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ふたりぼっち、異世界に  作者:
第一章:俺は世界を選ばない、私は世界を選ばない

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15/15

第15話:二つの月と、遠い火影

 暗闇の奥へ踏み出そうとした陵の腕を、美玲は強く引いた。


「待って」


 陵が足を止め、わずかに振り返る。


「……どうした?」

「休むの。少しだけでいいから」


 美玲は譲らないという意思を込めて、真っ直ぐ彼を見返した。


 握っていた腕は、今もまだ冷たかった。

 呼吸も浅く、不規則で、今にも倒れそうなのが分かる。


 もし外にも、あの怪物みたいなものがいるなら。

 今の陵では――。


 陵はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……分かった」


 その一言に、美玲はようやく張っていた息を吐き出した。


 陵はブレザーを丸めた簡素な枕へ頭を戻す。目を閉じると、ほどなく静かな寝息が聞こえ始める。

 張り詰めていた糸が切れたように、陵は深い眠りへ沈んでいった。


 美玲はその傍らへ腰を下ろし、水筒や荷物を静かに整理した。

 眠る陵の横顔は、あの巨大な怪物を一刀で斬った存在とは思えないほど、ただの不器用な少年に見えた。


 ――でも。


 美玲の視線が、その傍らに置かれた『黒剣』へ向く。


 漆黒の刀身は、まるで眠る生き物のように、微かな脈動を繰り返している。

 先ほど怪物から吸い上げた黒い靄が、刃の奥でまだ蠢いているように見えた。


 不気味な剣。

 彼を人間ではない何かへ変えてしまうかもしれない、恐ろしい力。


 それでも美玲は目を逸らさなかった。


 たとえ陵が人間離れしていっても。この力に侵されていったとしても。

 自分だけは、彼を繋ぎ止めなければならない。


 美玲は膝を抱え、崩れた石扉の向こうから吹き込む風へ意識を澄ませた。

 地下の死地を抜けた先に待つ、未知の外界。その静けさは、まるで嵐の前触れのようだった。


 彼女は眠る陵の傍らで、静かに覚悟を張り詰めていた。


 それからどれくらいの時間が経っただろうか。それなりの時間が経ったことだけはわかった。

 崩れた石扉の向こうから、吹き込む風の音だけが静かな空間に途切れなく響いている。


 美玲は膝を抱えたまま、何度も隣の陵へ視線を向けた。

 規則的な寝息。浅い呼吸。けれど、さっきまでの苦しそうな乱れ方ではない。


 —―休ませてよかった。


 心の底から、そう思う反面、この場に留まっていることに不安も消えなかった。


 もしまた、あの怪物みたいなものが現れたら。

 今度こそ、本当に――。


 そこまで考えかけた時だった。不意に、陵の指先が小さく動く。


「……陵?」


 閉じていた瞼がゆっくりと開いた。

 一瞬だけ虚ろだった視線が、美玲を見て焦点を結ぶ。


「ああ……」


 掠れた声。

 まだ顔色は悪い。

 陵は起き上がろうとして、わずかによろめいた。


「っ……」


 美玲は咄嗟にその肩を支える。


「まだ無理しないで」

「……平気だ」


 そう答える声にも、疲労は滲んでいた。

 平気なわけがない。あんな化け物と戦った直後なのだ。

 それでも陵は、美玲に支えられながらゆっくり身体を起こすと、傍らに置いていた『黒剣』へ手を伸ばした。


 漆黒の刀身を握る。

 その瞬間だけ、陵の目にわずかな力が戻った気がした。


「行こう」


 短い声だった。さらに折れた黒刀も手に取って立ち上がった。


 美玲はすぐには返事をできなかった。


 もっと休ませるべきじゃないか。せめて、もう少しだけでも。

 けれど同時に、この薄暗い地下空間へ留まり続けることへの恐怖もあった。


 美玲は小さく唇を噛み、やがて静かに頷いた。


「……無理だと思ったら、すぐ言って」

「ああ」


 陵は短く答え、壁に手をつきながら立ち上がる。

 まだ足取りは重い。それでも、自分の足で前へ進こうとしていた。


 美玲も立ち上がり、丸めていたブレザーの埃を払って袖を通した。

 そして自然と、陵のすぐ隣へ寄り添う。


 二人は崩落した石扉の奥――暗闇の通路へ、ゆっくりと足を踏み入れた。


 ごつごつとした岩肌の続く、ひどく狭い通路だった。

 光は一切ない。ただ、奥から吹き込んでくる風だけが、この先に空間が続いていることを教えている。


 美玲は陵の腕を軽く支えながら、慎重に歩みを進めた。


