第11話:闇の底へ、共鳴する刃
それは、小さな音だった。
その乾いた響きは、狭い通路の空気を一瞬で張り詰めさせた。
陵が足を止める。
次の瞬間には、折れた黒刀を握り直し、音のした暗闇へ静かに視線を向けていた。
刃の亀裂が、赤黒く脈打つ。
その鈍い光が、湿った石壁をかすかに照らした。
美玲は息を殺す。
大学ノートの最後のページ。
震えた文字で残されていた警告が、頭から離れない。
『地下深層には行くな』
通路の奥は、まるで光そのものを飲み込んでいるみたいに暗かった。
「……陵」
呼びかける声は、自分でも驚くほど小さい。
止めるべきなのだと思った。
この先には、きっと何かいる。
あの文字を書き残した誰かが、最後まで怯えていた“何か”が。
けれど。
陵は暗闇から目を逸らさなかった。
「行くぞ」
低い声。
「……本当に行くの?」
「ああ」
短く答え、陵は黒刀を握る手にわずかに力を込める。
「ここにいても、また襲われる」
それだけ言って、陵は歩き出した。
美玲には分かる。
陵は、助けたいわけじゃない。
倒したいわけでもない。
生き残るために、一番ましな道を選んでいるだけだ。
陵の足取りに迷いはなかった。
美玲は一瞬だけ立ち尽くし、そして小さく息を呑む。
(……ひとりで、死にたくない)
その感情だけが、胸の奥に冷たく残っていた。
「……うん」
返事をしてから、自分が何を選んだのかを少し遅れて理解した。
二人は細い通路を進んでいく。
地下の空気は、奥へ進むほど重くなっていた。
肺の内側へ、ゆっくり何かが溜まっていくみたいな息苦しさ。
喉の奥には、鉄錆のような臭いが残り続けている。
陵の手の中で、黒刀が再び脈打つ。
地下の奥へ近づくほど、その明滅は少しずつ強くなっていた。
赤黒い光が、陵の横顔を照らした。
いつもの彼だった。
なのに、どこか違う。
上手く言葉にできない。
ただ。
暗闇の中に立つその姿が、ひどく自然に見えた。
胸の奥が、わずかに痛む。
やがて通路は途切れ、その先に巨大な下り階段が現れた。
ぽっかりと口を開けた闇が、地下深層へと続いている。
底は見えなかった。どこまでも続くような、暗く長い階段だった。
一段下りるごとに、周囲の闇が少しずつ濃くなっていく。足音だけが、不気味なほど規則的に石壁へ反響していた。
光石の青白い明かりを頼りに、ふたりは黙ったまま下り続ける。
前を歩く陵は、一度だって立ち止まらない。
一定の歩幅、一定の速度。まるで、迷いそのものを切り捨てるみたいに、淡々と下へ進んでいく。
やがて、階段が途切れた。
その先に、広い空間があった。
暗闇の奥から流れてくる冷たい空気で、美玲にもそれが分かった。
陵が足を止める。
美玲も慌ててその背中の後ろへ身を寄せ、息を殺した。
――ずるり。
何かを引きずるような音が、闇の奥で響く。
ひとつじゃない。
ずる、……ずる。
湿った水音が、四方からゆっくり近づいてくる。
美玲の喉が、小さく鳴った。
青白い光の端。
そこへ、ぬるりと影が浮かび上がる。
水棲の異形だった。
上層で遭遇した個体よりも、一回り大きい。
どす黒く変色した皮膚が、水を滴らせている。
その白濁した目には、理性らしいものが何もなかった。
「陵……」
「そこにいろ」
短く言って、陵が踏み込む。
速かった。
けれど、それ以上に。
その動きには、迷いがなかった。
赤黒い光が暗闇を掠めた瞬間、先頭の異形の首が傾ぐ。遅れて、黒い血が石床へ広がった。
別の異形が飛びかかる。
陵は半歩だけ身体をずらし、そのまま喉元へ刃を滑らせる。
止まらない。
回避する。
斬る。
次へ移る。
その一連の動きが、あまりにも自然だった。
