第17話:燃え盛る境界線、向けられた刃。
森の出口で、残酷に燃え上がっていた。
視界を埋め尽くすほどの、紅蓮の炎だった。
極彩色の樹海を抜け、外へ踏み出した二人を待っていたのは、圧倒的な暴力の光景だった。
見上げるほど高い石造りの城壁。
左右の闇の彼方まで続く、巨大な外壁。
その中央には、堅牢な鋼の門が固く閉ざされている。
そして。
門の手前へ張り付くように広がっていた集落が、激しい炎に呑まれていた。
粗末な木造の建物が次々と燃え落ち、黒煙が夜空へ渦を巻いて昇っていく。
熱風が吹き付ける。
血と煤の臭いを運びながら、美玲の顔を容赦なく打った。
美玲は、その場へ縫い止められたみたいに立ち尽くす。
火の粉が舞う中を、人々が逃げ惑っていた。
子どもを抱えて走る女。
荷物を抱えたまま転び、悲鳴を上げる老人。
倒れた誰かを引きずって逃げようとする男。
そして。
彼らを追っている影があった。
森で遭遇した獣とは違う。
二本足で立ち。
粗末な刃物を手にし。
怒声とも歓声ともつかない声を撒き散らしながら、人を襲っている。
人間だった。
暴徒か。野盗か。
燃える集落の中で、人間が人間を狩っている。
略奪。放火。殺戮。
あまりにも生々しい暴力だった。
「どうして……」
震える声が、無意識に零れる。
極限の逃避行の中で、たった一つの希望だった場所が、理不尽な暴力によって踏みにじられている。
恐怖で呼吸が浅くなる。
足が動かない。
けれど。
その隣で、陵だけが静かだった。
彼の呼吸が、すう、と静かに落ちる。
極彩色の森の中で滲んでいた疲労の色が、ゆっくり消えていく。
代わりに、感情だけが抜け落ちていくみたいだった。
美玲は知っている。
地下遺跡で、何度も見た。
陵が「戦う」時の顔だった。
左手の黒剣。右手の折れた黒刀。
二本の武器が、炎の明滅を鈍く映している。
陵は何も言わない。
ただ燃え盛る集落を見つめたまま、一歩、前へ出た。
躊躇がなかった。
その横顔からは、怒りも焦りも読み取れない。
静かすぎる。
それが、美玲には一番恐ろしかった。
彼が戦ってきた相手は、ずっと「怪物」だった。
地下遺跡の闇に潜む異形。
言葉も通じない、ただ殺すためだけに存在しているみたいな化け物。
けれど。
今、目の前で地獄を作り出しているのは「人間」だった。
言葉を話し、二本足で歩き、恐怖に叫び、怒鳴り、血を流す、自分たちと同じ生き物。
それに刃を向けるということが、どういうことなのか。
美玲が息を呑む。
その瞬間にはもう、陵の身体は動いていた。
炎の中へ踏み込む。
極彩色の森を彷徨っていた時の重さが嘘みたいに、一気に加速した。
燃え盛る集落へ、一直線に駆け抜けていく。
その先、崩れかけた小屋の陰で、一人の老婆が倒れていた。
荷物を奪い取り、なおも刃物を振り上げようとしている大柄な男。
陵は、一切速度を落とさない。
「――あ?」
気配に気づき、男が振り返る。
次の瞬間。
折れた黒刀の峰が、男の顎を正確に打ち抜いていた。
鈍い音。
大柄な身体が横殴りに吹き飛び、地面へ叩きつけられる。
男はそのまま動かなくなった。
陵は倒れた男を見ない。
視線すら向けない。
ただ、そのまま次へ向かった。
周囲にいた野盗たちが、怒声を上げて一斉に襲いかかってくる。
粗末な槍。血に濡れた鉈。
殺意だけを剥き出しにした刃が、四方から陵へ迫った。
けれど。
陵の動きは静かだった。
差し出された槍を、黒剣で僅かに逸らす。
踏み込む。
男の鳩尾へ、折れた黒刀の柄頭が深くめり込んだ。
空気を吐き出す音。
崩れ落ちる身体。
背後から振り下ろされた鉈を受け流し、そのまま足を払う。
転倒した男の手首を踏みつけ、刃物を落とさせる。
そこに怒声はない。
気迫もない。
ただ、淡々と相手を無力化していく。
美玲には分かった。
陵は殺していない。
首も。
心臓も。
致命傷になる場所だけを、正確に避けている。
人間を殺さないための動きだった。
けれど。
美玲の震えは止まらなかった。
強すぎる、と思った。
違う。
異常だった。
疲労困憊のはずなのに。
息だって浅かったのに。
