第十八話: 池矢 創 ②
◆まえがき◆
2024年11月5日。トランプ氏が米国大統領に返り咲きました。
氏は移民を大幅に国外に追い出し、まさに腐りきった米国の〝膿だし改革〟を急始動させています。
私の方はといえば、再び体調を崩して執筆を止めておりましたが、お歳をめしたトランプ氏の超人的な頑張りを目の当たりにし、
「甘っちょろくサボってるこのドアホが!」
と叱責されたような気分になりました。
無理くり再びPCに向ったところ、今まで働かなかった頭が回りだしましたので、この週末休みは集中して執筆を行おうと思っています。
どこまで進められるかわかりませんが、今週末は連投したく思いますので宜しくお願いいたします!
※重要※
再開に伴い、一つ前のお話(第17話)に大幅に手を入れました。
池矢の父が「なぜヤクザな道に入って行ったか?」の説明がなされる大事な部分を加筆しましたので、この話を読まれる前に、是非一度そちらを読み返してください!
********
包みから出てきたのは見覚えのある〝一冊の古びた分厚い大学ノート〟と、新聞紙でくるまれた20センチ四方の「何か」だった。
「これ、群馬に置いてきたノート??……こっちは……カンヴァスか?……まてまて、なんでゆきネェがこんな物を持ってんだ???」
なんと、その二つの品物のうちの一つは、自分がその昔、田舎の家に置きっぱなしにしてきた日記帳であった。
昔と言っても本当に昔、自分が大学受験の頃に置いてきた物である。それが40を過ぎた今になって突然目の前に現れたのだ。
俺は、ノートと新聞包みを手に取り上げた姿勢のまま、状況を整理しようと頭を小突いたりしてみるが、まともに血が巡っていない寝ぼけた頭は頑として働きもしない。
不意に、荷物に張り付いていた一枚の便せんがするりと畳の上に滑り落ちた。
「?…………手紙?」
足元に落ちた何かが書き綴られたその紙片を拾い上げると、それは義理姉からの短い言伝だった。
===
前略
創さま
先月、せつこ婆ちゃんが亡くなりました。
婆ちゃんの家に置いてあったお前の荷物はこちらで処分しましたが、「ソウにかえすもの」と書かれた紙袋に入っていた2つは、大事な物かもしれないので、そちらに送る事にしました。
時間があったら墓参りに行ってあげてください。
お骨はせつこ婆ちゃんが守っていた中根の墓の方に一緒に入れさせてもらいました。
===
「亡くなったんだ…セッちゃん………ゆきネェが色々対応したのか…」
せつこ婆ちゃんとは、群馬の山奥で一人暮らしをしている親戚の婆様の事だ。
婆様はお袋が子供の頃にお袋の面倒を見てくれていた人なのだが、お袋とは血のつながりは全くなく、ただ当時、同じ家に一緒に住んでいたという同居人であった。戦中戦後の混乱期、庶民の住居事情は色々と複雑で、群馬の田舎にポツンとあるその平屋では、二家族が一緒に暮らしていた時期もあったらしく、色々な経緯を経て最後に一人残っせつこ婆様が、家と畑をひっそりと守っている、という状況であった。
つまり正しく言えば、婆様は我々とは血のつながりのない赤の他人である訳だが、小学生の頃からお袋に連れられその家を幾度となく訪れていた俺にとって「セッちゃん」は非常に親しみ深い「親戚」なのであった。
「不義理をしてしまったな…」
セッちゃんは、俺が大学入試に失敗した浪人時代、結構な長期間何一つ文句も言わずに俺を下仁田の家に置いてくれた恩人でもあった。セッちゃんの皺くちゃの笑顔が何十年ぶりかで脳裏にハッキリと蘇り、懐かしさと口惜しさが入り混じった複雑な気持ちが込みあがってくる。やらなければならない事を後回しにして後で後悔するのはよくあることだが、恩義を返す前にその相手が亡くなってしまうというのは、まさにやるせなさの極みだ。
自己嫌悪感を振り払うように、俺は新聞紙でくるまれた荷物を両手で鷲掴みにすると、その包装をがむしゃらにむしり取った。
「………この絵」
真っ黒な背景の中に薄ぼんやりと描かれた巨大な樹。その表面をよく見ると幹の部分には無数の人間がぎっしりと詰まっている…それは、俺が二十歳の時にとある展覧会に出品した『100号の油画』の構想中に描かれた数点の習作のうちの一つ、3号サイズの小さな油画だった。
※※※※※※※※
「人がいっぱいでなんだか怖いよ…」
新聞大のクロッキー帳に描かれた無数の人間の鉛筆画を見て、セッちゃんは眉をひそめる。その表情があまりに苦々しくて俺は思わず吹き出しながら言葉を返した。
「東京に帰ったら出したい展覧会があるんだよ。これはそれの習作」
「しゅうさく?」
絵の事などよく知らない、まして田舎暮らしの老人に対して専門用語を使った所で意味が通じるはずも無く、俺は慌てて言葉を選びなおす。
