第十七話: 池矢 創 ―いけや そう― ①
◆まえがき◆
大変長らくお待たせしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。。
(なんと!5ヶ月ぶりの投稿…(^_^;)))
実は4月~5月の間に「現住まいの建壊し~移転対応」「事務所の立ち退きの相談」「移転作業での左足の悪化」という3大悲劇に見舞われ、これらの対応にひたすら奮闘する日々を過ごしておりました。。。
(悪夢のような年末の事故から生還し、「さぁこれから!」というタイミングでまたしても厄災続きとは……全くもってトホホです)
今回、「体」の方は7月辺りには回復していたのですが「精神」のすり減りが酷く、こちらのケアにちょっと時間がかかってしまいました。
また気分一新して頑張りますので、皆様よろしくお願いいたします!
という訳で、久々の執筆は「第17話」から。
いざ、再出陣じゃ~っ!
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五・ 池矢 創 ― いけやそう ―
――ドン、ドン!――
「イケヤさーーん!」
――ドン、ドン!――
「イケヤさん居ますかぁーーー?」
誰かが玄関のドアをけたたましく叩く音で俺は目を覚ました。
まだ完全に開ききらない目をこすりこすり枕元の置時計に目をやる。カーテンの隙間から差し込んだ日の光がプラスチックの盤面でちょうど良く跳ね返り、針の指す位置が微妙にぼやける。
「10……いや、9時か……誰だよこんな時間に……」
頭をかきむしって頭皮に刺激をやる。元来、わりと酷い低血圧なものだから、朝はめっきり弱いのだ。しかも、窓の外からは強い雨の音。まったく気分が悪い。
――ガン、ガン!――
「イケヤさーーん、小包みでーーす!……いませんかーーー?」
古びた木造のアパートの薄っぺらな扉が、慣れない衝撃に悲鳴を上げている。
「いるって!中に!……居るからそう叩きなさんな!」
俺はゆっくりと布団から身を起こし、ふらふらと玄関先に向かう。紺のレインコートを羽織った濡れネズミ状態の郵便屋が、無言で不愛想に手持ち鞄くらいの小包みと、小さな紙片をこちらに押し付けてくる。
「その右下のところにサインお願いします。」
俺は、ミミズの這ったような適当なサインを紙片に書き入れ、無言でそれを鼠に突っ返す。鼠は、受領書のサインをちらっと確認し、慣れた手つきでそれを肩掛けカバンにしまい込むと、突然、とって付けた様な不気味な作り笑いを浮かべ「どうも」と一声発しながらぺこっと頭を下げた。私の方も「ご苦労さま」と、気のないお決まりの返答をし「バタン」と強めに玄関を閉じる。
このアパートに越して来て優に10年以上は経つが、自分に小包が届くなんて事は初めての事だった。俺はその20センチ四方の小さな包みをまじまじと観察する。
よく見ると紙ヒモで十字に包まれた丁度ヒモのクロスした部分の真下に、雨で滲んで読みづらくなってしまった宛名が見てとれる。
「誰からだ?」
俺は包みをくるっと裏返して差出人の名前を確認した。
「〝米倉有紀〟…ゆきネェからの荷物?」
届いたのは、子供の頃に一緒に暮らしていた義理の姉からの小包だった。義理の姉といっても、有紀と自分の血の繋がりは皆無だ。彼女は俺がまだ産まれてなかった時期に、両親がとある事情で引き取ったいわゆる〝貰いっ子〟であったからだ。
有紀と俺は歳が10も離れていて、彼女は俺が5~6年生の頃に子供をつくって家を出て行ってしまっていたから、その頃から疎遠な関係となっていた。手に持った荷物を意味なく2~3回ゆすってみるが、これといっておかしな反応はない。
――気持ち悪いな…――
俺はよれよれの包みに書かれた歪な文字をもう一度じっと眺めながら、有紀から最後に連絡が来た時の出来事を思い返していた。
有紀が実家に顏を出さなくなり、互いの縁が切れたのは20年以上昔の事であるが、俺がここ高円寺に越してきたその年、どういう風の吹き回しか突然有紀が電話をかけてきた事があった。
そもそも引っ越しをした事自体、身内には一切教えていなかったので、突然の連絡に言いようのない気味悪さを感じたが『群馬の婆さまに番号を教わった』と知らされて合点がいった。
電話先の有紀の台詞は「あんた元気?」というありきたりのフレーズで始まった。
「今、何やってるかと思って、心配になってさ。久しぶりにかけてみたんだよ。」
