第十声
朝七時を少し回った頃、地下の部屋から志穂が姿を現した。
一睡もしていないのだろう。青白い顔には隠しきれない疲労が滲み、それでも彼女は無理に笑みを浮かべていた。
「志穂、大丈夫だった?」
美織が駆け寄る。
「うん。何とか朝まで起きていられた。でも……さすがに少し疲れたかな。」
そう言って力なく笑う。
その様子を見ながら、俺は別のことに気づいていた。
昨夜までほとんど聞こえなくなっていた”声”が、また少しずつ戻ってきている。
祭壇の蝋燭の火が弱くなってきたのだろうか。
耳鳴りにも似た無数の囁きが、遠くからじわじわと近づいてくる。
そして、その中に一つだけ、はっきりとした声が混じった。
──聞こえちゃったね。
もう一つ。
──残念だったね。
(……何が?)
意味を考えた、その瞬間だった。
──あぁぁぁーーはははははははははッ!!
頭の内側で、狂ったような笑い声が聞こえた。
思わず肩が跳ねる。
全身の毛穴が一斉に開き、冷たいものが背中を流れ落ちた。
これは違う。
昨夜まで聞いていた囁きとは、まるで質が違う。
耳で聞いているのではない。
脳の奥を直接かき回されるような、底知れない嫌悪感。
本能が叫んでいた。
聞いてはいけない。
この笑い声だけは、聞いてはいけない。
気づけば笑い声は消えていた。
だが、不快感だけが体の奥にへばりついたまま離れない。
美織も志穂も何事もなかったように歩いている。
聞こえたのは、やはり俺だけなのだ。
平静を装いながら二人の後ろを歩くので精一杯だった。
◇
朝食は昨日と同じ居間でいただくことになった。
味噌汁の湯気が立ち上り、焼き魚の香りが部屋に広がる。
穏やかな朝の風景。
それなのに、俺だけが妙な居心地の悪さを覚えていた。
その時だった。
塀の向こうから、けたたましいサイレンが響いてきた。
救急車。
続いてパトカー。
何台も連なって走っているようだった。
「やだ、お祭りで事故でもあったのかな。」
美織が箸を止めて顔を上げる。
「救急車まで来てるってことは、誰か怪我したのかな……。」
志穂も心配そうに窓の外を見た。
だが俺は、その音を聞いた瞬間から胸騒ぎがしていた。
理由は分からない。
ただ、嫌な予感だけが膨らんでいく。
気を紛らわせるように、俺は志穂へ声を掛けた。
「俺たちは今日帰るけど、昨日運んだ祭壇はこのままでいいの?」
「あ、はい。お祭りは十五日まで続くので、そのままで大丈夫です。」
「え?」
思わず聞き返した。
「じゃあ、お籠もりって一晩だけじゃないの?」
「十二日から十五日の朝まで、三日続くんです。」
志穂は少し照れくさそうに笑う。
「昼間に少し休んで、夜になるとまた地下へ入ります。」
「三日も……。」
想像しただけで息が詰まる。
あの地下で。
あの鉄格子の部屋で。
三晩も。
「今年は初日の夜、美織ちゃんと朔弥さんがいてくれたから、心強かったです。本当にありがとうございました。」
志穂は丁寧に頭を下げた。
美織は少し寂しそうに笑う。
「ねえ、志穂。」
「うん?」
「あと二年あるからって、油断しちゃ駄目だからね。」
「……うん。」
短い返事だった。
けれど、その声には諦めにも似た静けさが滲んでいた。
俺は二人を見比べる。
「気を付けるって、何を?」
志穂は少しだけ視線を落とした。
「東堂家の人間は二十五歳までに死ぬと言われています。でも、みんな二十五歳まで生きられるわけじゃありません。」
「どういうこと?」
「二十三歳や二十四歳で亡くなる人も多いんです。」
部屋の空気が重く沈む。
「だから美織ちゃん、今年は帰ってきてくれたんです。」
「うん。」
美織は静かに頷いた。
「志穂に会えるうちに、会っておきたかったから。」
それだけだった。
それだけなのに、胸が締め付けられる。
親友が、あと二年で死ぬかもしれない。
そんな話を受け入れられる人間なんているのだろうか。
その時だった。
玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
間を置かず、扉を叩く音が響く。
ドンドン。
「東堂さーん! 東堂さん、いらっしゃいますか!」
志穂の母が立ち上がり、玄関へ向かった。
廊下の向こうから、小声で何かを話す声が聞こえてくる。
世間話ではなさそうだ。
しばらくして足音が二つ、こちらへ近づいてきた。
一人は志穂の母。
もう一人は、消防団の制服を着た男性だった。
男は帽子を脱ぐと、神妙な面持ちで頭を下げた。
「消防団の斎藤と申します。東京からいらしたのは、お二人だけでしょうか。」
唐突な問いに、俺は首を傾げた。
「そうですが……何かありましたか?」
斎藤は言葉を選ぶように、一度唾を飲み込んだ。
「実は今朝、村外れの山の入口付近で男性のご遺体が見つかりました。」
部屋の空気が、一瞬で凍りつく。
「村の者は誰も、その男性に見覚えがありません。ですが昨日、東堂家に東京からお客様が来ていると聞きまして……。もしかすると、お知り合いではないかと思い、お伺いしました。」
「今回来たのは、僕と彼女だけです。他に東京から来た人はいません。」
「そうですか……。」
斎藤は少し困ったような表情を浮かべ、それでも意を決したように続けた。
「大変心苦しいお願いなのですが……念のため、ご遺体を確認していただくことはできますでしょうか。」
美織の顔から血の気が引いた。
「死体を……見るんですか。」
震えた声だった。
俺は小さく息を吐き、斎藤へ向き直る。
「彼女は村の人間ですし、僕一人で確認します。」
「ありがとうございます。それでは後ほど、消防団の詰所までお越しください。」
深く頭を下げると、斎藤は静かに部屋を後にした。
残された部屋には、誰も口を開く者はいなかった。
遠くでは、まだ救急車のサイレンだけが鳴り続けていた。




