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ふたりぼっち、異世界に  作者:
第二章:世界を生き抜く片道切符

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25/25

第25話:帰路の静寂と、這い寄る真なる影

 目的の魔石をしっかりと布に包み、ポケットの奥深くにねじ込む。

 それは、二人がこの絶望的な底辺から這い上がるための、唯一の切符だった。


「戻るぞ。気を抜くな」


 陵の低く落ち着いた声に、美玲は無言で小さく頷いた。


 来た道を戻る。

 それはつまり、先ほどまで自分たちを完全に包囲していた、あの赤い苔に擬態する異形の大群がひしめく本道へ、再び出ることを意味している。


 細く、息が詰まるような暗い枝道を、陵の背中を追って慎重に引き返す。美玲は視覚が制限される暗闇の中で、全神経を聴覚と肌に集中させていた。まだ死にたくなかった。


 やがて、暗闇の先に異様なシルエットが浮かび上がった。

 先ほど、陵が狭い通路を利用して異形を次々と斬り捨て、その死骸を積み上げて作った即席のバリケード――「肉の壁」だ。


 甲殻や体液が入り混じったグロテスクな障害物の前で立ち止まり、陵は油断なく黒剣の下段の構えをとる。

 

「陵……」


 美玲は彼の背中越しに、震える声で囁いた。


「……音が、しない」


 ほんの数十分前まで、この壁の向こうからは無数の異形たちが立てる耳障りな音が響いていたはずだった。

 硬い甲殻が岩肌を這い回る摩擦音、カチカチと顎を打ち鳴らす威嚇音、あるいは仲間同士で何かを咀嚼しているような、おぞましいノイズのスコール。


 それが今はどうだ。

 不気味なほどの、完全な静寂。

 壁の向こう側からは、あの大群がひしめき合っていたはずの「生気」や「殺意」といったものが、文字通り一滴残らず消え去っているのだ。


 異常すぎる静けさに、陵も目を細めた。

 けれども、短い呼気とともに、無言のまま黒剣の切っ先を肉の壁へと突き立てた。


 ぐちゃり、と嫌な音を立てて異形の残骸が崩れる。

 陵は剣先で慎重に死骸を押し退け、視界を通すための僅かな隙間を作った。


 その瞬間だった。


「ッ……!」


 美玲は咄嗟に両手で口と鼻を強く覆い、胃からせり上がってくる吐き気を必死に飲み込んだ。


 陵でさえ、微かに顔をしかめる。


 開いた隙間から流れ込んできたのは、冷たい空気などではない。

 鼻腔を暴力的に犯す、異常なまでに濃密な『血の臭い』だった。


 それは、陵が異形を斬り捨てた際に漂っていた青臭い体液の悪臭とは全く異なっていた。

 まるで巨大な生肉の塊が幾つも引き裂かれ、内臓が四方八方にぶちまけられたような、むせ返るほどの圧倒的な死臭。


 濃密すぎる血の臭いが、得体の知れない重苦しい空気とともに、暗い隙間の向こうから粘り気を持って二人の足元へと這い出してきていた。


 こじ開けた隙間を抜け、二人は本道へと足を踏み入れた。


(……酷いな)


 先ほどまで壁や天井を埋め尽くすほど蠢いていた異形の大群。

 それが今や、原型を留めない肉塊と砕けた甲殻の残骸と化し、広い通路のそこかしこに散乱していた。

 青緑色の体液と赤黒い血肉が混ざり合い、足の踏み場もないほどの惨状を作り出している。


 ただの殺戮ではない。

 残骸のひしゃげ方、無理やり引きちぎられたような断面、そして壁の不自然な傷。それらが雄弁に物語っていた。


 異形たちが擬態していた壁の赤い苔すらも、巨大なヤスリで削り取られたかのように岩肌ごと抉られている。

 それは戦闘の跡ではなく、圧倒的な暴力による一方的な『捕食』の痕跡だった。


「……っ」


 あまりの惨状と吐き気を催す死臭に、美玲は顔を青ざめさせる。

 だが、恐怖の底に突き落とされた彼女の研ぎ澄まされた感覚が、さらなる絶望を捉えた。


 迷宮の奥深く——まだ血の臭いが濃く漂う闇の向こうから、微かな、しかし確かな『異音』が響いてきたのだ。


 ズズッ……ぬちゃり。


 鼓膜を震わせるというより、直接臓腑を撫で回されるような、重く湿った足音。

 何か巨大な質量を持つものが、血の海と化した床を踏みしめ、ゆっくりとこちらへ向かって歩みを進めている。


 あの無数の群れを単独で蹂躙し、喰らい尽くした上位の存在。この迷宮の生態系の頂点に立つであろう真の『捕食者』が、まだすぐ近くにいる。


 美玲の全身の毛穴が粟立ち、本能が警鐘を鳴らした。

 息をするのも恐ろしいほどの重圧が、物理的な重さを持って空間を支配し始める。


「りょ——」


 震える唇を開きかけた瞬間、陵の動きは思考よりも早かった。

 凄惨な周囲の状況と、闇の奥から這い寄る足音。それだけで彼は交戦という選択肢を完全に切り捨てていた。


「走るぞ」


 短く、極めて冷徹な声。

 同時に、陵は美玲の手首を折れんばかりの強い力で掴んだ。


 有無を言わさぬ力で引き寄せられ、美玲は弾かれたように駆け出す。


 目指すは、この階層に降りてきた大階段。

 足元の残骸を蹴り飛ばし、血の海に足を取られそうになりながらも、二人は全速力で本道を駆け抜ける。背後から這い寄る、底知れぬ死の気配から一秒でも早く遠ざかるために。


 肺が焼け焦げるように熱い。血と体液でぬかるんだ床に何度も足を取られそうになりながら、美玲はただ無我夢中で陵に引かれるまま駆け続けた。


 背後から迫る重い足音は、やがて岩肌を削るような凄まじい突進音へと変わっていた。

 ズオオオォォッ、と背後の闇がうねり、圧倒的な質量の塊が猛スピードで肉薄してくるのが、振り返らなくても肌を刺すような殺気でわかる。

 早すぎる。あれだけの惨状を作り出した巨体でありながら、その速度は異常だった。


(追いつかれる……!)


