第十一声
志穂とその母に案内され、俺と美織は消防団の詰所へ向かった。
歩きながらも、耳の奥では相変わらず小さな囁きが絶え間なく続いている。
昨夜よりはるかに小さい。それでも、確かに聞こえていた。
志穂と母親も、「念のため確認を」と言われ、遺体を見ることになったらしい。
美織は最初、屋敷で待っているつもりだったようだが、一人で残るのが不安だったのだろう。結局、俺と一緒について来た。
詰所へ着くと、すでに大勢の村人が集まっていた。
どうやら村人たちも、一人ずつ遺体を確認しているらしい。
「なんだ、ありゃ……見るもんじゃねぇな。」
「気味が悪かったよ……あんな死に顔。」
確認を終えた人たちが、顔を曇らせながら小声で話している。
普通の遺体ではないのだと、その様子だけで伝わってきた。
やがて俺の順番が回ってくる。
遺体は簡易ベッドの上に横たえられ、顔には白い布が掛けられていた。
一見したところ、服に血は付いていない。
事故死というより、病死に見えなくもない。
そんなことを考えながら、遺体へ視線を落とした、その時だった。
気づいてしまった。
昨日、東堂家の門の外に立っていた、あの男。
遺体が身につけている首元のよれたTシャツも、色褪せたジーンズも、昨日見た男とまったく同じだった。
(……まさか。)
胸がざわつく。
俺はゆっくりと白い布に手を掛け、そのまま静かに持ち上げた。
思わず肩が跳ねた。
目は大きく見開かれ、何かに耐えきれないほど怯えた表情のまま固まっている。
その形相だけで、見ているこちらの息が詰まりそうだった。
間違いない。
昨日、東堂家の門の外に立っていた男だ。
そう思った。
……だが、おかしい。
昨日見た男は、三十代前半くらいにしか見えなかった。
黒々としていた髪は白髪が混じり、深い皺が刻まれた顔は、どう見ても五十代から六十代に見える。
一晩で、ここまで老け込むことなどあり得るのだろうか。
「お知り合いですか?」
消防団員が俺の表情の変化に気づき、静かに声を掛けた。
「あ……いえ。」
俺は慌てて首を振る。
「知らない人です。ただ……思っていたより表情があまりにも……。」
言葉を探していると、消防団員は小さく頷いた。
「皆さん同じような反応をされます。無理もありません。」
俺はもう一度遺体へ目を向ける。
やはり、昨日見た男によく似ている。
いや、よく似ているというより——歳を重ねた同一人物にしか見えなかった。
それでも、そんな話をして混乱させる必要はない。
俺は静かに白布を戻した。
後ろで待っていた志穂と母親へ、小声で声を掛ける。
「……ちょっと表情に驚くかもしれない。心の準備だけしておいて。」
二人は小さく頷き、そのまま遺体の前へ歩いていった。
俺は詰所の壁にもたれて待っていた美織のところへ戻る。
「どうだった?」
「昨日、東堂家の門のところにいた男、覚えてるか?」
「えっ……。」
一瞬、美織の表情が強張る。
「まさか……。」
「いや、断言はできない。服はまったく同じだった。でも、遺体は白髪混じりで、五十代か六十代くらいに見えた。」
「昨日の人は三十代くらいだったよね……。」
「ああ。」
それ以上は言わなかった。
自分でも、何を見たのか分からなかったからだ。
「でも、美織は見なくて正解だった。」
「そんなに……?」
「目を見開いたままでさ。何か、とんでもなく恐ろしいものを見たような顔だった。」
「あっ、やっぱりいい。」
美織は慌てて首を振り、両耳を塞いだ。
「それ以上は聞きたくない。」
その時だった。
「ああああああぁぁぁぁっ!!」
詰所いっぱいに、女の絶叫が響き渡った。
俺と美織は同時に振り返る。
その場に崩れ落ちていたのは、志穂の母だった。
「お母さん!」
志穂が駆け寄る。
「どうしたの!? しっかりして、お母さん!」
しかし、母親は娘の声も届かないかのように取り乱し、泣き叫び続けた。
「いやぁっ! いやぁぁぁっ! どうして……どうしてなの!」
消防団員たちが慌てて駆け寄り、身体を支えようとする。
「東堂さん、落ち着いてください。外へ出ましょう。」
だが、母親は首を激しく振りながら叫び続けた。
「やめて……お願いだから……!」
涙で濡れた顔を歪め、遺体へ向かって必死に手を伸ばす。
「私から、あの子を離さないでぇっ!」
その場にいた全員が息を呑んだ。
俺も思わず遺体へ目を向ける。
(……あの子?)
どう見ても、志穂の母より年上にしか見えない。
それなのに、彼女は確かに「あの子」と呼んだ。
その違和感が胸に引っ掛かった、その時だった。
頭の奥で、またあの笑い声が響く。
──ぁぁぁぁああーーははははははははは!!!
朝よりも近い。
朝よりも大きい。
思わず奥歯を噛み締める。
あの厭な笑い声だけが、俺の頭の中でいつまでも響き続けていた。それ以上は言わなかった。




