第23話:戦場の記憶と、迷宮の始まり。
左の通路へ足を踏み入れると、壁面を覆う苔が放つ禍々しい赤光が二人を迎え入れた。
空気はねっとりと重く、呼吸のたびに肺を侵されるような瘴気が漂っている。だが、美玲の読み通り、時折肌を撫でる微かな気流が、この先に開けた空間が存在することを示していた。
暗闇の奥からは、ぽつり、ぽつりと水滴が岩盤に落ちる音だけが不気味に反響している。自分たちの足音だけが響く静寂の中、美玲は前を歩く陵の背中を見つめた。
それから、ふと口を開く。
「そう言えば、陵」
「なんだ?」
陵は赤光の届かない暗闇を警戒したまま、短く応じた。
「小屋で言ってたよね。陵の武術って……紀元前から続いてるって」
「あー……言ってなかったっけ?」
幼い頃から一緒にいたせいか、美玲には何でも話している気になっていた。
だが実際には、彼女が知らないこともある。こんな異世界の迷宮を歩きながら、それを思い出すのも妙な話だった。
「正統後継者に選ばれたって話は聞いたけど……」
「あー……それは話したか」
陵はどこか気まずそうに頭を掻いた。
「夏休み、一緒に遊べなかっただろ?」
「戦場に行くって言ってたよね」
――夏休み、紛争地域に行くことになったんだよね。
当時は現実感の薄かったその言葉が、今の陵の姿と重なり、美玲の胸に重く沈む。
「社会勉強って名目だったけど、あれも後継者育成の一環だったんだよ」
陵は淡々と続けた。
「生き残るために必要なことを、一通り叩き込まれた」
その言葉だけで、どれほど過酷な場所にいたのか、彼女にも想像できた。
会話が途切れる。
再び落ちた静寂は、先ほどよりも重い。
美玲は小さく息を吐くと、意識を迷宮へ戻した。
手の中の欠損した地図を広げ、赤い苔の光を頼りに現在地を照合する。
描かれているのは大まかな通路構造のみ。空白部分が多く、まともな地図とは言い難い。だが、美玲は視線を落としたまま感覚を研ぎ澄ませていく。
(気流の流れ……水音の反響……)
脳内で地図に立体的な空間を組み上げる。
(右側の壁の奥……空間がある)
「陵」
声を潜めて呼びかける。
「右の壁の向こう、多分かなり広い空洞がある。風の抜け方が不自然」
「……ああ。俺も違和感を感じてた」
陵が短く答えた、その時だった。
彼の足運びが変わる。
音を消し、重心を沈め、全身が戦闘態勢へ切り替わった。
ピタリ、と陵が足を止める。左手を横へ伸ばし、美玲を制止した。
「……美玲。俺の背中から離れるな」
低い声だった。
前方の暗闇。
そして、美玲が空洞を感じ取った右側の壁。
そこから、ねっとりとした死の気配が滲み出していた。
静寂を破ったのは、ズルリ、と粘着質な水音だった。
右壁を覆っていた赤い苔が、不自然に波打つ。次の瞬間、壁の一部が剥がれ落ちるように通路へ崩れた。
——否。
それは苔に擬態していた魔物だった。
岩のような外殻の隙間から、生々しく脈打つ肉が覗いている。巨大なムカデと甲虫を混ぜ合わせたような異形が、多数の脚を擦り合わせながら醜悪な顎を開いた。
「——ッ!」
美玲が息を呑むより早く、陵が動く。
姿が掻き消える。次の瞬間には、黒剣が魔物の懐へ潜り込んでいた。
一閃。
硬質な甲殻が紙のように断ち割られる。
怪物は断末魔すら上げられぬまま縦に裂け、赤黒い体液を撒き散らして崩れ落ちた。
鼻を刺す腐臭が広がる。
一撃必殺。だが、陵の表情はさらに険しくなった。
「……厄介だな」
低く吐き捨てた直後。
迷宮の奥から、無数の摩擦音が響き始めた。
天井が蠢く。ボトリ、と。
赤い苔の塊が落下し、次々と異形へ姿を変えていく。
さらに暗闇の奥からも、這いずるような足音が迫ってきた。
一体や二体ではない。
十——いや、二十。
瞬く間に通路の前後を塞がれ、包囲網が完成する。
「陵……!」
「俺から離れるな。だが、動ける準備はしておけ」
陵は折れた黒刀を逆手に、黒剣を正眼に、改めて構え直す。
暗闇の中、無数の眼球が爛々と赤く光っていた。
圧倒的な物量。
美玲は震えそうになる膝を必死に押さえ込み、その場に踏みとどまる。
ここで恐怖に呑まれれば、死ぬ。
美玲は強く息を吸い込み、陵の背中を見据えた。
血の匂いと腐臭が混じり合い、瘴気はさらに濃さを増していく。
迷宮の通路は、人が三人並べば肩がぶつかるほどの幅しかなかった。
左右の壁面は湿った岩肌に覆われ、その隙間を埋めるように赤黒い苔が脈打っている。
