第18話:微笑みと、掃き溜め
無数の槍の穂先が、炎の光を反射して冷たく光っていた。
逃げ場なんてなかった。
どうすれば、どうすれば。
思考が空回りし、美玲が絶望に目を閉じかけた、その時。
「――!」
凛とした声が、炎の爆ぜる音を切り裂いた。
何を言っているのかは分からない。
決して大きな声でもない。
けれど、不思議なほどよく通る、澄んだ声だった。
ぴたり、と。
美玲の眼前に迫っていた兵士たちの動きが止まる。
彼らは槍を構えたまま、弾かれたように声のした方へ振り返った。
美玲も、恐る恐る視線を向けた。
炎の向こう側。
重武装の兵士たちが道を空けるように左右へ割れ、そこから新たな影が現れた。
先頭を歩いていたのは、少女だった。
煤と血に塗れた凄惨な地獄の中で、その純白の法衣だけが異様なほど浮き上がって見える。
歳は、美玲たちと同じくらいか、少し上だろうか。淡い色の長い髪が、熱を孕んだ風に静かに揺れていた。
その背後には、全身を分厚い甲冑で包んだ騎士たちが、護衛のように付き従っていた。
少女がゆっくりと歩み寄ってくる。
その足取りには、燃え盛る炎への恐怖も、血の臭いへの嫌悪も感じられない。
ただ、静かな湖面みたいな落ち着きがあった。
兵士たちが慌てたように槍の穂先を下げ、彼女へ深く頭を下げる。
この場を動かせる人物なのだと、美玲にも分かった。
少女は兵士たちへ短く何かを告げると、美玲と、その背後に立つ陵の正面で立ち止まった。
じっと、見つめられる。
優しそうに見えて、どこか心の奥まで覗き込んでくるような視線だった。
少女の胸元で、銀色の装飾が施された青い石の首飾りが、微かに光を帯びる。
『武器を、お下げなさい』
「え……?」
美玲は息を呑んだ。
耳から聞こえたのではない。
頭の奥に、直接声が響いたのだ。
しかも、それははっきりと意味の分かる言葉だった。
『あなたたちが何処から来た何者であれ、ここは聖なる教会の庇護下にある街です。これ以上の争いは許しません』
少女の唇が動く。
同時に、脳内へ静かで威厳のある声が響き渡る。
『私はリーナ。あなたたちを保護します。ですから……その後ろの少年に、剣を収めるように言ってください』
リーナと名乗った少女の視線は、美玲を越えて、背後の陵へ向けられていた。
正確には、陵の手に握られた、鈍く光る黒剣へ。その瞳の奥が、ほんの一瞬だけ冷たく光った。
美玲は、言葉を失ったままリーナを見つめ返す。
脳内へ直接響いた澄んだ声。
そして、黒剣へ向けられた一瞬の視線。
この少女は、ただ優しいだけの存在ではない。
それだけは、美玲にも分かった。
けれど。
「……陵」
美玲は、背後に立つ陵へ振り返った。
彼はまだ、左手の黒剣と右手の折れた黒刀を下げたまま、静かに兵士たちを、そしてリーナを見据えている。
その瞳の奥には、戦闘の余熱がまだ燻っていた。
「だめ。……戦わないで」
美玲は震える手を伸ばし、陵の服の袖を掴んだ。
ここで彼が暴れれば、どうなるか。
相手は野盗ではない。この街の兵士だ。
彼らを敵に回せば、二人はこの場所からも追われるだろう。
陵の視線が、美玲へ落ちる。
焦燥と恐怖に染まった彼女の顔を、静かに見つめた。
数秒の沈黙。
やがて、陵はゆっくりと息を吐き出した。
ガキン、と。
硬い音が響いた。
陵が、左手の黒剣を足元の地面へ深々と突き立てたのだ。
そして、その柄から手を離す。
右手にある折れた黒刀だけは、手首を返して逆手に持ち替え、背中側へ隠すように下げた。
黒剣から手が離れたことで、張り詰めていた空気が、僅かに緩んだ。
