第九声
夜十一時を回った。
志穂が地下へ籠るまで、あと一時間。
窓の外では、祭囃子が絶え間なく夜気を震わせている。提灯の灯りが塀の向こうをぼんやりと照らし、太鼓と笛の音は昼間よりもいっそう遠く、そして長く響いていた。
「まだ祭り、続いてるんだな。」
東堂家の風呂を借り、居間へ戻った俺は窓の外を眺めながら呟いた。
「『声隠し』のお祭りですから。」
志穂が静かに答える。
「太鼓もお囃子も、夜明けまで止めません。子どもたちはもう帰っていますけど、大人たちが交代で続けるんです。」
「夜通しか……。」
「少しでも『声』が聞こえないように、昔からそうしているそうです。」
祭りそのものが、楽しむためではなく、聞こえてはいけないものを覆い隠すためにある。
そう思うと、窓の外の賑わいさえ、どこか異様なものに思えてくる。
「お籠もりって、一晩中起きてるの?」
美織が心配そうに尋ねた。
「寝ちゃ駄目って決まりはないよ。でも……。」
志穂は小さく笑い、それからゆっくり首を横に振った。
「眠れないの。寝ぼけて返事をしてしまったらと思うと……怖くて。」
「……そうだよね。」
美織は志穂の手をぎゅっと握った。
「私たちも起きてるから。だから頑張って。」
志穂は困ったように笑う。
「明日、東京へ帰るんでしょう? 二人ともちゃんと寝てね。寝不足で運転なんて危ないでしょ。」
それでも美織は納得できない顔をしていた。
「でも……。」
「大丈夫。」
志穂は優しく微笑む。
「毎年のことだもん。」
その笑顔が、かえって痛々しかった。
◇
日付が変わり、午前零時。
志穂は一人、祭壇のある地下室へ降りていった。
階段の入口でその背中を見送る。
「今年も、何事もなく朝になればいいな……。」
美織がぽつりと呟く。
「ああ。」
それ以上、掛ける言葉は見つからなかった。
「朔弥、寝る?」
「明日、運転するの俺だろ。悪いけど先に休ませてもらう。」
「……うん。」
「美織も寝ろよ。ここで起きてても何もできない。七時に志穂ちゃんが出てくる頃に起きれば十分だ。」
美織は少しだけ迷っていたが、やがて小さく頷いた。
「そうだね。」
結局、俺たちはそれぞれの部屋へ戻り、布団に入った。
◇
どれくらい眠っただろう。
浅い眠りの底で、祭囃子とは別の音が耳に入り込んできた。
女たちの話し声だった。三人くらいだろうか。
四十代か五十代くらいの女性たちが、道を歩きながら世間話でもしているような調子で話している。
最初は塀の向こう、少し離れた場所だった。
その声はゆっくり近づき、やがて東堂家の門の前で止まった。
(立ち話でも始めたのか……。)
祭りの夜だから珍しくもない。
そう思って布団をかぶる。
だが、女たちはいつまで経っても話し続けていた。
途切れない。
笑いもしない。
誰かが一方的に話しているわけでもない。
三人が絶え間なく言葉を重ね続けている。
不思議だった。
これほど近くで聞こえているのに、内容が一つも頭へ入ってこない。
名前も。
相槌も。
単語一つさえ聞き取れない。
ただ、人が話しているということだけが分かる。
(……なんだ、これ。)
耳がおかしいのか。
いや、この村へ来てから耳がおかしいのは今さらだ。
それでも、この違和感は異常だった。
日本語を聞いているはずなのに、日本語として理解できない。
まるで、言葉だけが何か別のものへすり替えられているようだった。
しかも、うるさい。
眠れない。
(……注意してくるか。)
布団を押しのけ、起き上がろうとした、その時だった。
隣の部屋から、勢いよく襖が開く音が響いた。
パンッ――。
(美織か。)
続いて、廊下を踏み鳴らす足音。
ダン。
ダン。
ダン。
迷いなく玄関へ向かっていく。
やがて庭へ降りたのだろう。
玉砂利を踏み締める音が夜の静けさを裂いた。
ジャリッ。
ジャリッ。
ジャリッ。
その瞬間だった。
門の外で続いていた女たちの話し声が、不自然なほどぴたりと途絶えた。
(追い払ったのか。)
ほっと息を吐く。
これでようやく眠れる。
そう思った途端、張り詰めていた意識がほどけ、俺は再び深い眠りへ落ちていった。
◇
翌朝。
地下室へ続く階段の前には、すでに美織が立っていた。
「おはよう。」
「おはよ。」
欠伸を噛み殺しながら、美織が振り向く。
「眠れた?」
「ああ。おかげでな。」
俺は笑いながら言った。
「昨日、お前が行ってくれたから助かったよ。」
「……何が?」
「門の前のおばちゃんたち。」
美織はきょとんとした顔をする。
「夜中ずっと喋ってただろ。門の前で立ち話しててさ。俺が注意しようかと思ったら、お前が部屋を飛び出していったじゃん。」
言い終えると、美織の表情がゆっくり曇っていった。
「……朔弥。」
「ん?」
「私、昨日は部屋から一歩も出てないよ。」
思考が止まる。
「え……?」
「襖も開けてない。」
その言葉が落ちた瞬間、昨夜の記憶が一つずつ蘇る。
襖が開く音。
廊下を歩く足音。
庭へ降りる音。
玉砂利を踏み締める音。
そして――。
門の前の話し声が、ぴたりと止んだこと。
俺は、それをすべて美織だと思い込んでいた。
いや、思い込まされていたのかもしれない。
背筋を、冷たいものがゆっくりと這い上がる。
昨夜、隣の部屋から出ていったのは――
誰だった───?




