表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふたりぼっち、異世界に  作者:
第一章:俺は世界を選ばない、私は世界を選ばない

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/15

第01話:日常の終わりと、空に近い場所

 ふたりの視界いっぱいに広がっていたのは、見慣れた通学路のアスファルトではなかった。


 果てしない、森の海だった。

 眼下には、濃淡さまざまな緑が幾重にも重なり合っている。


 一歩、踏み出しかけて——彼女は息を呑んだ。その先に地面がなかったから。


 足元は鋭く切り立った崖になっている。

 遥か下まで続く森が、吸い込むように広がっていた。


 風が吹き上げてくる。下から。

 その風はどこか湿り気を帯び、土と、知らない匂いを含んでいた。


 ざわり、と。


 森が揺れる。


 風にしては、遅い。

 まるで意志を持った何かが、木々の間を渡っていくように。


 梢が波打つたび、緑の濃淡が不自然にずれて見えた。


 ——さっきと、同じ景色じゃない。


 尾根に沿って広がる森は、遠くへ行くほど霞んでいる。

 だがその霞は、空気というより、何か別の層のように見えた。


 深い緑は青に溶け、空との境目は曖昧になっている。

 その境界は、まるで世界そのものが途切れているかのようだった。


 ときおり、木々の切れ間から光が差し込む。

 だがその光は、どこか色が薄い。


 陽の光のはずなのに、温かさが伝わってこなかった。


 耳を澄ませば、風と鳥の声だけ。

 それ以外の音が、まるで“最初から存在しない”かのように消えていた。


「ここ、どこ?」


 彼女の声は、小さく、頼りなかった。


 濃紺のブレザーに、真っ白なブラウス。

 ほんの少し前まで、確かに卒業式を終えたばかりだったはずなのに。


「……どこなんだろうな」


 彼はブレザーのボタンを外す。

 その手は落ち着いているのに、視線だけが定まらない。

 まるで、この景色のどこかに“答え”があるとでもいうように。


「私たち、何してたっけ?」


 思い出そうとするほど、記憶が遠のく。

 ついさっきのはずなのに、輪郭がぼやけていく。


「卒業式が終わって……帰るところまでは覚えてる」


 彼はそう言った。

 だがその言葉は、この場所ではひどく場違いに聞こえた。


 そのとき。

 足元で、小さな音がした。


 ぱらり、と。

 砂利のようなものが崩れ、崖の下へと落ちていく。


 思わず、彼女は息を止めた。

 遅れて、音が返ってくる。ずっと下から。


 あまりにも遠すぎた。


「……やばくない?」


 今さらな言葉だった。


「崖から離れよう」


 彼は短く言い、彼女の腕を軽く引いた。


 反射的に一歩下がる。

 それだけで、心臓の音がやけに大きく響いた。


「ねえ」


 彼女は、まだ崖の向こうを見たまま言う。


「これ……ほんとに日本?」


「さあな」


 即答だった。

 そのあっさりした返事に、少しだけ現実味が戻る。こんな状況なのに、彼はいつも通りだ。


「……陵って、こういうときでも動じないよね」


「動じてるよ」


 間髪入れず返ってきた。


「顔に出てないだけ」


「出してよ」


 思わず、少しだけ笑いがこぼれた。


 その瞬間だった。


 ざわり、と。

 さっきよりもはっきりと、森が揺れた。


 風じゃない。

 揺れ方が、違う。


 波のように。

 下から、押し上げるように。


「……なに、あれ」


 彼女の声が、今度ははっきりと震えた。


 森の一部が、盛り上がっている。


 いや。

 ——“動いている”。


「下がれ」


 彼の声は、低く、はっきりしていた。

 その一言で、体が先に動いた。


 崖から距離を取る。


 その瞬間——


 森が、大きく波打った。


 ざわり、ではない。


 ——ずるり、と。


 何かが、動いた。


「っ……!」


 言葉にならない息が漏れる。

 視界の端で、緑の塊がわずかに持ち上がる。

 木々の密集の奥で、確かに。


 何かがいる。


「走れ」


 今度は、迷いがなかった。

 彼はそう言うと同時に、彼女の手首を掴んだ。


 強く。


「ちょ、ちょっと——」

「いいから!」


 引かれるまま、足がもつれるように動き出す。

 地面は思ったより柔らかく、踏みしめるたびに沈む。


 走りにくい。

 それでも、止まれない。


 後ろで、音がした。

 枝が折れる音。

 重いものが、森をかき分ける音。

 振り返りたくなる衝動を、必死に押し殺す。


「陵……!」

「見るな!」


 即座に返ってきた。

 その強さに、逆らえなかった。


 息が上がる。


 足が絡まりそうになる。

 それでも彼は、速度を緩めない。


 むしろ、加速している。

 逃げる方向も、迷いがない。


「なんで……!」

「後で!」


 短すぎる返答。

 だが、それで十分だった。


 そのとき。

 背後で、はっきりと地面が鳴った。


 どん、と。

 低く、重い振動。

 それが、足元まで伝わってくる。


「……っ」


 思わず、振り返る。


 ほんの一瞬。

 木々の隙間に、見えた。


