第10話:遺された痕跡、先行者の末路
口の中には、まだ保存パンの粉っぽさが残っていた。
水で流し込んだはずなのに、喉の奥にはざらついた感触が張り付いている。
それでも、空っぽだった身体にはわずかばかりの熱が戻り、物理的な限界からは少しだけ引き戻された気がした。
美玲は備蓄庫の冷たい石壁に背を預け、小さく息を吐く。
ふと視線を上げると、数歩先で陵が片膝を立てて座っていた。
彼は休もうとしない。
水と食料を最低限だけ腹に入れた後も、その視線はすでに備蓄庫のさらに奥――暗い通路の先へ向けられていた。
右手には、折れた黒刀。
赤黒い亀裂は沈黙したまま、鈍い存在感だけを漂わせている。
その傍らで、返り血に濡れた陵の横顔が、青白い光石の淡い光に照らされていた。
(……違う)
美玲は、自分の制服の袖をぎゅっと握りしめた。
さっき、暗闇の中で水棲の異形たちを屠っていった彼の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
湿った床を滑るように踏み込み、迷いなく怪物の命を断っていく。あの静かな動きが、まだ目の奥に残っていた。
道場で木刀を振るっていた頃の彼よりも、暗闇で血に塗れながら怪物を屠る今の彼の方が、ずっと自然に見えてしまった。
美玲の喉が、小さく震える。
ふと、記憶がよぎった。
つい数時間前まで、彼らは卒業式を終え、一緒に帰り道を歩いていたはずだった。
駅前のコンビニで他愛もない会話を交わし、少し肌寒い春の風の中で、同じ「普通」の世界を生きていた。
その時の陵は、間違いなく美玲の知っている高校生の彼だった。
けれど今は違う。
返り血を浴びたまま闇を見つめるその姿は、この狂った異世界の空気へ、ひどく馴染んで見えた。
頼もしかった。
彼がいなければ、美玲はとうに死んでいただろう。
でも、彼が怪物じみた強さを見せれば見せるほど、陵だけが自分より先へ進んでしまうような気がした。
「……陵」
思わず、美玲の口から微かな声が零れる。
陵が静かに顔を向けた。
黒い瞳が、美玲を真っ直ぐ見返す。
「どうした」
声は低く、平坦だった。
「……ううん、なんでもない」
美玲は曖昧に首を振る。
言えなかった。
あなたが遠くに感じて怖いだなんて、命懸けで自分を守ってくれている彼に、言えるはずがなかった。
陵はそれ以上追及せず、再び視線を奥の闇へ戻した。
その横顔を見つめながら、美玲は胸の奥に刺さった小さな棘みたいな違和感に、じっと耐えるしかなかった。
やがて、陵は音もなく立ち上がる。
「行くぞ」
短い声が、冷たい石壁に反響した。
美玲は痛む足に鞭打って立ち上がり、彼の背中を追う。
備蓄庫のさらに奥。
そこはもう物資が置かれている場所ではなく、崩れた木箱や瓦礫、壊れた樽などが乱雑に積み上がっていた。
だが、それらは完全に通路を塞いでいるわけではない。
奥へ続く暗い通路を隠すように、無理やり積み上げられているように見えた。
陵はその一角に目を留め、ぴたりと足を止めた。
山積みになっている木箱の一つを慎重に退ける。崩れ落ちた木材が、乾いた音を立てた。
その隙間を見た瞬間、陵の目が微かに細められる。
「……崩れたんじゃない」
陵が低く呟いた。
「え?」
「意図的に積まれてる。内側からだ」
美玲は息を呑む。
陵が言う通り、それは偶然崩れ落ちた瓦礫の山ではなかった。
外を徘徊する何か――おそらくは、あの水棲の異形たち――から逃れるため、内側から必死に積み上げられた急造のバリケード。
陵は空いた左手で木箱の縁を掴んだ。
メキメキッ、と木材が軋む。分厚い木箱が、陵の片手だけで無理やり引き剥がされる。
崩れた木箱の隙間から、酷い悪臭が溢れ出した。
カビと埃。
そして――古びた死の臭い。
「っ……」
美玲は思わず顔を顰める。
木箱の奥には、人が身を潜めるためだけに作ったような狭い空間があった。
さらにその向こうには、細い通路が暗闇の奥へ続いている。