――心配だって?……何を今更…――
お袋が交通事故で両足骨折して大変だった時や、親父が死んだ時も連絡してこなかったばかりか、俺が仕事でミスをやらかしてとんでもない借金を背負ってしまった時ですら知らぬ顔をしていた義理姉である。その姉が、何事もなかったかのように懐かしみのこもった優しい声色で話しかけてくるものだから、正直〝悪意を孕んだうさん臭さ〟を感じたりもしたが、とりあえずは相手の話を聞く事にする。
「実はさぁ、ウチの光助が若いデザイナーを集めてデザイン会社を始めたんだよね~……ほら、あんたも仕事デザイン関係でしょ。一回、光助にあって話を聞いてやってもらえないかしら?」
――なんだよ。そういう事か…――
実はかく言う自分も有紀を習うかの様に高校卒業後に家を飛び出してしまった口であったから、有紀に対しては心のどこかで〝家を捨て去る罪悪感〟を共有する仲間意識のような感覚があった。そんな訳で、全く音沙汰も無かったその相手からのあざとい申し出を邪険に扱うどころか、当時の自分の事をあれこれ思い出しながら俺はあっさりとこの話に乗っかっていた。
「こー君、自分で会社を起こしたんだ。…そりゃ、凄いね」
こー君(光助)というのは有紀が家を出た時に彼氏との間にできた子の名前だ。
俺が中学生だった時分、まだ有紀は近場に住んでいて、こー君を連れてよく実家に遊びに来たりしていたものだから、俺も子守りがてらよくこー君の面倒を見てやっていたのだ。そして――
話はとんとん拍子で進み、20代後半に差し掛かかり立派な巨漢となった「大人のこー君」と二人きりで〝サシ話〟をする食事会が設けられたのだった。
「いやしかし……
せっかく芸大を出られたのに、ちょっと勿体ない気もしますね…」
一見、楽しい時間とも思えた食事会ではあったが、会社を辞めて〝彫師〟になった経緯を聞いた光助が発した言葉は、いかにも〝期待はずれ〟といった響きを帯びたものであった。実は、家が無茶苦茶であった事で逆に選択肢が限定され「それを成功させるしか生きるすべがない」というところまで追いつめられていた俺は、バイトでコツコツ貯めた金をやりくしつつ何とか二浪で東京芸術大学に入学、卒業後はそれなりに知名度の高いデザイナーが経営する某デザイン事務所に就職することに成功していた。
そこまでのストーリーを知っていた有紀や光助らであるから、俺の業界での働きっぷりに対して勝手な妄想を抱いたのは、至極普通の話。つまり、その展開は俺の分不相応な期待が招いた当然の結果だったとも言えた。
残念ながらその後、光助から連絡が入る事は二度となく、いわんや有紀からも何事も無かったかのようにピタッと反応が無くなった。二人の分かり易い露骨な意思表示に〝一つの縁の切れ目〟を実感したのはそれほど昔の事ではないはずだ。その義理姉からこうして荷物が届くとは、一体全体どういう事だ?突然突きつけられた不可解な状況に思考が混乱する。
「……まったく、今度は何だってんだ?」
十字型に頑丈に縛りつけられた紙ヒモの結び目部分を探りつつ、俺はこのぶっきらぼうに送りつけられた小さな荷物を再び冷静に観察してみる。普通、こういう経緯で荷物が届いたのであれば、先方の無神経さに腹を立てるような場面でもあるが、実際の俺は『性懲りもなくよく連絡してきたな』と相手の行為に半ば関心しつつ、むしろこの状況を面白がったりしもていた。
というのも、有紀が池矢の家と極力〝関わり〟を持ちたくなかった理由を俺は十分わかっていたし、彼女が自分の息子の〝まっとうな幸せ〟を世間一般以上に願っていることも人一倍理解できていたからだった。
この歪な距離感の原因、それは親爺様だ。正確に言うなら彼の仕事内容がその根本原因となっていた。
親父様の職業は「的屋」の元締め。解り易く説明すると『池矢組』という露天商集団を率いて各地を巡り、強面連中から「オヤジ」と呼ばれ敬われる、要するに〝ヤクザな稼業の親分〟ということ。
今ではテキヤも暴力団の一構成部隊として一くくりに扱われがちだが1970年代初期、テキヤはいわゆる〝暴力団〟とは一線を画するれっきとした職業として社会的に認められていた。テキヤを生業とする男たちはイカツイ紋々(入れ墨)こそ入れてはいるものの「詐欺行為で人様の金品を巻き上げる」だの「違法薬物をさばいて金儲けをする」というような極悪非道を働く連中とは違い、祭りごとの〝賑やかし役〟として神社などの一角で屋台を展開する立派な商売人であった。とは言え、広域を仕切る母体の組から杯を得て都内の一区域を〝シマ〟として任され、駅周囲の水商売店の〝ケツモチ〟をしたりする一面もあったから、まぁ〝武闘派ヤクザ〟と言われても仕方ないのは確かだ。