 ——影。


 緑に紛れてなお、異様な輪郭を持つ何か。

 それは、確かにこちらを追っていた。


「美玲っ!」


 強く腕を引かれる。

 前につんのめりながら、再び視線を戻す。


「前だけ見てろ!」


 息が上がる。

 足が絡まりそうになる。

 それでも彼は、速度を緩めない。


 そのときだった。


 足元が、ずるりと滑った。

 落ち葉に足を取られる。

 踏み込んだはずの地面が、わずかに崩れる。


「……っ!」


 体が前に傾く。

 次の一歩が出ない。


 ——倒れる。


 そう思った瞬間、強く腕を引かれた。


「危ない!」


 引き戻される。

 想像より、ずっと強い力だった。

 腕が軋むほどに引かれ、ほとんど持ち上げられるように体勢が立て直される。

 足が地面に戻る。

 踏みしめた感触が、遅れて伝わってくる。


 心臓が跳ねた。


 ほんの一瞬、足が止まった。

 その一瞬が、やけに長く感じられる。


 後ろで音がする。さっきよりも近い。

 枝が折れる音。重いものが地面を踏みしめる音。


「……っ、ごめん」


 息を乱しながら、ようやく声が出た。


「いいから走れっ」


 間髪入れず、返ってくる。

 再び腕を引かれる。

 今度はさっきよりも、迷いのない力で。


 足場は悪い。

 浮き出た根に足を取られ、落ち葉が滑る。踏みしめるたび、地面がわずかに崩れる。


 それでも。

 彼の速度は落ちない。

 視線だけが違った。

 前を見ていない。

 木々の間。地面の起伏。水の流れた跡。

 何かを探していることだけは、彼女にもわかった。


 背後で、地面が鳴った。


 どん、と。


 さっきよりも、近い。

 振動が足の裏を打つ。空気が押し寄せる。


 距離が、縮まっている。時間がない。

 間違えれば、終わる。


「……っ」


 そのとき、彼の足はわずかに進路を変えた。

 迷いはなかった。


「こっちだ」


 短く言い、斜面を横に切る。

 引かれるまま、方向を変える。


 木々の密度が変わる。

 わずかに、空間が開く。


 地面がえぐれている。

 影が落ちている。


 ——違う。


 ただの影じゃない。

 倒れた大木。


 根がめくれ上がり、土ごと持ち上がっている。

 その裏側に、空洞ができていた。


 人が入れる。隠れられる。


 ——ここしかない。


「入れ」


 強く押される。

 ほとんど叩き込まれるように、その陰へと滑り込む。


 土の匂いが、鼻を突いた。

 視界が一瞬、暗くなる。すぐ目の前に、めくれ上がった根の壁。その隙間に、身体を押し込まれる。


「……動くな」


 低い声が、すぐ耳元で落ちた。

 反射的に、息を止める。


 心臓の音が——


 外で、何かが動いている。


 重い音。

 地面を踏みしめる音。


 さっきより、はっきりと。


 ——うるさい。


 土が、かすかに震える。

 落ち葉が擦れる音。

 枝が、ゆっくりと軋む。


 呼吸が浅くなる。

 吸えば、音が出る気がした。

 吐けば、見つかる気がした。


 外の音が、止まった。

 枝の軋みも。地面を踏み潰す重い音も。完全に消えさった。


 彼女は、息を止めたまま固まっていた。

 聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。


 どく、どく、と。

 嫌になるほど大きい。


 すぐ隣で、彼も動かない。時間の感覚が曖昧になる。

 一秒なのか。数分なのか。分からない。


 やがて、遠ざかるように木々が揺れた。


 ざわり。

 ざわり、と。


 今度こそ、離れていく。

 土を踏む振動も、少しずつ薄れていった。


「……行った?」


 声にならないくらい小さな囁き。

 陵はすぐには答えなかった。


 わずかな沈黙のあと、


「……たぶん」


 低く返ってくる。

 その一言で、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。


 美玲は浅く息を吐く。肺が焼けるみたいだった。


「なんなの、あれ……」

「分からない」


 ——ぽたり、と。


 すぐ近くで音がした。


 彼女は顔を上げる。

 木の根から、黒い雫が落ちている。


 泥ではない。

 粘り気のある、何か。


「……なに、これ」


 指先を伸ばしかけて、その瞬間。

 ぶつり、と。頭上で音がした。


 小さな。けれど、生々しい音。


 ゆっくり顔を上げる。

 根の隙間、その先に視線を向ける。


 木の色に溶け込むような輪郭。

 目だけが、不自然に白い。

 瞬きもせず。

 すぐ近くから、こちらを覗き込んでいた。


 —— “顔”があった。


 彼女の喉が、ひゅっと鳴る。

 声が出ない。

 逃げなきゃいけないのに、身体が動かない。

 その白い目が、細く歪んだ。


 ——笑ったように見えた。


「……っ、陵——」 


 美玲が言い終える前に、彼は彼女の肩を強く引いた。

 視界が揺れる。ほとんど抱き寄せられるように、身体が後ろへ倒れ込む。


 直後。


 ——どぐり、と。


 目の前の根が、抉れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