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ふたりぼっち、異世界に  作者:
第二章:世界を生き抜く片道切符

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23/25

第23話:戦場の記憶と、迷宮の始まり。

 左の通路へ足を踏み入れると、壁面を覆う苔が放つ禍々しい赤光が二人を迎え入れた。


 空気はねっとりと重く、呼吸のたびに肺を侵されるような瘴気が漂っている。だが、美玲の読み通り、時折肌を撫でる微かな気流が、この先に開けた空間が存在することを示していた。


 暗闇の奥からは、ぽつり、ぽつりと水滴が岩盤に落ちる音だけが不気味に反響している。自分たちの足音だけが響く静寂の中、美玲は前を歩く陵の背中を見つめた。


 それから、ふと口を開く。


「そう言えば、陵」

「なんだ?」


 陵は赤光の届かない暗闇を警戒したまま、短く応じた。


「小屋で言ってたよね。陵の武術って……紀元前から続いてるって」

「あー……言ってなかったっけ?」


 幼い頃から一緒にいたせいか、美玲には何でも話している気になっていた。

 だが実際には、彼女が知らないこともある。こんな異世界の迷宮を歩きながら、それを思い出すのも妙な話だった。


「正統後継者に選ばれたって話は聞いたけど……」

「あー……それは話したか」


 陵はどこか気まずそうに頭を掻いた。


「夏休み、一緒に遊べなかっただろ?」

「戦場に行くって言ってたよね」


 ――夏休み、紛争地域に行くことになったんだよね。

 当時は現実感の薄かったその言葉が、今の陵の姿と重なり、美玲の胸に重く沈む。


「社会勉強って名目だったけど、あれも後継者育成の一環だったんだよ」


 陵は淡々と続けた。


「生き残るために必要なことを、一通り叩き込まれた」


 その言葉だけで、どれほど過酷な場所にいたのか、彼女にも想像できた。


 会話が途切れる。

 再び落ちた静寂は、先ほどよりも重い。

 美玲は小さく息を吐くと、意識を迷宮へ戻した。


 手の中の欠損した地図を広げ、赤い苔の光を頼りに現在地を照合する。

 描かれているのは大まかな通路構造のみ。空白部分が多く、まともな地図とは言い難い。だが、美玲は視線を落としたまま感覚を研ぎ澄ませていく。


(気流の流れ……水音の反響……)


 脳内で地図に立体的な空間を組み上げる。


(右側の壁の奥……空間がある)


「陵」


 声を潜めて呼びかける。


「右の壁の向こう、多分かなり広い空洞がある。風の抜け方が不自然」

「……ああ。俺も違和感を感じてた」


 陵が短く答えた、その時だった。


 彼の足運びが変わる。

 音を消し、重心を沈め、全身が戦闘態勢へ切り替わった。

 ピタリ、と陵が足を止める。左手を横へ伸ばし、美玲を制止した。


「……美玲。俺の背中から離れるな」


 低い声だった。


 前方の暗闇。

 そして、美玲が空洞を感じ取った右側の壁。

 そこから、ねっとりとした死の気配が滲み出していた。


 静寂を破ったのは、ズルリ、と粘着質な水音だった。

 右壁を覆っていた赤い苔が、不自然に波打つ。次の瞬間、壁の一部が剥がれ落ちるように通路へ崩れた。


 ——否。


 それは苔に擬態していた魔物だった。

 岩のような外殻の隙間から、生々しく脈打つ肉が覗いている。巨大なムカデと甲虫を混ぜ合わせたような異形が、多数の脚を擦り合わせながら醜悪な顎を開いた。


「——ッ!」


 美玲が息を呑むより早く、陵が動く。

 姿が掻き消える。次の瞬間には、黒剣が魔物の懐へ潜り込んでいた。


 一閃。

 硬質な甲殻が紙のように断ち割られる。

 怪物は断末魔すら上げられぬまま縦に裂け、赤黒い体液を撒き散らして崩れ落ちた。


 鼻を刺す腐臭が広がる。

 一撃必殺。だが、陵の表情はさらに険しくなった。


「……厄介だな」


 低く吐き捨てた直後。

 迷宮の奥から、無数の摩擦音が響き始めた。


 天井が蠢く。ボトリ、と。

 赤い苔の塊が落下し、次々と異形へ姿を変えていく。

 さらに暗闇の奥からも、這いずるような足音が迫ってきた。


 一体や二体ではない。


 十——いや、二十。


 瞬く間に通路の前後を塞がれ、包囲網が完成する。


「陵……!」


「俺から離れるな。だが、動ける準備はしておけ」


 陵は折れた黒刀を逆手に、黒剣を正眼に、改めて構え直す。

 暗闇の中、無数の眼球が爛々と赤く光っていた。


 圧倒的な物量。

 美玲は震えそうになる膝を必死に押さえ込み、その場に踏みとどまる。


 ここで恐怖に呑まれれば、死ぬ。

 美玲は強く息を吸い込み、陵の背中を見据えた。


 血の匂いと腐臭が混じり合い、瘴気はさらに濃さを増していく。

 迷宮の通路は、人が三人並べば肩がぶつかるほどの幅しかなかった。


 左右の壁面は湿った岩肌に覆われ、その隙間を埋めるように赤黒い苔が脈打っている。

 天井は低い。大人の男なら、黒剣を振り上げれば岩盤に届きかねないほどだった。


 岩肌の裂け目からは、絶えず冷たい水滴が垂れ落ちている。


 ぽたり。ぽたり。


 水音だけが、不気味な静寂の中で反響していた。

 足元も最悪だった。ぬめった泥と、異形の体液が混ざり合い、床は酷く滑りやすい。


 踏み込みを誤れば、それだけで命取りになる。

 そんな閉塞した空間を、四方から迫る異形たちの摩擦音が満たしていた。


 ギチ……ギチギチ……。


 まるで壁そのものが軋んでいるかのような音。

 戦う術を持たない彼女にとって、この空間は紛れもない死地だった。


 だが――。


(ここで止まれば、死ぬ)