美玲は、安堵でへたり込みそうになるのを必死に堪えた。
そのやり取りを、リーナは静かに見つめている。
感情の読めない瞳が、地面に突き立てられた黒剣と、陵を交互に観察していた。
『賢明な判断です』
再び、脳内に声が響く。
『あなたたちは、あの森から抜け出してきた迷い人なのでしょう?』
美玲はハッと顔を上げた。
頷くべきか、迷う。
自分たちがどこから来たのか。どう説明すればいいのか。
けれど、リーナは美玲の答えを待たなかった。
『見たところ、酷く疲弊しているようですね。魔力による汚染も……今のところは見受けられません』
今のところは。
その言葉が、妙に耳に残った。
『教会の名において、あなたたちの安全を保証しましょう』
リーナが手を軽く上げる。
周囲を取り囲んでいた兵士たちが、一斉に槍を引いた。
彼らの顔には依然として警戒の色が濃かったが、リーナの命令には逆らわないらしい。
「あの……」
美玲は、枯れかけた喉から声を絞り出した。
「助けてくれて……ありがとうございます」
言葉が通じるかは分からない。
それでも、礼を言わずにはいられなかった。
彼女の介入がなければ、陵は間違いなく兵士たちと刃を交えていた。
リーナは、ふわりと薄く微笑む。
慈愛に満ちた、聖女のような笑みだった。
『感謝の言葉は必要ありません。神の御心のままに、迷える子羊を導くのが私の務めですから』
リーナは振り返り、護衛の騎士たちへ視線を向けた。
『彼らを、中へ。手荒な真似はしないでくださいね』
騎士の一人が無言で頷き、美玲と陵へ近寄る。
彼らの手に、もう武器は握られていない。けれど、その距離の取り方だけで分かった。
いざとなれば、いつでも二人を取り押さえるつもりだ。
「……行こう」
陵が短く呟く。
彼は地面に突き立てていた黒剣を引き抜くと、右手の黒刀と同じように逆手で持ち直し、刃を背中側へ隠すようにして歩き出した。
美玲は、その後を追う。
ちらりと振り返ると、リーナはもう二人を見ていなかった。
燃え盛る炎を背にして立つ純白の少女。
その視線は、まだ制圧の続く集落へ向けられていた。
騎士たちに前後を挟まれる形で、二人も歩き出した。
燃える集落の中を、突っ切るように進んでいく。周囲はまだ、地獄の真っ只中だった。
崩れ落ちる木造の小屋、火の粉を散らして爆ぜる炎。
地面には、陵に叩きのめされた野盗たちが倒れ、その傍らで住民たちが怯えたように身を縮めている。
血の臭いと、肉が焦げるような異臭が、熱風に混ざって鼻を突いた。
兵士たちは逃げ惑う住民を救うためではなく、混乱を鎮めるために動いていた。
火を消す者。倒れた野盗を縛る者。逃げ遅れた住民を押しのけ、道を空けさせる者。
そこに怒号はあっても、温かさはない。ただ役割をこなすだけの、冷たい秩序があった。
やがて集落の密集地を抜けると、肌を焼くような熱風が少しだけ和らいだ。
代わりに、圧倒的な圧迫感が正面から押し寄せてくる。それは、城壁だった。
近づけば近づくほど、その巨体は現実味を帯びて視界を塞いでいく。
見上げるほどに高い石の壁。
人の手で作られたとは思えないほど巨大な岩が隙間なく積み上げられ、左右の闇の彼方まで延々と続いていた。
不気味なほどに静かで、冷たい壁だった。
すぐ近くで集落がどれだけ燃えようが、人々がどれだけ血を流そうが、この強固な石の障壁は、ただ厳然とそびえ立っている。
美玲は、歩きながら気づいた。
野盗たちが、どうして城壁の中を狙わなかったのか。
