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ふたりぼっち、異世界に  作者:
第一章:俺は世界を選ばない、私は世界を選ばない

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第02話:未知の森と、最初の脅威

 ——目の前の根が、抉れた。


 湿った土が弾け、冷たい泥の粒が頬に散る。鼻の奥に、生臭い土の匂いが入り込んだ。


 彼女の喉が震える。


 叫ぶ——その前に、彼は美玲の口を塞いでいた。


 息が止まる。


 掌の内側に、浅く乱れた呼吸が触れる。熱い。だが、その熱ささえ妙に恐ろしかった。


 白い目が、穴の奥を向いている。


 暗がりの中、その色だけが不自然に浮いて見えた。だが、視線が合っている感じがしない。


 それは顔をゆっくり傾ける。


 探るように。

 湿った空気を舐めるみたいに。


 外で、枝が軋む。

 ぶつ、ぶつ、と、どこか粘ついた音が混ざる。


 土の匂いの奥に、獣とも腐葉土とも違う臭気が滲んでいた。


 見えていない。


 そんな気がした。


 聞いているのか。

 嗅いでいるのか。


 分からない。


 ただ、少しでも息を漏らせば終わる——そんな感覚だけが、皮膚に張り付いて離れなかった。


 黙っていれば、やり過ごせるのではないか。

 そんな希望的観測に、陵は賭けてみることにした。


 外の音が、少しずつ遠ざかっていく。


 枝を擦る音。

 重いものが土を踏む音。


 それが森の奥へ沈むほど、穴の中には自分たちの呼吸だけが残っていった。


 陵は動かなかった。

 彼女の口を塞いだまま、浅い息だけを繰り返す。


 掌に触れる呼吸は熱いのに、指先だけが冷えていく。


 ——まだだ。

 そんな気がした。


 穴の外では、風が木々を揺らしている。

 ざわ、と葉が擦れる。その音が、妙に遠い。


 代わりに、湿った土の匂いばかりが濃くなる。

 根の裏は薄暗く、空気が淀んでいた。


 黴と腐葉土が混ざった臭いの奥に、獣じみた生臭さだけが残っている。

 時折、なにか柔らかいものを引きずるような音が聞こえた。


 ずる、……ずる。


 近いのか。

 遠いのか。


 分からない。


 陵は視線を動かさない。


 こういう時、無駄に確認しない方がいい。


 いるなら、いる。

 いないなら、いない。


 覗き込んだところで、状況は変わらない。


 不意に、頭上で枝が鳴った。


 ぱきり、と乾いた音。

 美玲の肩が大きく震える。


 湿った土が、さらりと首筋へ落ちた。

 陵は口を塞ぐ手に、わずかだけ力を込める。


 まだ動かない。

 それだけを決めていた。


 どれくらい、そうしていたのかわからない。

 美玲は抗議するように、彼の腕を小さく叩いた。


 その感触で、陵はようやく我に返る。

 気づけば、ずっと息を止めていた。肺がじわりと痛む。


「……大丈夫か?」


 低く声を落としながら、彼はゆっくりと手を離した。


「……うん、怪我はしてない」


 彼女は自分の体を冷静に確かめた。


「良かった……」


 彼はほっと一息をついた。


「陵がいなかったらって思うと、ゾッとする」


「俺も、あれは結構きつかった」


 珍しく素直な返答だった。


 美玲は思わず彼の顔を見る。


 陵はいつも通りの顔をしていた。

 けれど、額にはうっすら汗が滲んでいる。


 それを見て、少しだけ現実感が戻った。


「……もう、行ったのかな」


「分からない」


 即答だった。


「でも、さっきよりは静かだ」


 陵はそう言いながら、根の隙間へ視線を向ける。


 美玲もつられて外を見る。


 森は静まり返っていた。


 風が吹くたび、枝葉がざわりと揺れる。

 その音だけが、妙に広く森へ響いていく。


 だが、それ以外の気配がない。


 さっきまで確かに聞こえていた重い足音も、枝をへし折る音も完全に消えていた。


「……なんだったの、あれ」


「知らない」


 陵は短く答える。


「少なくとも、熊ではないな」


「熊ってあんな顔してたっけ……」


「してたらニュースになってる」


 その返答に、美玲は小さく息を漏らした。


 笑った、というより。

 張り詰めすぎた感情が、少しだけ緩んだ感じだった。


 陵は再び外へ目を向ける。


 木々はどこまでも続いている。


 見慣れた杉林とは違う。

 幹は太く、葉の色も深い。


 空気そのものが重かった。


 湿気とは違う。

 森の密度が、そのまま空気に溶け込んでいるみたいだった。


「……こんな場所、日本にあったっけ」


