かつん。
――かつん。
音が、近づいてくる。
止まらない。
地下階段の闇から、何かがゆっくりと這い出していた。
まるで獲物の気配を確かめるように、一歩ずつ。
地下階段の入り口を見ていた美玲の瞳が、恐怖に見開かれる。
最初に見えたのは、鈍い光沢だった。
月明かりを弾く、濡れた甲殻のような外殻。次いで、節くれだった六本脚。ぎち、ぎち、と不快な軋みを響かせながら石畳を掴んでいる。
そして。
祈るように折りたたまれた、巨大な鎌。
美玲の喉がひくりと震えた。
知っている生物の形ではない。六本脚と巨大な鎌は、かろうじて蟷螂を連想させる。だが、その輪郭はあまりにも歪だった。
昆虫とも、甲殻類とも違う。何か別の、異質な生き物。
体長は一メートルを優に超えている。頭部には目がなかった。
その代わり、白く細長い触角が二本。
夜気を探るように、不規則に揺れている。
「しゅう……しゅう……」
湿った呼吸音が漏れた。
怪物は、二人がつい先ほどまで座っていた場所で足を止める。
顔のない頭部が、かくり、と不自然に傾いた。
その瞬間。
陵の全身が、さらに一段深く張り詰めた。
彼は微動だにせず、怪物を観察している。
脚の運び。
触角の角度。
鎌の位置。
呼吸の間隔。
その瞳だけが、異様なほど静かだった。
怪物の動きを、距離を、呼吸を測るように見据えている。
怪物の白い触角が、ぴくりと震えた。
空気を。
熱を。
あるいは、生き物の感情そのものを探るように。
――それは、確実に二人を見つけ始めていた。
石柱の陰は、人ひとりがようやく身を押し込めるほどしか空間がなかった。
美玲は息を殺したまま、陵の腕へ縋りつく。
近い。
背中越しに伝わる体温。硬く張った筋肉。
それだけが、辛うじて彼女の意識を繋ぎ止めていた。
どく、どく、と。
鼓動だけが耳の奥で暴れている。
――かつん。
――かつん。
怪物が近づいてくる。
節くれだった脚が石畳を擦るたび、不快な軋みが耳の奥を引っ掻いた。
陵は動かない。
左腕を美玲の背へ回し、静かに壁際へ押し込む。
呼吸すら浅い。
まるで、そこに存在していないみたいだった。
対照的に、美玲は震えを止められない。
奥歯が小さく噛み合わず、呼吸だけが浅く乱れていく。
その時。
ふわり、と風が吹き抜けた。
遺跡の入り口から地下へ流れ込む、冷たい夜風。
それが、二人の熱を攫っていく。
ぴたり、と。
怪物の動きが止まった。
数メートル先。
白い触角が、びくりと震える。
探るように。
確かめるように。
ゆっくりと、その先端が石柱の方へ向いた。
美玲の喉が引き攣る。
(……見つかった)
ぎちり。
怪物の鎌が持ち上がった。
同時に、陵の右手が瓦礫片を静かに構える。
その瞳だけが、冷たく細められていた。
怪物の脚運びを、呼吸を、距離を測るように見据えている。
怪物が、一歩、石柱の陰へ踏み込む。
死の気配が、すぐ目の前まで迫っていた。
石柱の角から、白く濁った複眼が覗き込んだ。
至近距離。
美玲は、怪物の節くれだった脚にこびり付いた乾いた泥の欠片まで見えてしまった。
怪物の動きが、ぴたりと止まる。見つかった。
そう理解した瞬間――
「――ッ!!」
耳をつんざく甲高い咆哮と共に、巨大な鎌が振り下ろされた。
轟音。
石柱の角が削り飛ぶ。
砕けた石片が月明かりの下へ弾け散った。
だが。
そこに、もう二人の姿はなかった。
怪物の身体が沈む、その瞬間には、陵はもう跳んでいた。
彼は美玲を抱き寄せたまま、地面を滑るように逆方向へ飛ぶ。
石畳へ背中を打ちつけながら転がり、その勢いのまま立ち上がる。
同時に、陵は美玲を背後の壁際へ突き飛ばした。
守るためではない。
自分が動くための空間を確保するためだった。
怪物が即座に向き直る。
白い触角が激しく揺れ、次の瞬間、鎌が横薙ぎに振り払われた。
速い。
美玲の目では、軌道すら追えない。
だが、陵は逃げなかった。
重心を低く落とす。
そして、鎌の軌道、その「下」へ潜り込んだ。
右手に握られた瓦礫片が閃く。
狙いは、脚の付け根。硬い甲殻が噛み合う、その僅かな隙間。
陵は迷いなく、柔らかい節の部分へ瓦礫を叩き込んだ。
鈍い衝撃音。
「ギィィッ――!!」
怪物が苦悶の声を上げた。
脚が大きくぶれ、石畳へ爪が火花を散らす。
だが、瓦礫はあくまで瓦礫だ。致命傷には程遠い。
陵は追撃しない。
怪物が体勢を崩した、その一瞬だけを奪い取る。
すぐに美玲の手首を掴んだ。
「走れ!」
短く、硬い声。
美玲は反射的に駆け出そうとした。
――その瞬間だった。
森の奥から、空気を震わせるような低い羽音が響いた。
バサ、……バサァッ。
陵の視線が、一瞬だけ遺跡の外へ向く。
次の瞬間。
黒い影が、月明かりを裂いて遺跡へ落下した。
凄まじい衝突音。
巨大な鎌を持つ異形が、石畳を砕きながら横へ吹き飛ぶ。
美玲の呼吸が止まった。
見えたのは、一瞬だけ。
闇の中で浮かぶ、白い目。
倒木の根の隙間から、こちらを覗いていた“あれ”。
「――っ」
異形が巨大な鎌を振り上げ、甲高い咆哮を上げる。
だが、上空から現れた影もまた、低く濁った唸りを返していた。
二体の異形が、遺跡の中央で激突する。
巨大な鎌が石柱を断ち割り、黒い影が瓦礫ごと地面を抉った。
咆哮。
羽音。
砕ける石。
大地そのものが揺れていた。
陵は、その光景を一瞬だけ見据える。
そして。
視線を地下階段へ向けた。
新たに現れた影は、鎌を持つ異形よりさらに巨大だった。
あの体躯では、地下通路へ入り込めない。
「地下に逃げるっ!」
「え……!?」
「今しかない!」
陵は美玲の腕を掴み、激突する異形たちの脇を一気に駆け抜けた。
背後で轟音が炸裂する。
砕けた石片が雨みたいに降り注いだ。
だが陵は振り返らない。
二人はそのまま地下階段へ飛び込み、暗闇の奥へ駆け下りていく。
冷たい地下の空気が、焼ける肺へ流れ込んだ。