天井は低い。大人の男なら、黒剣を振り上げれば岩盤に届きかねないほどだった。
岩肌の裂け目からは、絶えず冷たい水滴が垂れ落ちている。
ぽたり。ぽたり。
水音だけが、不気味な静寂の中で反響していた。
足元も最悪だった。ぬめった泥と、異形の体液が混ざり合い、床は酷く滑りやすい。
踏み込みを誤れば、それだけで命取りになる。
そんな閉塞した空間を、四方から迫る異形たちの摩擦音が満たしていた。
ギチ……ギチギチ……。
まるで壁そのものが軋んでいるかのような音。
戦う術を持たない彼女にとって、この空間は紛れもない死地だった。
だが――。
(ここで止まれば、死ぬ)
美玲は唇を強く噛み締める。
恐怖を押し潰すように息を吸い込み、感覚を研ぎ澄ませた。
壁面。天井。床下。
赤い苔の密度。気流の流れ。水音の反響。
散乱した情報が、脳内で迷宮の立体構造として組み上がっていく。
その時だった。
——ギチリ。
右壁の奥から、硬質な摩擦音が響く。続いて、天井近くの苔が波打った。
さらに足元。
床の裂け目から、ぬるりと無数の脚が覗く。
「……来る」
陵の低い声が落ちた。
次の瞬間。
右壁を覆っていた苔が弾け飛ぶ。
擬態を解いた異形が、壁面を蹴って一直線に跳躍した。
同時に、天井に張り付いていた別個体が真上から落下する。
さらに床の裂け目からも、節足を蠢かせた異形が這い出してきた。
だが、陵はすでに動いていた。
黒剣が閃く。
最初に飛びかかってきた異形が、空中で真っ二つに裂けた。
返す刃が、天井から落下してきた個体の脚をまとめて断ち切る。
粘ついた体液が飛び散る中、陵は滑るように半歩だけ横へ流れた。
直後。
先ほどまで陵が立っていた場所へ、床下から這い出してきた異形の顎が突き上がる。
噛み砕かれた岩片が周囲へ飛び散った。
陵は振り返りもしない。
まるで最初から敵の位置が分かっていたかのように、黒剣を逆袈裟に振り抜く。
甲殻ごと断ち割られた異形が、鈍い音を立てて崩れ落ちた。
だが、それで終わりではなかった。
通路の奥。壁面。天井。
赤い苔が次々と波打ち始める。
ボトリ。ボトボトッ。
擬態を解いた異形たちが、狭い通路へ次々と降り立ってきた。
無数の節足が岩肌を擦る音が、鼓膜を不快に震わせる。
「……多いな」
陵が低く吐き捨てる。
美玲は周囲へ視線を走らせる。
「陵、右側の壁際は駄目!」
美玲が叫ぶ。
陵は即座に半歩下がった。
直後、赤い苔に覆われていた壁面が崩れ、内側から大量の節足が雪崩れ込んでくる。
「……チッ」
陵が低く舌打ちした。
振り下ろされた黒剣が、這い出しかけていた異形をまとめて両断する。
赤黒い体液が飛び散り、腐臭がさらに濃くなった。
だが、包囲は止まらない。
天井を這う異形が、一斉に跳ねた。
陵は身体を沈め、頭上を掠めた顎を紙一重で躱す。
そのまま踏み込み。下から跳ね上げるような斬撃が、空中の異形の腹を裂いた。
甲殻の割れる音。飛び散る肉片。
だが、その死骸の向こうから、さらに別の異形が迫る。
陵は止まらない。
最小限の動き。最短距離。
敵を殺すためだけに最適化された剣閃が、暗闇へ幾筋もの黒い軌跡を描いていく。
斬る。断つ。砕く。
異形の死骸が積み上がり、床を赤黒く染めていく。
それでも数が減る気配はない。
「……陵、このままだと囲まれる!」
美玲は息を荒げながら周囲を見渡した。
その時。
左前方から、微かな気流が流れてくる。
あの方向だけ、異形の密度が薄い。
「左前! 多分、枝道がある!」
陵は即座に反応した。
迫ってきた異形の顎を黒剣で弾き飛ばし、その勢いのまま前方へ踏み込む。
強引な突破。
だが、その動きに一切の躊躇はなかった。
美玲も必死にその背を追う。
左右の壁から伸びる節足。天井から降り注ぐ異形。
ぬめった脚先が美玲の肩を掠め、全身が総毛立つ。
次の瞬間。
黒い閃光が横薙ぎに走った。
美玲へ迫っていた異形の頭部が、真横から両断される。
「前だけ見てろ」
短い声。
陵は振り返りもしない。
それでも、襲い来る敵を正確に、確実に斬り伏せていく。
極限へ追い詰められるほど、その動きは冴え渡った。まるで彼だけが、死地の呼吸に順応しているかのように。
やがて。
陵が最後の一体を斬り伏せた瞬間、二人は枝分かれした脇道へ飛び込んでいた。
狭い通路。
だが奥からは、確かな気流が流れている。
背後ではなおも、無数の摩擦音が追い縋るように響き続けていた。




