第14話:怪物の灰と、外へ続く風
ふらり、と。
陵の身体がわずかに揺れた。
「……陵?」
反射的に、美玲は彼の腕を掴む。
そのまま身体を支えるように抱き寄せると、制服越しに伝わる熱が、思ったよりずっと高かった。
「大丈夫?」
「……ああ」
返事は短い。
けれど、その声は掠れていた。
「少し、立ち眩みがしただけだ」
「だけ、って顔してない」
美玲は眉を寄せる。
陵の呼吸は浅い。
額には汗が滲み、いつもの張り詰めた視線も僅かに焦点が鈍っていた。
今までずっと、崩れなかったものが、ようやく限界を思い出したみたいだった。
「……少し休もう。歩ける?」
返事を待たず、美玲は彼の肩へ腕を回した。
もう片方の手で、地面へ落ちていた黒剣を掴む。
重い。
見た目以上に。
まるで、鉄の塊そのものを持ち上げているみたいだった。
それでも、美玲は無理やり抱え込む。
「ほら」
「……悪い」
陵は抵抗しなかった。
そのことが、逆に美玲を不安にさせる。
戦場の中央から少し離れた場所まで移動すると、美玲は周囲を見回した。
砕けた瓦礫も、黒い血溜まりも少ない場所。
そこへ、彼女は制服のブレザーを脱いで広げて、それからクッションになるように丸める。
「枕」
「いや、別にそこまで——」
「いいから」
言い切って、美玲は半ば強引に彼を座らせた。
そのまま水筒を取り出す。
地下で確保した水。
荷物の隙間へ押し込んでいたものだった。
「飲んで」
「……助かる」
陵は素直に受け取った。
美玲は小さく息を吐いた。
「私が寝てた時も、たぶん寝てないんでしょ」
「……」
「図星だ」
陵は否定しなかった。
美玲が眠っていた間も。
最初の詰所で休んでいた時も。
彼はずっと起きていた。
考えてみれば当然だった。
この場所で。
この環境で。
彼が無防備に眠るはずがない。
「何かあったら起こすから」
美玲は黒剣を彼の横へ置いた。
「少し寝なよ」
陵は何も言わなかった。
けれど、閉じかけた瞼が、もう限界に近いことを物語っていた。
美玲は立ち上がる。
視線を向けた先。
少し離れた瓦礫の間に、折れた黒刀が転がっていた。
彼女はゆっくり近づき、それを拾い上げる。
「……っ」
ぞわり、と。
何かが身体の奥を走った。
指先から。腕へ。背骨へ。
冷たいものとも、熱とも違う感覚が、一気に全身を駆け抜ける。
身体が、軽い。
いや違う。
力が満ちている。
今なら、自分でも。
瓦礫くらい簡単に持ち上げられるんじゃないかと、そんな錯覚すら浮かんだ。
美玲は折れた刀身を見下ろす。
黒い。
まるで光を吸っているみたいに。
昔から、陵は人より強かった。
幼い頃から武術に打ち込み、常軌を逸した鍛錬を続けていたことを、美玲は知っている。
けれど。
――この刃は。
彼を、どこまで変えているんだろう。
気づけば、美玲は折れた黒刀を手放していた。
硬い石床へ刃が落ちる。
――カラン。
乾いた音が、静まり返った祭壇へ虚ろに響いた。
その瞬間だった。
身体を満たしていた奇妙な高揚感が、嘘みたいに消える。
代わりに込み上げてきたのは、ぞっとするほど冷たい悪寒だった。
「……っ」
無意識に、自分の腕を抱く。
寒い。
違う。
身体の奥が、震えている。
陵は、これを使っていた。
いや。
これより遥かに禍々しい、あの黒剣すらも振り回していた。
思い出す。怪物を両断した瞬間の陵の目。
凍りついたみたいに冷たかった。感情の色が、どこにもなかった。
あれは本当に。
自分の知っている陵だったのかと、不意にそんな考えが頭をよぎる。
胸の奥がざわつく。
嫌な想像ばかり浮かんだ。
このまま、陵がどこか遠くへ行ってしまう気がした。
自分の手が届かない場所へ。
人間のままでは、戻れない場所へ。
「……陵」
美玲は再び、床へ落ちた黒刀へ手を伸ばした。
触れた瞬間、ぞわりと嫌な感覚が全身を駆け巡る。
それでも、手は離さなかった。
――怖い。
そう思う反面。
この状況で武器を失う方が、遥かに危険なことくらい、美玲にも分かっていた。
美玲は黒刀を握ったまま、陵の傍へ戻る。