 美玲は唇を強く噛み締める。

 恐怖を押し潰すように息を吸い込み、感覚を研ぎ澄ませた。


 壁面。天井。床下。

 赤い苔の密度。気流の流れ。水音の反響。


 散乱した情報が、脳内で迷宮の立体構造として組み上がっていく。


 その時だった。


 ——ギチリ。


 右壁の奥から、硬質な摩擦音が響く。続いて、天井近くの苔が波打った。


 さらに足元。

 床の裂け目から、ぬるりと無数の脚が覗く。


「……来る」


 陵の低い声が落ちた。


 次の瞬間。

 右壁を覆っていた苔が弾け飛ぶ。

 擬態を解いた異形が、壁面を蹴って一直線に跳躍した。


 同時に、天井に張り付いていた別個体が真上から落下する。

 さらに床の裂け目からも、節足を蠢かせた異形が這い出してきた。


 だが、陵はすでに動いていた。


 黒剣が閃く。

 最初に飛びかかってきた異形が、空中で真っ二つに裂けた。


 返す刃が、天井から落下してきた個体の脚をまとめて断ち切る。

 粘ついた体液が飛び散る中、陵は滑るように半歩だけ横へ流れた。


 直後。

 先ほどまで陵が立っていた場所へ、床下から這い出してきた異形の顎が突き上がる。


 噛み砕かれた岩片が周囲へ飛び散った。


 陵は振り返りもしない。

 まるで最初から敵の位置が分かっていたかのように、黒剣を逆袈裟に振り抜く。


 甲殻ごと断ち割られた異形が、鈍い音を立てて崩れ落ちた。

 だが、それで終わりではなかった。


 通路の奥。壁面。天井。

 赤い苔が次々と波打ち始める。


 ボトリ。ボトボトッ。


 擬態を解いた異形たちが、狭い通路へ次々と降り立ってきた。

 無数の節足が岩肌を擦る音が、鼓膜を不快に震わせる。


「……多いな」


 陵が低く吐き捨てる。


 美玲は周囲へ視線を走らせる。


「陵、右側の壁際は駄目!」


 美玲が叫ぶ。

 陵は即座に半歩下がった。


 直後、赤い苔に覆われていた壁面が崩れ、内側から大量の節足が雪崩れ込んでくる。


「……チッ」


 陵が低く舌打ちした。


 振り下ろされた黒剣が、這い出しかけていた異形をまとめて両断する。

 赤黒い体液が飛び散り、腐臭がさらに濃くなった。


 だが、包囲は止まらない。

 天井を這う異形が、一斉に跳ねた。


 陵は身体を沈め、頭上を掠めた顎を紙一重で躱す。

 そのまま踏み込み。下から跳ね上げるような斬撃が、空中の異形の腹を裂いた。


 甲殻の割れる音。飛び散る肉片。

 だが、その死骸の向こうから、さらに別の異形が迫る。


 陵は止まらない。

 最小限の動き。最短距離。

 敵を殺すためだけに最適化された剣閃が、暗闇へ幾筋もの黒い軌跡を描いていく。


 斬る。断つ。砕く。

 異形の死骸が積み上がり、床を赤黒く染めていく。


 それでも数が減る気配はない。


「……陵、このままだと囲まれる!」


 美玲は息を荒げながら周囲を見渡した。


 その時。

 左前方から、微かな気流が流れてくる。


 あの方向だけ、異形の密度が薄い。


「左前! 多分、枝道がある!」


 陵は即座に反応した。

 迫ってきた異形の顎を黒剣で弾き飛ばし、その勢いのまま前方へ踏み込む。


 強引な突破。

 だが、その動きに一切の躊躇はなかった。


 美玲も必死にその背を追う。


 左右の壁から伸びる節足。天井から降り注ぐ異形。

 ぬめった脚先が美玲の肩を掠め、全身が総毛立つ。


 次の瞬間。

 黒い閃光が横薙ぎに走った。


 美玲へ迫っていた異形の頭部が、真横から両断される。


「前だけ見てろ」


 短い声。

 陵は振り返りもしない。

 それでも、襲い来る敵を正確に、確実に斬り伏せていく。

 極限へ追い詰められるほど、その動きは冴え渡った。まるで彼だけが、死地の呼吸に順応しているかのように。


 やがて。

 陵が最後の一体を斬り伏せた瞬間、二人は枝分かれした脇道へ飛び込んでいた。


 狭い通路。

 だが奥からは、確かな気流が流れている。

 背後ではなおも、無数の摩擦音が追い縋るように響き続けていた。

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