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ふたりぼっち、異世界に  作者:
第二章:世界を生き抜く片道切符

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20/25

第20話:隙間越しの交渉

 美玲は、隙間だらけの壁から外の路地をじっと覗き込んでいた。


 吹き込む風が、ドブの臭いを絶え間なく小屋の中へ運んでくる。

 泥濘んだ路地を行き交う住人たちは、一様に痩せこけ、ぼろ布のような服を纏っていた。


 道端に座り込む者の目には、生気がない。肩がぶつかっても謝罪の言葉はない。

 代わりに交わされるのは、相手から奪えるものがないか探る、獣じみた視線だけだった。


 ここには道徳も秩序もない。

 あるのは、飢えた者が弱者を食い潰すだけの世界、弱肉強食の掟だけだった。


(……普通に話しかけても、絶対に駄目だ)


 背後では、限界を超えた陵が土の床で深く眠っている。


 今の自分には、暴力に対抗する術が何ひとつない。

 もし屈強な男に目をつけられれば、小屋を破られ、すべてを奪われて終わりだ。


 言葉が通じない以上、水を手に入れるには身振りによる物々交換しかない。


 美玲は、手持ちの「カード」を頭の中で冷静に数えた。


 地下の備蓄庫から持ち出した、干からびた肉が少し。

 それと、制服についている真鍮のボタン。


(スマートフォンは……意味ないよね)


 この世界では価値のない黒い板に過ぎなかった。


 飢えた人間にとって、あの干し肉は強烈な餌になる。

 だが、だからこそ相手は慎重に選ばなければならない。


(力が強そうな奴は駄目。徒党を組んでる連中も論外……狙うなら、一人でいる弱者)


 美玲の視線が、壁の隙間から路地を鋭く舐める。


 条件は明確だった。

 水を持っていて、交渉に応じるだけの知恵があり、いざとなれば自分でも抵抗できそうな相手。


 老人か、あるいは子供。

 心臓は早鐘のように鳴っている。それでも頭の中は、不思議なほど冷たく澄み渡っていた。


 やがて。

 淀んだ路地の向こうから、古びた革袋を抱えた痩せ細った少年が歩いてくるのが見えた。


 美玲は息を殺し、壁をコツ、コツ、と小さく叩く。

 ビクッ、と少年が肩を震わせ、立ち止まった。


 野犬のような鋭い目が、音のした壁の隙間を睨みつける。

 泥と煤にまみれた顔の中で、ぎらつく両目だけが異様な光を放っていた。


 美玲は刺激しないよう、ゆっくり両手を見せる。

 武器を持っていない。敵意もない。そう示すための降参のポーズだった。


 少年は無言のまま、抱えていた革袋を胸へ強く引き寄せる。

 用心深く距離を取りながら、隙間の向こうを窺っていた。


 美玲はゆっくりと手を下ろし、足元の空になった水袋を拾い上げる。

 それを逆さにして振る。当然、一滴も出ない。続けて自分の喉を指差し、少年の抱える革袋へ視線を向けた。


『水が欲しい』


 意図は正確に伝わったらしい。

 だが、返ってきたのは冷たい反応だった。


 少年は鼻で嗤う。

 タダで水を恵んでやるわけがない――そんな侮蔑が、汚れた顔にはっきり浮かんでいた。


 彼もまた、この地獄で生き延びることに必死なのだ。

 見ず知らずの相手へ情けをかける余裕などない。


 少年は興味を失ったように踵を返す。


(……行かせない!)


 美玲は即座に「切り札」を出した。


 地下遺跡の備蓄庫で手に入れた、干からびた肉の欠片。

 親指と人差し指でつまみ、壁の隙間からわずかに突き出す。


 ほんの小さな欠片。

 だが、獣脂と強い塩気が混ざった匂いが風に乗って路地へ流れた。


 ピタリ、と。

 少年の足が止まる。


 ゆっくりと振り返った彼の目は、先ほどまでとは別物だった。

 落ち窪んだ両眼が限界まで見開かれ、肉の欠片へ釘付けになる。ゴクリ、と喉が大きく上下した。


 飢えた獣の目だった。


(……食いついた)


 心臓が口から飛び出しそうになる。

 それでも美玲は、肉を持つ手を微塵も揺らさず、少年を真っ直ぐ見返した。


 次の瞬間。

 ダッ、と少年が飛び出した。


 獲物へ襲いかかる肉食獣そのものの動き。

 泥だらけの手が、壁の隙間へ勢いよく伸びる。


 だが、美玲は予測していた。

 サッ、と腕を引く。肉は壁の内側へ消えた。


 バンッ!


 少年の手が木板に叩きつけられ、鈍い音が響く。


「……ッ!」


 少年は隙間へ顔を押し付け、怒りと焦りの声を漏らした。

 血走った目、今にも壁を蹴破りそうな勢いだった。


 その少年の瞳に、恐怖で膝が震えそうになった。

 だが、美玲は奥歯を噛み締め、それを無理やり押さえ込んだ。


(舐められたら終わり……!)


