第八声
志穂が地下の部屋へ向かってから、しばらく経った頃だった。
それまで絶え間なく頭の奥で鳴り続けていた「声」が、何かに吸い込まれていくように小さくなった。
(……なんだ?)
思わず耳を澄ませる。
完全に消えたわけではない。
男とも女ともつかない囁きは、相変わらずどこかで続いている。
だが、さっきまで耳元で喚き続けていた無数の声が、今は山の向こうから風に乗って聞こえてくる程度にまで弱まっていた。
その時、志穂の言葉が頭をよぎる。
『祭壇に蝋燭を灯すと、声が聞こえなくなるって兄が言ってたから……』
本当だったのか。
蝋燭を灯しただけで、これほど変わるものなのか。
肩に入っていた力が少しだけ抜ける。
同時に、別の感情が胸の奥から湧き上がってきた。
祭壇の中央に置かれていた、あの古びた木箱。
あの中には、一体何が納められているのだろう。
「ねえ、朔弥。」
考え込んでいると、美織が俺の袖を軽く引いた。
「ちょっと門の方、見て。」
美織の視線を追って顔を上げる。
門の外、道路を挟んだ向こう側に、一人の男が立っていた。
首元の伸びた灰色のTシャツに、色褪せたジーンズ。
年齢は三十代前半くらいだろうか。
こちらを見ているのか、それとも屋敷を見ているのか分からない、ぼんやりとした視線だった。
「さっきから、あそこでずっとこっち見てるんだよね。」
美織が小さく眉をひそめる。
「この村の人?」
「どうだろう。」
俺は首を傾げた。
「美織は知らないの?」
「うーん……。この村の人なら、大体顔は分かるんだけど。」
男は微動だにしない。
ただ立っているだけなのに、妙に目が離せなかった。
その時だった。
男と目が合う。
ゆっくりと男の唇が動いた。
声は聞こえない。
それなのに、頭の奥へ直接、言葉だけが流れ込んでくる。
──死にたくない。
思わず息を呑む。
男は何も喋っていない。
それでも確かに聞こえた。
この村へ入ってから聞こえ続けている「あの声」と、まったく同じ聞こえ方だった。
(なんなんだ……。)
「美織ちゃん。」
背後から志穂の声がした。
「蝋燭、つけ終わったよ。」
「あ、ほんと?」
美織が振り返る。
俺もつられて一瞬だけ視線を外した。
ほんの数秒だった。
再び門の方へ目を向ける。
男の姿は、もうなかった。
「あれ……。」
思わず門へ歩み寄る。
道路の先まで見渡す。
一本道だ。
歩いているなら、まだ十分見えている距離のはずだった。
それなのに、男の姿はどこにもない。
「朔弥?」
美織が不思議そうな顔で近付いてくる。
「どうしたの?」
「……さっきの男。」
俺は門の外を見つめたまま尋ねた。
「もう帰ったのか?」
「気付いたらいなくなってたよね……。」
気付いたら。
その一言が妙に引っ掛かった。
「志穂ちゃん。」
「はい?」
「さっき門にいた人、知ってる?」
志穂は門の外へ視線を向け、小さく首を横に振る。
「いいえ……少なくとも、私は見たことのない人です。」
その表情には、わずかな戸惑いが浮かんでいた。
(『死にたくない』……。)
あの言葉だけが、頭の奥で何度も繰り返される。
東堂家の人間なのか。
それとも、この村で何かに取り込まれた人間なのか。
聞きたい。
だが、聞けない。
あの声が聞こえたことを口にした瞬間、俺だけが「聞こえる側」の人間だと知られてしまう気がした。
日が西へ傾き始める頃になると、村の空気は昼間とはまるで別のものへと変わっていった。
神社へ続く道には提灯が吊るされ、屋台では炭火が熾され始める。香ばしい煙が風に乗って漂い、子どもたちは祭りが待ちきれないとばかりに走り回っていた。
静まり返っていた昼間の村が嘘のようだった。
「少し神社まで歩いてみようか。」
美織に促され、俺たちは東堂家をあとにした。
歩きながら耳を澄ませる。
頭の奥で絶え間なく囁き続けていた「声」は、祭壇の蝋燭が灯されてからというもの、はっきりと勢いを失っていた。
完全に消えたわけではない。
遠くの山で誰かが話しているように、かすかなざわめきは残っている。
それでも、昼間のように耳元へまとわりついてくる不快さは薄れていた。
(やっぱり……蝋燭のせいなのか。)
そう思いながら歩いていると、不意に前方から男の声が飛んできた。
「おーい!」
道の向こうにいた中年の女性へ向けられた呼びかけだった。
だが、女性は振り返らない。
そのまま歩き続け、やがて男の姿が視界に入る距離まで近づいてから、ようやく「あら、お疲れさま」と笑顔を返した。
偶然かと思った。
しかし、それだけでは終わらなかった。
今度は、神社の境内を走っていた子どもが、
「母ちゃーん!」
と大声を張り上げる。
母親はすぐには返事をしない。
子どもが目の前まで駆け寄り、その姿を確かめてから、「どうしたの」と頭を撫でながら応じていた。
さらに別の場所では、
「終わったかー!」
という男の声に、呼ばれた相手は何も答えないまま歩みを進め、互いの姿が見えた瞬間に「ああ、今行く」と返している。
一人ではない。
二人でもない。
気がつけば、誰もが同じことをしていた。
姿の見えない相手には返事をしない。
それは誰かに命じられているような不自然さではなく、幼い頃から身体に染み込んだ習慣そのものだった。
思わず足を止める。
「……本当に、みんな守ってるんだな。」
呟くと、美織は苦笑とも諦めともつかない表情を浮かべた。
「うん。小さい頃からそうだから。」
「理由も知らないまま?」
「知らない人の方が多いと思う。」
そう言って、美織は祭りの準備を眺めた。
提灯の下では子どもたちが笑い、大人たちは忙しく動き回っている。
どこにでもある、田舎の夏祭り。
けれど、その光景を見つめる美織の横顔に笑顔はなかった。
「私は、この祭りが好きじゃない。」
ぽつりと漏れたその言葉に、思わず彼女を見る。
「みんなは楽しそうだけど……今頃、志穂は一人で地下へ籠もる準備をしてる。」
それだけで十分だった。
祭りの賑わいが、急に遠いものに思える。
村人にとっては一年に一度の祭りでも、東堂家にとっては「声」と向き合う夜の始まりなのだ。
やがて神社から太鼓が鳴り始めた。
腹の底まで響く低い音に、笛の音が重なり、人々の笑い声が境内へ溢れていく。
その賑わいに押し流されるように、頭の奥で囁いていた「声」はさらに遠ざかっていった。
(祭りそのものにも……意味があるのか。)
そう思った、その時だった。
──弥一郎。
祭囃子を突き抜けるように、その声だけが異様なほど鮮明に耳へ届いた。
太鼓よりも近い。
笛よりも近い。
頭の中ではない。
まるで、すぐ背後から囁かれたかのような距離だった。
反射的に振り返る。
だが、そこには祭りを楽しむ村人たちの姿しかない。
「朔弥?」
美織が不思議そうにこちらを見る。
「どうしたの?」
「……いや。」
短く答えながらも、背中を伝う冷たい汗だけは止まらなかった。
祭壇の蝋燭も。
祭囃子も。
村人たちのざわめきも。
確かに「声」を遠ざけている。
それなのに――俺の名を呼ぶ、その声だけは、何事もなかったように祭りの音をすり抜け、静かに耳元へ届いていた。




