第24話:狭路の戦術と亡き人々。
——ざざ、と。
背後で無数の節足が蠢く音が、狭い空間に反響する。
陵に腕を引かれ、美玲が飛び込んだのは、人ひとり通るのがやっとの枝道だった。
左右の岩肌は鋭く張り出し、肩をすぼめなければ進めない。天井も低い。
赤い苔の光と淀んだ瘴気が、通路の閉塞感を際立たせていた。
「陵……!」
「静かに」
低い声だった。
美玲は荒れそうになる呼吸を必死に押さえ、陵の背中へ身を寄せる。
陵が両手に構えた黒剣と折れた黒刀から、冷たい金属の気配が伝わってきた。
キチキチキチ――。
不快な咀嚼音が入口側から響く。
追ってきた異形。ムカデと甲虫を無理やり繋ぎ合わせたような怪物が、狭い脇道へ頭を突っ込んできた。
だが、その瞬間だった。
本道では圧倒的な数で迫っていた異形たちが、ここでは動きを止める。
横に広がった巨体。無数の節足。硬い甲殻。そのすべてが、この狭路では足枷になっていた。
一度に入れるのは、一体だけ。
後続は岩肌に引っ掛かり、互いの身体を押し合って身動きが取れない。
「……ここなら、関係ない」
ここでは、数が意味を失う。陵の瞳から感情が消える。
ギチリ、と。
先頭の異形が巨大な顎を突き出す。だが、陵は退かない。
シュッ――。
短い風切り音。
左手の折れた黒刀が、触角と顎の隙間へ滑り込む。
短い刃だった。だからこそ、この狭さでも振れる。突き込まれた刃が、複眼を深く貫いた。
「キシャアアアアッ!」
異形が絶叫する。だが、のけ反るより早く、右手の黒剣が振り下ろされた。
ドシュッ。
鈍い破砕音が通路に炸裂した。黒い刀身が首の結合部を正確に断ち割る。緑色の粘液が岩肌に飛び散り、巨大な頭部が床を転がった。
「陵、次!」
美玲が叫ぶ。倒れた一体を乗り越え、二体目が狭路へ押し込まれてくる。
「分かってる」
陵は即座に踏み込んだ。無駄のない体捌き。狭い足場でも重心は微塵もぶれない。
倒れた死骸の胴を横から思い切り蹴り飛ばす。ぐちゃり、と湿った音が響いた。
巨体は壁へ叩きつけられ、節足を岩肌に引っ掛けたまま狭路に食い込む。まるで肉の壁だった。
「ギギッ!?」
後続の個体が死骸に突き当たり、混乱したように節足をばたつかせる。その隙を逃さず、陵の黒剣が死骸の隙間越しに突き込まれた。
肉を貫く音。
さらに死骸を押し込み、通路を埋めていく。やがて肉壁は完全に狭路を塞ぎ、魔物たちの進路を断った。
陵が黒剣の刀身を一度だけ振り、体液を払い落とす。
かすかな風切り音が通路に消え、迷宮に再び重い静寂が落ちた。
美玲は衣服のポケットから、一枚の羊皮紙を取り出した。経年劣化で端が激しく破れ、大部分が欠損している地下迷宮の地図だ。
目を閉じ、先ほどこの枝道へ逃げ込む決め手となった感覚を再び手繰り寄せる。
肌を撫でる、微かな気流。
わずかに湿り気を帯びた空気が、通路の奥から確かに流れてきている。
耳を澄ませば、先ほどよりもはっきりと、水の爆ぜるような反響音が聞こえた。
美玲は目を開け、苔の赤い光に羊皮紙をかざした。
不完全な地図の断片と、今の空気の流れ、音の響き方。それらの情報を、脳内で一本の線へと繋ぎ合わせていく。
「……陵。さっき感じた気流の通り、やっぱりこの先、広い空間に出るよ。水音が反響してるから、遮る壁がないはず」
陵が静かに視線を落とす。
美玲の指先が示しているのは、完全に白紙になっている未開拓のエリアだった。
「風の冷たさからして、今までよりずっと深い場所に繋がってる気がする。でも、行き止まりじゃないのは確かだよ」
陵がそれを疑う理由はなかった。
「分かった。その空間を目指す」
