第22話:死地への階段と、存在の証明
ガコンッ、と。
昨日と同じように、外からかんぬきが外される鈍い音が響く。
ギィィィッ、と傾いた木の扉が開き、冷たい朝の空気が薄暗い密室に流れ込んできた。
逆光の中に立っていたのは、昨日リーナと共にいた重武装の騎士たちだった。しかし、そこに純白の法衣を纏った少女の姿はない。
無言のまま、騎士の一人が顎で外へ出るよう促す。
陵は地面に突き立てていた『黒剣』を引き抜くと、右手の『折れた黒刀』と共に背中側へ隠すように下げた。
美玲も小さく息を吸い込み、彼の背中を追って土の床を踏み出す。
外の路地も、相変わらずドブと泥にまみれ、淀んだ空気が漂っていた。
早朝のスラムは不気味なほど静まり返っており、道端にうずくまる住人たちは、騎士に連行される二人を虚ろな目で見送るだけだった。
騎士たちに前後を挟まれる形で、二人は歩き出す。
向かう先はスラムの奥――見上げるほど巨大な城の、さらに内側へ続く関所のような場所だった。
道中、先頭を歩いていた騎士が振り返り、乱暴な手つきで粗末な皮袋を美玲へ投げ渡す。
反射的に受け取って中を確認すると、古びた羊皮紙が入っていた。
広げてみると、それは一部が欠損し、乱雑な線で描かれた地下の地図だった。
地図の端には、今回のノルマである「特定の魔石」の形状らしきものが簡素な絵で記されている。
ふと周囲を見渡すと、自分たちと同じように騎士に連行されていく者たちの姿が目に入った。
ボロボロの服を着たスラムの住人や、手枷をはめられた罪人らしき者たち。彼らの顔は一様に青ざめ、死地へ向かうような絶望と恐怖に歪んで震えている。
迷宮の探索。魔物の討伐。
リーナは美しい言葉で飾っていたが、その実態はやはり、正規の兵が死なないための使い捨ての駒。
未知の罠が潜む迷宮を歩かせ、凶悪な魔物の巣を暴くための「生きたカナリア」。それが、今の自分たちに与えられた価値だった。
けれど、その光景に驚きはあれど、戸惑いはなかった。
(……生き残るしかない)
美玲は手渡された粗末な皮袋を強く握りしめる。
前を歩く陵の背中は、相変わらず静かで、揺るぎない。
彼が切り開く道で、自分が少しでも生存確率を上げる。その覚悟だけが、冷えた身体の奥で静かに熱を帯びていた。
重厚な石造りの管理施設を抜け、連行された先は、都市の地下深くへと続く巨大な大階段の前だった。
施設の最下層にあたるそこには、まるで巨大な獣が口を開けたかのような石造りのアーチがそびえ立ち、迷宮へのゲートとして不気味な存在感を放っていた。
覗き込んでも、階段の先は光を一切反射しない深い暗闇に飲まれており、底がどこにあるのか全く見えない。
そこから這い上がってくる冷気は、生臭く、微かな腐敗臭と、どこか鉄錆のような匂いを孕んでいた。
「止まるな! さっさと降りろ!」
騎士の容赦ない怒声と、背中を小突く槍の柄に急かされ、探索者たちは重い足取りで石段を下り始める。
周囲を見渡せば、集められた者たちの様子は凄惨だった。
ある者は手すり代わりにされた鎖にしがみついて嗚咽を漏らし、ある者は騎士に命乞いをして蹴り飛ばされている。彼らにとって、この暗闇の底へ歩を進めることは、自ら死地に赴くことと同義なのだ。
阿鼻叫喚とも言えるその空間で、陵だけは異質なほどの静寂を保っていた。
彼は周囲の喧騒に目もくれず、ただまっすぐに階段の先の暗闇を見つめている。
細く、長い呼吸。無意識のうちに最適な状態へと調整されていた。
森の遺跡を抜けた時と同じだ。殺さなければ、殺される。ならば、先に命を刈り取るまで。
極限状態の中で完全に研ぎ澄まされた戦士の顔が、そこにあった。
陵はゆっくりと右手を背中へ回し、『黒剣』と『折れた黒刀』の冷たい感触を確かめる。
それに応えるかのように、二つの刃から微かな、だが確かな脈動が手のひらに伝わってきた。
「……行くぞ」
ぽつりと、陵が呟く。
その視線は暗闇から外すことなく、隣に立つ美玲へ向けられた言葉だった。
「俺から離れるな」
短く、淡々とした響き。だが、そこには一切の迷いがない。
美玲はごくりと唾を飲み込み、手の中の欠損した地図を握り直す。
「わかってる」
力強く頷き、美玲は陵のすぐ後ろへと歩を進めた。
絶望に支配された空間の中で、二人は静かに、奈落へと続く長い石段へと足を踏み入れた。
どこまでも続くかと思われた湿った石段を降りきり、二人はようやく迷宮の第一層へと足を踏み入れた。
その瞬間、美玲は思わず鼻と口を袖で覆った。
(……何、この空気)
以前迷い込んだ森の地下遺跡も不気味だったが、ここは決定的に異なっていた。
空気が、重い。
単に湿気が多いというレベルではなく、ねっとりとした濃密な瘴気が肌にまとわりついてくる。
微かに赤光を放つ壁面の苔に照らされた空間は、まるで巨大な生物の臓器の中に飲み込まれたような錯覚を覚えさせた。
呼吸をするたびに、肺の中にぬるりとした異物が入り込んでくるような不快感があった。
他の探索者たちが壁際に固まり、進むことを躊躇う中で、美玲は一つ深呼吸をして恐怖を胃の奥へと飲み込んだ。
震える手で、先ほど渡された粗末な皮袋から羊皮紙の地図を取り出す。
(地図の大部分は欠損してる。描かれているルートも、本当に正しいかどうかわからない。なら……)
美玲は目を閉じ、視覚以外の感覚を極限まで研ぎ澄ませた。
肌を撫でる、微かな空気の動き。遠くから響く、水滴が落ちる音の反響。そして、この息詰まるような瘴気の中で、わずかに濃度の違う「匂い」の流れ。
それらの情報を脳内で繋ぎ合わせ、不完全な地図の上に仮想の地形を描き出していく。
(右の通路は風が淀んでる。
行き止まりか、魔物の巣の可能性が高い。左の通路は微かに気流を感じる。水音が反響しているから、空間が開けているはず……)
陵は強い。常軌を逸したその戦闘能力は、森の遺跡で嫌というほど見せつけられた。
だが、彼も無敵ではない。無駄な戦闘を重ねれば、必ずいつか限界が来る。
腕力では何一つ貢献できない自分が、ただ庇われるだけの足手まといになれば、いずれ二人とも死ぬ。
(私が、道を作る)
彼がその力を最大限に発揮できるように。そして何より、彼を人間界へ繋ぎ止める「錨」であり続けるために。
美玲はパチリと目を開き、冷徹なナビゲーターとしての顔を作った。
「陵」
名前を呼ぶと、前方を警戒していた彼がわずかに振り返る。
「左の通路から行こう。こっちは気流が通ってるから」
美玲の迷いのない言葉に、陵は静かに頷いた。
「わかった。俺の真後ろを歩け」
彼が『黒剣』の柄に手をかけ、迷宮の奥へと歩みを進める。
美玲はその広い背中を見つめながら、自らが果たすべき「価値」の証明として、彼と共に暗闇の奥底へと踏み出していった。