 歩くたび、風に混じる匂いが少しずつ濃くなっていく。

 湿った土。青臭い草。冷たい森の空気。その匂いを吸い込んだ瞬間、不意に記憶が蘇った。


 ――卒業式の日。

 気を失い、最初に目を覚ました時。


 吹き抜ける風と、どこまでも続く森を見た。

 あの時はまだ、自分たちが日本のどこかにいるのだと思っていた。


 けれど現実は違った。

 地下へ落ちて。怪物に追われて。血と死の臭いにまみれて。

 もう、元の日常には戻れないのかもしれないと、何度も思った。


 それなのに。

 風の匂いだけは、あの日とよく似ていた。


 似ているだけかもしれない。

 また期待して、裏切られるだけかもしれない。


 それでも。


(……もしかしたら)


 胸の奥で、小さな希望が消えずに残り続ける。気づけば、美玲の足取りは少しだけ速くなっていた。

 重い足を引きずる陵を、むしろ彼女のほうが引っ張るような形になる。


 陵は何も言わなかった。

 ただ、早まった彼女の歩調へ、黙って合わせてくれている。


 やがて。

 暗闇の先に、微かな白い光が滲み始めた。


「……出口」


 思わず零れた声は、小さく震えていた。

 美玲は無意識のうちに、さらに足を速めていた。


 光の輪郭が、次第に大きくなる。

 最後の一歩を踏み出し、二人はついに暗い通路を抜けた。


 ぶわりと、強い風が全身を打ち据える。

 美玲は思わず目を細め、それからゆっくりと瞼を開いた。


 出た先は、切り立った崖の中腹のような場所だった。

 眼下には、どこまでも果てしなく続く森の海が広がっている。


 ――やっぱり。


 あの日と、同じ。

 そう安堵しかけた美玲の思考は、次の瞬間に凍りついた。


 違った。

 何もかもが、決定的に狂っていた。


 見上げた夜空には、巨大な月が浮かんでいた。

 一つではない。

 赤と青。毒を孕んだような二つの月が、空の半分を食い破るほどの大きさで重なり合っていた。

 血のように濁った赤と、凍りつくように冷たい青。互いの光が混ざり合う境界線は、不気味な紫色のグラデーションを描きながら夜空を歪めている。


 まるで、巨大な何者かの眼球に見下ろされているような錯覚に陥った。


 眼下に広がる森もまた、美玲の知る「自然」とは決定的に異なっていた。

 月光を吸った葉の一枚一枚が、淡い紫や燐光のような青に発光している。

 夜風が吹き抜けるたび、極彩色の毒を散らしたような波がうねり、まるで森全体がひとつの巨大な生き物のように蠢いていた。


 地球じゃない。

 日本のどこかの山に繋がっているなんて、ただの都合のいい幻想だった。


「……嘘」


 突きつけられた残酷な現実に、美玲の膝から一気に力が抜けた。


 もう、二度と元の日常には帰れない。

 暗闇の中で積み上げてきた希望が、音を立てて粉々に砕け散っていく。


 息が詰まり、へたり込みそうになったその時。


 ぐっ、と。

 美玲の肩を、力強い手が支えた。


 陵だった。


 彼は狂ったような異世界の景色を前にしても、取り乱してはいなかった。

 いつもの張り詰めた表情のまま、ただ静かに、森のずっと奥を見据えていた。


「陵……私たち、もう……」

「見ろ」


 掠れた声で、陵が遠くを指差す。


 美玲は弾かれたように顔を上げた。

 彼が指し示したのは、発光する狂った森のずっと先。遠い暗闇の奥だった。


 そこには、小さな点が揺れていた。


 オレンジ色の、光。

 自然の発火でも、魔法の怪光でもない。

 規則的に並び、確かに揺れている人工的な灯りだった。


 こんな世界にも、知性を持った何者かがいる。

 それが人間なのか、あの怪物以上に恐ろしい存在なのかは分からない。


 けれど、あそこには確実に『何か』がある。


「行くぞ」


 陵は短く告げた。

 限界まで疲弊し、恐ろしい力を持つ黒剣を提げた彼は、それでも迷うことなく前を向いていた。


 美玲は小さく息を呑む。


 怖い。

 この狂った世界も、これから待っているかもしれない未知の脅威も。


 ――でも。


 美玲は絶望的な空から目を逸らし、両手に力を込めた。


 世界がどうであろうと関係ない。

 彼が生きている。一緒にいてくれる。

 今はそれだけが、美玲にとって唯一の真実だった。


「……うん」


 二人は、毒々しくも美しい異世界の風を受けながら、遠くで揺れる灯りを目指して新たな一歩を踏み出した。

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