丸めたブレザーへ頭を預け、陵は静かに目を閉じていた。
あれほど恐ろしい力を振るった直後だというのに。
今の彼は、ただ疲れ切った少年にしか見えなかった。
血の気を失った肌。
浅い呼吸。
閉じた瞼。
その姿を見た瞬間、張り詰めていた何かが少しだけ緩む。
美玲は彼の隣へ座り込んだ。
黒刀を静かに彼の傍へ置く。
指を離した瞬間、ぞわりと嫌な感覚が指先を撫でた。
美玲は小さく息を吐く。
それから、そっと彼へ手を伸ばした。
床へ投げ出されていた陵の右手は、驚くほど冷たかった。
両手で包み込む。
掌の奥では、確かな鼓動が静かに脈打っていた。
生きている。
まだ、ここにいる。
美玲は小さく息を吐いた。
もし。
あの力が陵を変えてしまうのだとしても。
人間から遠ざけてしまうのだとしても。
――それでも。
自分だけは、彼を離さない。
この手だけは、絶対に放さない。
どれだけ恐ろしい姿になっても。
「……どこにも、行かせないから」
呟きは、ほとんど独り言だった。
静寂に沈む祭壇の間へ、不意に奇妙な音が響いた。
ざざっ、と。
砂山が崩れるような、ひどく乾いた音だった。
美玲は陵の手を握ったまま、弾かれたように顔を上げる。
音の出処は、祭壇の中央だった。
両断され、動かなくなったはずの巨大な怪物の死骸。
それが今、異様な変化を起こしていた。
肉が腐るのではない。まるで風化した石みたいに、端からぼろぼろと崩れ落ち、黒い灰へ変わっていく。
「……なに、あれ」
崩れた死骸から、濃密な黒い靄が立ち上る。
煙のように揺らめきながら、けれど空へ散ることはなかった。
まるで見えない糸で引かれているみたいに、一直線にこちらへ流れてくる。
正確には。
陵の傍らへ置かれた『黒剣』へ。
美玲は息を呑んだ。
床へ置かれた漆黒の刃が、脈打つみたいに微かに揺れている。
黒い靄は、その刀身へ静かに吸い込まれていた。
まるで、死骸から何かを吸い上げているみたいだった。
先ほど美玲が置いた折れた黒刀は、もう何の反応も見せていない。
ただの鉄の塊みたいに、冷たく沈黙している。
けれど。
陵の傍らに置かれた黒剣だけが、微かに脈動していた。
――生きている。
その瞬間、先ほどとは違う悪寒が美玲の背筋を撫でた。
その時。
掌の中で、陵の指先がぴくりと動く。
「陵?」
呼びかけると、陵はゆっくり瞼を開いた。
まだ焦点の定まらない目が、ぼんやりと自分の傍らを見る。
黒剣は最後の靄を吸い込み終えると、一瞬だけ禍々しい光を放った。
だが次の瞬間には、何事もなかったみたいに静かな闇色へ戻っていく。
陵は、美玲に包み込まれた右手を僅かに動かした。
その体温を確かめるみたいに。
「……何なんだ、これは」
掠れた声だった。
恐怖というより。
自分自身でも理解できないものを前にした、純粋な困惑に近かった。
美玲は答えられない。
答えなんて、分かるはずがなかった。
その直後だった。
祭壇の奥で、重い音が響く。
――ご、と。
腹の底を揺らすような低い震動。
続いて、ぱらぱらと石の崩れ落ちる音が響いた。
美玲は反射的に顔を上げる。
休んでいた陵の身体も、僅かに反応した。
起き上がろうとして、けれど、力が入らないのか。
上半身は途中で崩れ、再び丸めたブレザーへ沈み込む。
「動かないで」
美玲は陵の肩を押さえながら、音のした方へ視線を向けた。
祭壇の最奥。
巨大な壁面へ、深い亀裂が走っている。
その奥で、古びた石扉のようなものが半ば崩れ落ちていた。
怪物の死骸が風化したことで、この空間を維持していた何かが失われたのかもしれない。
崩れた隙間の向こうは、相変わらず底の見えない暗闇だった。
だが、次の瞬間。
その奥から、不意に風が吹き込んでくる。
「……っ」
美玲は目を見開いた。
血の臭いじゃない。
カビとも、腐臭とも違う。
湿った土、青臭い草。
冷たく澄んだ、森の匂いだった。
「……外?」
思わず声が漏れる。
風は確かに流れている。
あの暗闇は、どこか外へ繋がっている。
陵もまた、薄く目を細め、その風の吹いてくる先を見つめていた。