一応言っておくが、もともとウチの親父様は地に足のつかないヤクザの様な生き方とはまるで縁のない人だった。驚く事に、テキヤの世界に足を突っ込む直前までは、出来の良い若人連中が集まる某名門大学で〝水泳部の主将〟を務めていたほどの、いわゆる模範的な文武両道の才人だったそうだ。だから近しい親戚達も「あんな良い子がなぜそんな道に?」と、口を揃えて不思議がっていたという。
だが、この親父様の一見不可解と思われる心変わりは、それなりに歳をくった今の俺からすれば「分からんでもない」というのが正直な感想だ。
否、俺流に言わせてもらうなら、逆に親父様は「良い子」過ぎたのだ。
1945年 東京。
我らが親父様は、GHQによって完全解体された荒れ狂った社会でその青春時代を過ごした。敗戦直後、人々は只々「日々を生き伸びる」という事に必死であったという。
路頭に迷い、飢えと戦う人間であふれ返る瓦礫だらけの町。生活必需品が得られる唯一の場〝闇市〟の中でさえ、『自警団』と称した拳銃武装の「三国人」達が好き勝手暴れ回る悪夢のような日常…。
戦後、帰国せずに日本に留まった朝鮮人、中国人の数は100万程もいたらしく、その多くが当時の日本政府により強制連行、強制労働をさせられていた人達であった訳だから「日本敗戦」の流れに乗って彼らがここぞとばかりに暴れ出した事は必然と言えば必然だ。そして、当時の日本は米国によって警察組織が完全に解体されていたから彼らを止める術がなく、騒動は激しさを増す一方であった。
そんな中、この横暴を見かねた血気盛んな日本人らが立ち上がる。連中は今で言う所の〝半グレ集団〟であり、非力な存在だったらしいが「人一倍正義感の強かった親父様」がその思想に魅かれ、身を置くに至ったのもまた避けられない必然だったのかもしれない。
最終的にはこの危機的状況を乗り切る為に、彼ら「半グレ」と「暴力団」、そしてまさかの「民間警察」までもが互いに手を取り合って町の治安維持の為に尽力するという、まさに〝神がかり的な団結〟を見せるのであるが、いかがわしい連中が監修している今の教科書にそんな事実が載るハズも無く、また親父様が正義の人として輝いていたのも恐らくこの時期だけ…。
残念ながらこの稼業の親分たる人間の大概がそうであるように、我らが親父様もまた「始終あちこち飛び回り、家にろくすっぽ帰らない月並みなヤクザ」に成り下がってしまうのだった。
話をゆきネェの話に戻そう。
親父様が家に返らぬ日々が続き、それと反比例するように一見して堅気には見えない恐ろし気な連中が頻繁に家に出入りする様になったある日、男の一人から
『この家は事務所だから』
と聞かされた。
「ホント!?」
と驚きで目を見開いていた俺に対し、ゆきネェは只無言で遠い目をしていた。
気が付けば我々の住まいは、いつの間にか〝住居〟兼〝事務所〟となってしまっていたのだ。
まぁ、そんな話を聞いた所で、その空間に寄生虫のように住み着いているだけの我々子供達には発言権すらない訳で、歳をくっている分義理姉の方が状況を良くわきまえていたのだろう。
成人に近付き、自分を取り巻く環境がいかに世間から『危険視』されているかを実感できる年端になった彼女が、この環境に不安を感じ、こんな家からは一日も早く出たい、この家とは縁を切りたい、と思うに至ったのは至極当然な流れだったのだ。
「もう、お互い関わりを持つ理由も無かろうに……」
俺は小さな声で誰へ伝えるでもなく独り言を呟きながら、必要以上に固く結ばれてほどけないねじれた紐に鋏を入れた。
(つづく)
◆あとがき◆
執筆中断中、制作モチベーションを取り戻す為に久しぶりに「絵画」の方に頭を切り替え、何枚か作品を制作したりもしました。
実は、その中の1枚を高円寺で開催中の「高円人展」という小さな展覧会に現在出品しています。
もし御興味あります方は「みてみん」の方にアップした同作品をご覧ください(会の方は今日が最終日なので)。
( ↓↓「高円人展」出品中作品↓↓ )
https://mitemin.net/imagemanage/top/icode/893956/
不安定な状況がまだ暫くは続きそうですが、
皆々さま、何卒よろしくお願いいたします。。。