まるで最初から、この暗闇で戦うことを知っていたみたいに。
刃の亀裂から漏れる赤黒い光が、返り血に濡れた陵の横顔を照らす。
その表情は、ほとんど変わらない。息も乱れていない。
ただ静かに、次の異形を見ている。美玲は、知らないうちに両手で口元を押さえていた。
異形の腕が陵へ伸びる。
陵はそれを紙一重で避け、すれ違いざまに黒刀を振るう。
肉が裂ける音。
重たいものが倒れる音。
それだけが、広い地下空間へ鈍く響いていた。
陵が異形を斬るたび、自分が生き延びる可能性が増えていく。
その事実だけは、今の彼女でもはっきりと理解できた。
(……生きたい)
気づけば、美玲は強く制服の袖を握り締めていた。
血の匂いが広がる暗闇の中で、美玲は目を逸らせなかった。
この空間にいた最後の異形が、陵の手によって斬られた。
転がった異形の肉片を眺めてから、右手に黒刀を下げたまま、暗闇の奥に視線を向けた。
美玲は浅く息を吸う。
血の匂いが濃かった。
湿った空気に混ざって、鉄錆みたいな臭いが肺へ張り付いてくる。
陵が振り返った。
「……怪我は?」
短い確認だった。
「ない……大丈夫」
答えながら、美玲は自分でも妙な感覚を覚える。
返り血を浴びた陵の姿を見て、喉の奥が詰まった。
にも関わらず、張り詰めていた呼吸が少しだけ楽になった。
陵がいる。
それだけで、自分はまだ死んでいない。
その事実に安心してしまっている自分が、胸の奥に重く残った。
陵は再び前を向く。ためらいのない動きだった。
美玲はその背中を見つめる。
自分の知らない場所へ、少しずつ遠ざかっていくのがわかった。気のせいではなかった。
――それでも。
「行こう、陵」
気づけば、自分からそう言っていた。
陵は一瞬だけ美玲を見る。
何も言わないまま、小さく頷いた。
二人は再び歩き出す。
美玲は無意識に、陵の袖を指先で掴いていた。
血で濡れた制服は冷たい。
それでも、指を離そうとは思えなかった。
通路は、まだ奥へ続いていた。
足元には、黒い血が細く残っている。
異形のものか。
それとも、もっと前にここを通った誰かのものか。
美玲には分からなかった。
陵は無言のまま歩いている。
黒刀の赤黒い光だけが、暗い通路をかすかに照らしていた。
地下へ降りるたびに、その光は少しずつ強くなっていた。
それでも、陵の歩く速度は変わらない。
美玲は無意識に、その背中を目で追う。
返り血の跡。
黒刀を握る右手。
静かな足取り。
陵が少し前へ進むたび、掴んだ袖が指先から抜けそうになる。
そのたびに、美玲は指に力を込めた。
陵は振り返らない。
けれど、歩幅だけがわずかに緩んだ。
美玲はそれに気づき、唇を引き結ぶ。
何も言われていない。置いていかれたわけでもない。
それだけで、胸の奥にあった冷たいものが少しだけ沈んだ。
通路の先で、不意に空気が変わる。冷たい風が、闇の奥から流れてきた。
大きな空間がある。
見えなくても分かった。
陵が足を止める。
美玲も、その隣で立ち止まった。
青白い光石の明かりが、前方をかすかに照らす。
闇の奥。
巨大な石扉が、静かにそこにあった。
人の手で作られたものだと分かる。
けれど、それは扉というより、何かを閉じ込めるための壁に見えた。
陵の手の中で、黒刀が低く脈打つ。
赤黒い光が、扉の表面をかすかになぞった。
美玲は、掴んでいた袖を離せなかった。
陵は何も言わない。
ただ、扉を見上げていた。
美玲も同じように顔を上げる。
その向こうに何があるのかは分からない。
けれど、ここまで来てしまったことだけは分かった。
石扉の前で、二人の影が青白い光に細く伸びている。
美玲の指は、まだ陵の袖を掴んだままだった。