 美玲が呟く。


「俺は知らない」


「だよね……」


 尾根の向こうまで、森しか見えない。


 電線もない。

 道路もない。

 建物の影すら、一つも見当たらなかった。


「卒業式の帰りだったよね、私たち」


「ああ」


「駅の方に歩いてて……」


 そこまで言って、美玲は言葉を止めた。

 その先が、曖昧だった。

 思い出そうとすると、頭の奥に薄い膜がかかったみたいになる。


「……思い出せない」


「俺もだ」


 陵は眉を寄せる。


「気づいたら、ここにいた」


 美玲は制服の袖を握る。


 ほんの少し前まで、確かに見慣れた町にいたはずなのに。

 なのに今は、得体の知れない森の中で、化け物みたいな何かに追われている。


 現実感が、うまく繋がらなかった。


 その時。


 ぐぅ、と。


 小さな音が鳴った。


「……」

「……」


 美玲の腹だった。


 数秒の沈黙。


「……緊張感なくない?」

「仕方ないでしょ! 卒業式のあと、ほとんど何も食べてないんだから!」


 美玲は顔を赤くする。

 陵は一瞬だけ呆れたように息を吐き、それから小さく笑った。


 その笑い声が、妙に安心できた。


 ほんの少しだけ。

 さっきまで全身に張り付いていた恐怖が薄れる。

 それだけで、美玲は自分がどれほど張り詰めていたのか思い知らされた。


 陵は根の隙間から外を窺ったまま、小さく息を吐く。


「……でも、ここに長居はしたくないな」

「また戻ってくるかもしれない?」

「その可能性はある」


 低い声だった。


 陵は身を屈めたまま、外の様子を探る。

 見える範囲に、動くものはない。


 風が吹くたび、葉がざわりと擦れる。

 その音だけが、静かな森の奥へ吸い込まれていく。


 ——静かすぎる。


 それが逆に、不気味だった。


「移動するの?」

「する」


 即答だった。


「暗くなる前に、せめて地形くらいは把握したい」

「地形……」

「高い場所があれば理想だな。ここ、木が多すぎて全然見通せない」


 そう言うと、陵はもう一度だけ外を確認した。


 耳を澄ます。


 風。

 葉擦れ。

 それ以外は、何も聞こえない。


「……行くぞ」


 先に陵が身体を滑り出させる。


 湿った土が制服に擦れた。

 根の隙間は思ったより狭く、肩を捻らないと通れない。


 外へ出た瞬間、空気が変わった。

 淀んだ土の臭いが薄れ、代わりに冷たい森の空気が肺へ流れ込む。


 美玲も続いて這い出た。

 立ち上がりかけて、思わず周囲を見回す。


 木々は異様に高かった。

 枝葉が空を覆い隠し、昼間なのに森の中は薄暗い。幹の太さも、日本で見慣れたものとはどこか違う。

 森そのものが巨大だった。


「……日本じゃないみたい」

「俺もそう思い始めてる」


 陵は周囲を警戒しながら、ゆっくり足を進める。


 その時だった。


 落ち葉の下で、何かが淡く光った。


「……ん?」


 陵が足を止める。

 しゃがみ込み、土と葉を払った。


 現れたのは、小さな石みたいなものだった。

 青白く、淡く発光している。


「なにこれ」

「分からん」


 摘み上げる。


 石だった。


 だが、その内部では光がゆっくり揺れていた。

 LEDみたいな人工的な光ではない。もっと柔らかい。呼吸するみたいな光だった。


「……綺麗」


 思わず、美玲が呟く。

 陵は少しだけ眉を上げた。


「怖がるかと思った」

「怖いけど……でも、ちょっとだけ」


 彼女は森の奥へ視線を向ける。


 薄暗い木々の隙間。

 そのあちこちで、同じ青白い光がぼんやり浮かんでいた。


 まるで星が、森の中へ落ちているみたいだった。


「……なんか、ゲームみたい」

「ゲームなら、最初の敵ヤバ過ぎるだろ」

「それはほんとにそう」


 二人は小さく笑う。


 その時だった。


 遠くで、鳥のような声が響いた。


 甲高く。

 けれど、どこか笛みたいに澄んだ音。


 二人は同時に顔を上げる。


 森の奥。

 枝葉の隙間から、わずかに白い光が見えた。


 夕陽ではない。

 もっと柔らかく、静かな光。


「……あれ」


 美玲が指差す。

 陵は目を細めた。


「開けた場所かもしれない」

「行ってみる?」


 数秒だけ考え、陵は頷く。


「ここにいるよりはマシか」


 そう言って、彼はゆっくり歩き出した。

 落ち葉を踏む音が、静かな森へ小さく沈んでいく。


 その奥で、青白い光が静かに揺れていた。

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