陵は短く応じると、折れた黒刀を再び正眼へ持ち直し、闇の奥へと歩き出した。
美玲も地図を素早く収め、その背中に迷いなく続いた。
さらに数分、身体をすぼめながら進むと、急に左右の岩肌が遠のいた。
枝道が終わり、やや開けた空間に出たのだ。
変化はすぐに分かった。
周囲の壁を覆っていた赤い苔が、ここにはない。
ただの薄暗い岩肌が広がり、空気の澱みも薄れている。
気流の源はここだった。
奥へと続く闇から、冷たい風が吹き抜けている。
だが、漂う気配はこれまで以上に重かった。
「苔が……消えた?」
美玲が声を潜めて呟く。
陵は黒剣を下段に構えたまま、油断なく空間の奥へと足を踏み入れた。
岩の影、天井の窪み、床の裂け目。無駄のない視線移動で、ひとつずつ確実に死角を潰していく。
「……クリアだ。魔物の気配はない」
陵の短い報告を受け、美玲も空間の内部へと歩みを進めた。
だがその直後、二人は床の一点に目を留め、息を詰めた。
空間の隅。
岩の影に、不自然な塊がいくつも転がっていた。
近づくにつれて、それが何であるかが明確になる。
遺体だった。
それも、一人や二人ではない。
どれもボロボロに擦り切れた粗末な麻の服を身に纏っている。あるものは白骨化し、あるものはまだ肉の生々しさを残したまま、異形の顎に引き裂かれた無残な姿で転がっていた。
「……私たちより前に、何人も来てる」
「まるで、罠を代わりに踏ませるための人形だな」
陵の声には、一片の同情もなかった。
ただ事実として処理し、死骸の傍らに落ちていた未だ使えそうな鉄の杭を拾い上げる。
戦場では珍しくもない光景。最前線に防波堤として立たされる消耗品たちと同じ匂いが、この場所には満ちていた。
美玲は胸の奥に重さを感じながらも、無理やり前へと視線を戻した。
可哀想だとか、こうはなりたくないとか、彼らは何を考えて死んだのかとか、そんなことは今は後回しだ。
その時、彼女の目が空間の最奥を捉えた。
そこには、ひときわ真新しい遺体が、壁にもたれかかるようにして事切れていた。
だが、その右手は胸元で何かを固く握りしめ、そのまま硬直している。
硬く結ばれた指の隙間から、青白い、明滅するような微かな光が漏れていた。
美玲は遺体の前にしゃがみ込んだ。
慎重にその指を解き、中にあるものを取り出す。
歪な多面体の結晶。
冷たい熱を帯びたそれは、暗闇の中でも確かな存在感を放っていた。
懐から地図の断片を取り出し、端に殴り書きされた魔石のスケッチと見比べる。
形状。
そして特有の光。
――間違いない。
「見つけた」
美玲は振り返り、周囲を警戒する陵へ短く告げた。
「これ、目的の魔石だよね。絵と完全に一致してる」
直接肌に触れさせないよう、持っていた布で結晶を幾重にも包む。そのまま腰の皮袋へと押し込み、紐をきつく結んだ。
これでノルマは果たした。自分たちをこの暗闇へ突き落とした都市での居住権。そのチケットが手に入ったのだ。
だが、美玲の表情に安慮はなかった。むしろ、ここからが本番だった。
「……帰るぞ」
陵が静かに告げる。美玲は頷いた。
目的の魔石は手に入った。
だが、二人の表情に安堵はない。
狭路に積み上げた異形の死骸。刃にこびり付いた体液。消耗した身体。
それらすべてを抱えたまま、今度は来た道を戻らなければならない。
迷宮の奥から吹く冷たい風が、どこか獣の吐息のように感じられた。
「うん。生きて、戻ろうね」
美玲は短く応え、立ち上がる。
「それ、死亡フラグだろ。……生き抜くぞ」
陵が静かに刃を構え直す。
二人は踵を返し、再び闇の中へ足を踏み出した。