 恐怖で心臓が破裂しそうになったその時、前方の暗闇にうっすらと空間の広がりが見えた。第一層の入り口である、大階段の巨大な石造りのアーチだ。


「あ……っ」


 希望の光が見えた刹那。

 背後の闇が、爆発した。


 ヒュゴウッ!! と、空気を鋭く引き裂く異音が響く。

 それは巨大な鞭か、あるいは大木ほどの太さを持つ刃か。正体など視認する余裕もない。ただ、絶対的な『死』が、背後から二人をまとめて薙ぎ払おうと迫っていた。


「ッ!」


 声にならない鋭い呼気とともに、陵が動いた。

 繋いでいた美玲の手を強引に引き寄せたかと思うと、彼女の身体を前方の大階段に向けて、思い切り突き飛ばしたのだ。


「きゃあっ!?」


 突き飛ばされた美玲が宙を舞う中、陵は全速力で走っていた勢いのまま、限界に近い身体を強引に捻って反転した。

 右手に漆黒の剣、左手に折れた黒刀。

 瞬時に二つの刃を十字に交差させ、迫り来る見えない死の一撃に対する盾とする。


 直後。

 暗闇から突き出された、ぬめりを帯びた巨大な触手——あるいは刃のような異形の腕が、陵の構えた双刃に激突した。


 ガギィィィィィィィンッ!!!!


 鼓膜が破れんばかりの甲高い金属音が迷宮に轟き、強烈な火花が散る。


 陵の顔が苦痛に歪んだ。

 だが、決して踏み止まろうとはしなかった。


 激突の瞬間、自ら両足の踏ん張りを解き、襲いかかってきた莫大な運動エネルギーを『後方への推進力』へと変換した。


 ドンッ! 


 弾き飛ばされるような速度で、陵の身体が宙を舞う。

 彼が自ら吹き飛んだ先は、美玲が突き飛ばされた方向——すなわち、大階段のアーチの内側だった。


 突き飛ばされた勢いで大階段の硬い石畳に転がり込んだ美玲は、全身を打ちつけながらも必死に身をよじって体勢を立て直した。


 その直後、けたたましい金属音の残響と共に、猛スピードで後方へ吹き飛んでくる陵の姿が視界に飛び込む。


「陵ッ!」


 美玲は咄嗟に両腕を広げ、飛んできた陵の身体を真正面から受け止めた。

 二人は激しく絡み合うようにして石段を数段転げ上がり、ようやくその勢いを殺して止まる。


「ぐ、っ……」


 陵の口から苦悶の呻きが漏れた。

 あの規格外の一撃を捌いた両腕は、服越しにでもわかるほど小刻みに痙攣している。


 息も絶え絶えに二人が大階段の下へ視線を向けると、入り口のアーチ——第一層との境界線には、見えない壁でも存在するかのように、あの得体の知れない闇がピタリと動きを止めていた。


 アーチから漏れる微かな光を嫌がっているのか、あるいは教会の何らかの結界が張られているのか。

 追撃者の姿は見えなかった。境界線の石段より上へは決して踏み込もうとしなかったから。


 やがて、深淵の底から怨嗟を孕んだような、底知れぬ咆哮が一度だけ轟く。

 ズウゥゥゥン……と迷宮全体を震わせるその音に、美玲は恐怖で身をすくませた。


「……怪我は、ないか」


 荒い息を吐きながら、陵が掠れた声で問う。


「私は平気。でも、陵の腕……!」

「折れてはいない。痺れているだけだ。……少し、肩を貸してくれ」

「うん……っ!」


 美玲は力強く頷き、自ら陵の脇に潜り込んでその身体を支えた。陵もまた、彼女の華奢な肩に体重を預ける。

 二人は互いの体温と鼓動を感じながら、果てしなく続く上り階段を、一段、また一段と這い上がり始めた。


 疲労で足は鉛のように重く、幾度も膝が折れそうになる。全身は泥と血と冷や汗に塗れ、満身創痍だった。

 それでも、誰の目からも生気が失われていたスラムの住人たちとは違い、二人の目には確かな光が宿っていた。


 どれほどの時間をかけて登っただろうか。

 やがて、遥か上方に施設——迷宮の入り口である関所の堅牢な鉄格子と、松明の明かりが見えてきた。


 美玲は陵を支えていない空いた方の手で、ポケットの奥をきつく握りしめる。

 布越しに伝わる、ざらりとした硬く冷たい感触。


(ある。ちゃんと、ここにある)


 それは単なる石ころではない。

 彼らがこの理不尽な異世界で、死の淵を歩き、どん底から這い上がるために自らの手で掴み取った、確かな『生存への切符』だった。

新しい表現方法にトライしてみました。

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