 美玲は怯えを一切見せず、氷のような目で少年を見返す。

 そして空の水袋と、少年の革袋を交互に指差した。


『水が先だ』


 明確な要求だった。

 少年はギリッと歯ぎしりし、自分の革袋を強く抱きしめる。


 このスラムでは、水も命そのものだ。

 だが同時に、鼻腔へ焼き付いた肉の匂いも、彼を強烈に誘惑しているはずだった。


 張り詰めた沈黙が流れる。

 美玲の背中を、嫌な汗が伝った。


 永遠のような時間のあと。

 少年が、忌々しげに舌打ちする。


 乱暴な手つきで革袋の口を開いた。

 美玲は素早く空の水袋を隙間へ寄せ、もう片方の手で再び肉を見せる。


 隙間越しの、命懸けの取引。

 少年は警戒しながら、水をチョロチョロと注ぎ入れた。


 半分ほど入れたところで、ぴたりと止める。


『これ以上はやらない』


 そう言わんばかりだった。


 美玲は小さく頷き、肉の欠片を隙間から押し出す。

 ひったくるように少年が奪い取った。


 だが、すぐには食べない。

 誰かに見られていないか鋭く周囲を確認すると、肉を大事そうに懐へ押し込む。

 そして最後に一度だけ、美玲を薄気味悪い目で睨み、泥濘んだ路地を駆け去っていった。


 足音が完全に遠ざかる。

 その瞬間、美玲は壁へ背中を預け、崩れ落ちるように座り込んだ。


「はぁっ……はぁっ……」


 せき止めていた呼吸が、一気に溢れ出す。

 足は生まれたての小鹿のように震え、指先は氷のように冷たかった。


 けれど。

 その手の中には、確かな重みがある。


 ちゃぽん、と。

 水袋の中で液体が揺れる音がした。


 陵のような圧倒的な力はない。剣を振るうこともできない。

 それでも、自分の頭と度胸だけで、この異世界のどん底から「命」をもぎ取ったのだ。


「……やった」


 薄暗い掃き溜めの底で。

 美玲は、誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。

 その声には、確かな誇りが宿っていた。


 美玲は震える手で水袋を握りしめ、陵の元へ駆け寄った。

 彼はまだ土の床に横たわったまま、深い眠りの中にいる。

 青白い顔には泥と埃がこびりつき、呼吸も浅い。だが、先ほどよりは幾分落ち着いて見えた。


 ちゃぽん、と。

 水袋の中で、水が揺れた。


 その微かな音に反応したのか。陵の指先が、ぴくりと動く。


 次の瞬間。

 ガバッ、と陵が勢いよく上体を起こした。


「――ッ!」


 鋭い視線が小屋の中を薙ぐ。

 反射的に、足元へ置かれていた『黒剣』へ手を伸ばしかけ――そこでようやく、美玲の姿を捉えた。


「……美玲?」


 掠れた声だった。

 極限まで張り詰めていた警戒が、わずかに緩む。


「よかった……起きた」


 美玲は安堵したように息を漏らした。

 陵はまだ状況を掴み切れていないのか、ぼんやりと周囲を見回す。


 薄暗い壁。湿った土の臭い。そして、美玲が抱える革袋。

 陵の目が止まった。


「……水?」


 驚きが滲んだ。


「どうしたんだ、それ」


 起き上がろうとするが、まだ身体に力が入らないらしい。

 美玲は慌てて肩へ手を添えた。


「無理しないで。外の住人と交換してきたの。干し肉を少し使って」

「外の……?」


 陵の目がわずかに見開かれる。静かな驚きが浮かぶ。


「危ない真似、してないか」

「ちゃんと考えて動いたよ。一人でいた子供を選んだし、力の強そうな人は避けたから」


 そう言いながら、美玲は水袋をそっと持ち上げた。


「ほら、飲んで」


 陵は素直に口を開く。

 美玲は慎重に水袋を傾け、少しずつ彼の口へ水を流し込んだ。


 こくり、と。

 陵の喉が動く。干からびていた身体へ、水がゆっくり染み渡っていく。


 張り詰めていた陵の表情から、少しずつ険が抜け落ちていった。


「……すごいな、お前は」


 ぽつり、と陵が呟く。

 そこにいたのは、地下遺跡で見せた怪物じみた戦士ではなく、昔から知っている幼馴染の少年だった。


「陵がずっと守ってくれたからだよ」


 美玲は静かに答えた。


「今度は私が、頭を使う番だっただけ」

「……そっか」


 陵が少しだけ口元を緩める。不器用な笑みだった。

 

 その時だった。

 ガシャン、ガシャン、と。

 外から重い金属音が近づいてきた。

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