「そう。本番の絵を描く前に描く練習の絵だね。ここに描いてるのは部分部分のイメージ画。……で、そっちの壁で乾かしてるちっこいヤツが全体の完成イメージ」
そう言って横の壁の方に立て掛けた絵を指差すが、セッちゃんは一瞬チラッとそちらに目をやるも、すぐさま俺が描いている群像のクロッキーの方に視線を戻した。
「ふぇ~。東京で展覧会に出すんかい。これを」
「池袋のデパートに入ってる大きい美術館で毎年『安井賞展』ってのをやっててさ、何でもそこに出展できれば〝日本の第一線の具象作家〟って胸を張って言える様になるらしいんだよ」
「…第一線のぐしょ○×▽□……???」
「えーと、つまり〝高いお金を払ってでもこの人に絵を描いてもらおう〟って、思ってもらえる絵描きさんって事」
「お金が取れる絵描きさんって事かい!…そりゃすげぇなぁ~」
細かい点はともかくとして、きちんと〝商売ができる〟というイメージは伝わった様で、セッちゃんの表情が突然満面の笑みに変わる。
「受験の練習で絵を描いてるだけだと時間とお金がもったいないからさ……で、東京に戻ったら、思い切って大きな油絵を描こうかなーってね。……そこにある小さい絵、あれを畳2枚分くらいの大きさで描くつもりなんだよ」
「畳2枚の大きさ!?……ふぇーーっ!そりゃうんとよいじゃねーなっ。」
「よいじゃね?」
「た・い・へ・ん!……大変ってことさぁ」
「あー、群馬弁ね」
「そーですぅ。群馬弁ですぅ」
二人して自分の言葉を相手に説明しあっている状況に笑いが込み上がる。
「じゃぁ、その小せぇ絵は東京戻る時ちゃんと持って帰んねぇといけねぇなぁ~…」
※※※※※※※※
俺が群馬のセッちゃんの所に世話になろうと思ったのは、それほど金をかけずとも家に置いてもらえるだろうという算段があったのはもとより、セッちゃんの住む家が群馬の奥地「下仁田」のそのまた山奥の方にあり、近場に店といった類のものが一切存在しないどころか「家に電話すら無い」という、まさに〝僻地〟のような場所だったことが一番の理由だった。
そういう場所に籠れば世間からも隔絶される。つまり、強制的に〝絵と向き合う以外することなし〟という状況に自分を追い込めると考えたのだ。
芸大の実技試験では一次試験の『素描』は通ったが、肝心の二次の『油画』で落ちた。今にして思えば無謀極まりない話だが、そもそも芸大初受験に挑んだ時の俺の武器は、高校の美術の授業で買わされた
・12色の絵の具
・リンシードオイル
・安物の豚毛の筆2本
・ペインティングナイフ1本
が入った〝お道具箱サイズの油絵道具セット〟ただ一つだった。
それは、二次試験に挑む周囲の連中が準備してきた「見たこともない重装備な画材」と比べれば明らかに場違いな、下手をすると試験を愚弄しているかのようにも見えるお粗末な代物であった。安易な想像と現実とのギャップを目の当たりした俺は、自分の浅はかさを呪うと同時に
――まともな正攻法ではこの連中には勝てない――
という事を痛烈に実感したのだった。
そしてこうも思った。
『もし、もう一度この連中と戦うのなら普通な事をやってるだけでは到底駄目だ。自分を徹底的に追い込んで〝普通じゃない何かを掴む〟しかない…』と。そして、そこから一ヶ月かけて自分なりに引っ張り出した方法が〝山奥に籠ってひたすら絵を描く〟という手段だったのである。
思い立った後は早かった。俺は自分の構想を実現する為に、恐る恐る群馬のセッちゃんに手紙を書いた。その手紙で「しばらくの間〝居候〟できるか?」を相談したのである。
間もなくして返ってきた彼女からの返事は、
「こんな田舎で良いならいつでもおいでなさい」
という快諾だった…
そんなこんなで、俺はやっていた複数のバイトを全て辞め、すぐさま荷物をまとめて群馬に転がりこんだ。
そして、3ヶ月半という長期間に及ぶセッちゃんとの共同生活が幕を開けたのだった。
(つづく)
◆あとがき◆
子供の頃に〝トランプ氏が20代の時に着想し完成させた〟というボードゲームを入手した事が私が彼を知るきっかけでした。
当時は「トランプがつくったゲーム面白いよ!」と言った所で、誰からも文句を言われる事などありませんでしたが、彼が有名になればなるほど悪評が膨らみ、前回、大統領になった時なぞは「キ○ガイ」扱いされたりしていて何ともやるせない気分になったものです。
(「キ○ガイ」にゲームがつくれるか!ってね。(笑))
トランプ氏のやり方が良いか悪いかはさておき、
今の日本にもあのくらい本気で自国第一で物事を進めてくれる政治家がいたらなぁと羨ましく思ってしまうのは私だけでしょうか…
おっと、政治的な発言は禁句でしたね。
失礼いたしました。
(フライングだと思っておみすごし下さいませ。。。)