青白い光石の淡い光が、その内部をぼんやり照らし出していた。
そして。
その傍の壁へもたれかかるようにして、『それ』は座っていた。
「あっ……」
美玲は思わず口元を覆った。
詰所で見つけたような、鎧姿の白骨死体ではない。
身に纏っているのは、異世界の分厚い布服ではなく、色褪せてボロボロになった現代日本の衣服だった。
灰色のパーカー。
ラインの入ったジャージのズボン。
足元には、片方だけの白いスニーカーが転がっている。
完全に白骨化した遺体は、頭をうなだれるようにして事切れていた。
骨だけになった右手の指先から転がり落ちたように、黒いプラスチック製のボールペンが乾いた石床に転がっている。
美玲の脳裏に、詰所で見た手記の裏表紙がフラッシュバックした。
赤黒く変色した血の跡。
形だけを必死に書き写したような、歪な日本語みたいな線。
あれを書き残した誰かも、きっと。
目の前の骸と同じように、この地下で追い詰められていたのかもしれない。
「怪物に殺されたわけじゃない。ここに逃げ込んで、内側から塞いだ。だが、水も食料も尽きたんだ」
陵の声は淡々としていた。
その静けさのせいか、漂う死臭が余計に強く感じられる。
冷たい床へ転がる骸から、美玲はどうしても目を離せなかった。
目の前の骸は、自分たちと何も変わらない人間だった。
(もし、陵がいなかったら……)
自分もあの暗闇の中で、得体の知れない足音に怯えながら。
誰の助けも来ないこの冷たい石の床で、飢えと乾きに苦しみながら、ひとりぼっちで死んでいく。
想像しただけで、芯から身体が凍りつくような恐怖が、美玲の胸を深くえぐった。
その時だった。
陵の視線が、ふいに白骨死体の傍らで止まる。
「……?」
美玲も遅れてそちらを見る。
骸の脇。
崩れたリュックの下から、何かが半分だけ覗いていた。
陵は無言のまま屈み込む。
骨を乱さないよう慎重に手を伸ばし、それを引き抜いた。
薄汚れた大学ノートだった。
表紙は水気と汚れで酷く傷んでいる。
だが。
掠れたマジックの文字だけは、まだ辛うじて読めた。
『地下第三層・探索記録』
「……日本語」
美玲の喉が小さく震える。
詰所で見た、意味の分からない文字列とは違う。
これは、自分たちと同じ世界の人間が残した記録だった。
陵は黙ったままノートを開く。
紙は湿気で波打ち、端は黒ずんで変色している。
最初のページには、比較的整った文字が並んでいた。
『地下に水源あり』
『青白い石が明かりになる』
『水音の近くに化け物が集まる』
美玲は無意識に息を呑む。
書かれている内容は、自分たちがここまで見てきたものと一致していた。
ページを捲る。
だが後半へ進むにつれ、文字は徐々に乱れ始めていた。
『食料が少ない』
『眠ると足音が近づいてくる』
『もう何日経ったかわからない』
インクは掠れ、紙には何度も強く引っ掻いたみたいな傷跡が残っていた。
そして。
最後のページで、美玲の呼吸が止まる。
そこには、紙を抉るような強い筆圧で、たった一文だけが殴り書きされていた。
『地下深層には行くな』
その下には、震えた文字が続いている。
『あれは、人間じゃない』
ぞわり、と。
美玲の背筋を冷たいものが走った。
地下の空気が、一瞬で冷え込んだ気がした。
陵は何も言わない。
ただ静かに、その文字を見つめている。
ページの端には、爪で抉ったみたいな傷跡が無数に残っていた。
まるで、極限の恐怖の中で握り潰され続けたみたいに。
美玲は無意識に、自分の腕を抱き締める。
この人も、自分たちと同じだったのだ。
突然、わけも分からないまま異世界へ放り込まれ。
逃げて。
怯えて。
そして最後には、この暗い穴倉の中で、たった一人で死んだ。
美玲の喉が、ひゅっと引き攣る。
(……嫌だ)
そんな死に方だけは。
その時。
――コン。
バリケードのさらに奥。
細い通路の先の暗闇から、何かを叩くような乾いた音が響いた。