こんな化け物みたいな壁、破れるはずがないのだ。
だから彼らは、壁の外側へへばりつくようにして生きていた、無防備な集落だけを襲った。
この壁は、優しさで人を守るためのものじゃない。
内側にあるものだけを守り、外側にあるものを切り捨てるための、絶対的な境界線だった。
自分たちは今、その境界線の根元へ向かっている。
やがて、城壁の中央に位置する巨大な鋼の門の前へ辿り着いた。
近くで見上げる門は鈍い黒光りを放ち、一切の侵入を拒むように固く閉ざされている。
先頭を行く騎士が、上方の門番へ短く合図を送った。
ゴゴゴ、と。
地響きのような重低音が足元から伝わってくる。
堅牢な鋼の門が、重々しい金属音を立てて開き始めた。
左右に割れた門の先には、分厚い城壁をくり抜いたような、暗い石のトンネルが奥へ伸びている。
入れ、と促すように、騎士が顎をしゃくった。
美玲は陵の背中を追って、その暗闇へ足を踏み入れる。
ひんやりとした、光のない通路。
数歩進んだところで、背後から凄まじい衝撃音が響いた。
ドン、と。
鋼の門が、再び閉じられた。
外の炎の照り返しも。人々の悲鳴も。熱風も。分厚い鋼と石によって、完全に遮断される。
世界が、一瞬で切り替わった。
助かった。
そう思いかけた。
けれど。
鼻腔を、別の不快な臭いが突いた。
ドブの臭い。
淀んだ水と、人間の汗と、汚物が混ざり合って饐えたような、ひどい悪臭だった。
思わず顔をしかめ、暗いトンネルの出口の先を見つめる。
そして美玲は、言葉を失った。
巨大な城壁に守られた、内側の世界。
そこに広がっていたのは、想像していたような豊かで美しい街並みではなかった。
城壁の裏側にへばりつくようにして、粗末な木材や布切れを継ぎ接ぎしただけの小屋が、無秩序に折り重なっている。
まるで、巨大なゴミ溜めだった。
道は泥濘み、汚水が溝を流れている。
建物が密集しすぎているせいで空は見えず、重苦しく淀んだ湿気が路地に溜まっていた。
騎士たちは迷うことなく、その薄暗く不衛生な迷路の中を進んでいく。
道端には、人がいた。
ボロボロの衣服を纏い、泥だらけの地面に力なく座り込んでいる。
痩せこけた子ども。虚空を見つめて動かない老人。
騎士たちの足音が響くたび、彼らはびくりと身をすくませ、這うように道を空けた。
その目はどれも虚ろで、生気がない。
美玲は、彼らから向けられる視線に息が詰まりそうになる。
同情でも、歓迎でもない。
ただ、「また新しいのが来た」とでも言いたげな、無関心と警戒が入り混じった冷たい視線。
ここがどこなのか、美玲にもすぐに分かった。
難民区。
あるいは、スラム。
この巨大な城塞都市の、最底辺に位置する場所。
リーナは「保護する」と言った。
それは、間違いではない。
確かに、壁の内側へ入れてくれた。
けれど、それは温かい場所へ招き入れてくれたという意味ではなかった。
「……っ」
美玲は唇を噛み締める。
前を歩く陵は、何も言わなかった。
両手に逆手で持った二本の剣を背中側に隠したまま、周囲の淀んだ空気を無視して、ただ淡々と騎士たちの背中を追っている。
すれ違う住人たちは、陵の纏う異質な空気に気づき、怯えたように目を逸らして後ずさった。
騎士たちが、一つの粗末な小屋の前で足を止める。
傾いた木の扉。隙間だらけの壁。どうやら、ここが自分たちに与えられた「安全な場所」らしい。
美玲は、その空間を見つめたまま、小さく息を呑んだ。
魔物の森とは違う。
じわじわと真綿で首を絞められるような絶望が、足元から静かに這い上がってきていた。