陵はまるで、戦うためだけに動いているみたいだった。
その動きに、感情が見えない。
怒りも。
焦りも。
正義感すらない。
ただ目の前の「障害」を排除していく。
地下遺跡で怪物を狩っていた時と、何も変わらない。
相手が人間だろうと。
化け物だろうと。
今の陵にとって、それは「倒すべきもの」でしかないみたいだった。
それが、恐ろしい。
このままでは。
陵が本当に、人間ではない何かになってしまう気がした。
気づけば。
陵の周囲で立っている野盗はいなくなっていた。
地面へ転がり、呻き声を漏らしている。
炎の照り返しの中、陵だけが静かに立っていた。
両手の黒剣と折れた黒刀には、一滴の血もついていない。
彼は助けた老婆へ声をかけることもしない。
ただ、まだ混乱の続く集落の奥を見つめていた。
まるで次の敵を探しているみたいに。
「陵……!」
美玲は弾かれたように駆け出した。
熱風に煽られ、足をもつれさせながら、それでも必死に彼の元へ走る。
彼を、一人にしてはいけない。
その思いだけが、美玲を動かしていた。
炎の熱が、容赦なく頬を焼く。
息が詰まりそうだった。
美玲が、陵の背中へ手を伸ばそうとした、その時。
「――!」
鋭い声が、炎の爆ぜる音を切り裂いた。
野盗たちの下品な叫びじゃない。腹の底から響くような、よく通る、統率された声だった。
美玲は足を止める。
声のした方。炎の向こう側から、複数の影が現れた。
金属が擦れ合う重い音。揃いの防具。手には、長く鋭い槍が握られている。
城壁を守る門番たちだった。あるいは、街の正規兵か。
彼らは燃える集落を制圧するために、ようやく門から出てきたらしい。
助かった。
そう思うより早く、美玲の全身から血の気が引いた。
現れた兵士たちの足が、ぴたりと止まっていた。
彼らの視線は、倒れ伏す野盗たちでも、逃げ惑う人々でもない。
ただ一人。
炎の中で黒い武器を下げて立つ、陵へ向けられていた。
兵士の一人が、鋭い声を上げる。
何を言っているのか、美玲には全く理解できなかった。
言葉が違う。
けれど、その声に込められた明確な「敵意」だけは、痛いほど伝わってきた。
彼らは陵を、野盗を倒した恩人などとは思っていない。
異常な強さを持った、危険な異邦人。あるいは、この惨劇を引き起こした元凶。
チャキ、と。
冷たい金属音が重なった。
数人の兵士たちが、一斉に槍の穂先を陵へ向けたのだ。
殺気だった。
さっきの野盗たちとは比べ物にならない。
街を守るための、訓練された人間の、純粋な敵意。
陵の背中が、わずかに沈んだ。
無意識の反応だった。
彼の手の中で、黒剣と折れた黒刀が、再び獲物を狩るための角度へ持ち上がる。
息を、吸う音。
陵の視線が、槍を構える兵士たちの首筋へ固定されるのが分かった。
駄目だ。
彼らは、ただ街を守ろうとしているだけの人たちだ。
ここで刃を交えれば、陵は本当に、この世界の人間の敵になってしまう。
「陵っ!」
美玲は叫んだ。
足の痛みも、熱さも忘れて、陵と兵士たちの間へ飛び込む。
陵と真っ直ぐに向き合い、その胸へすがりつくようにして立ち塞がった。
「駄目……っ、戦っちゃ駄目!」
必死だった。
煙のせいか、涙が滲んで視界が歪む。
陵の目が、わずかに見開かれた。
冷たく透き通っていた瞳に、ほんの少しだけ、元の彼の光が戻る。
「……美玲」
低く、掠れた声だった。
持ち上がりかけていた二本の武器が、迷うようにわずかに下がる。
けれど。
兵士たちの槍は、下りなかった。
むしろ、見慣れない衣服の少女が飛び出してきたことで、彼らの警戒はさらに跳ね上がっていた。
威嚇するような怒声が、再び飛ぶ。
じり、と。兵士たちが包囲を狭めてくる気配がした。
美玲は弾かれたように振り返った。
今度は両手を広げ、陵を背中で庇うようにして兵士たちを睨みつける。
目の前には、突き出された無数の槍の穂先。
言葉は通じない。背後には、陵。
目の前には、無数の刃。
美玲は震える唇を噛み締めた。
ーーどうすればいいの?
炎の熱さの中で、絶望の冷たさが再び美玲の心臓を鷲掴みにした。




