第十二声
志穂の母親を東堂家へ連れ帰ってきたものの、あれほどの絶叫は止んだ代わりに、今度は誰にも聞き取れないほど小さな声で、何かをぶつぶつと呟き続けていた。
呼びかけても反応は薄い。
焦点の合わない目で宙を見つめ、何かを繰り返し口にしている。
まるで、心のどこかが壊れてしまったかのようだった。
「……志穂。」
美織が遠慮がちに声を掛ける。
「おばさん……どうしちゃったの? 身元不明の遺体を見て、急にああなっちゃったんだよね?」
「うん……。」
志穂は母の姿を見つめたまま、小さく頷いた。
「私も分からない。あの人のことは知らないし、お母さんも何も話してくれないから……。」
「でも、ただの知り合いって反応じゃなかったよな。」
思わず口をついて出た。
志穂の母は遺体を見た瞬間、
『私からあの子を離さないで』
と叫んでいた。
あの遺体は、どう見ても五十代か六十代。
一方、志穂の母は四十代後半ほどにしか見えない。
年上の男性を「あの子」と呼ぶには、あまりにも不自然だった。
「私も変だとは思うんです。でも、お母さんに今そのことを聞くのは……。」
志穂は言葉を濁し、静かに首を振った。
今の母親に問い詰めることなど、到底できる状態ではない。
重苦しい沈黙が部屋を包む。
「朔弥。」
美織が小さく袖を引いた。
「今日、東京へ帰る予定だったけど……もう一泊してもいいかな。」
その言葉は、俺も考えていたことだった。
「もちろん。」
頷く。
「もともと残りの休みは家でゆっくりするだけだったし。それに志穂ちゃん、今夜も地下へ籠るんだろ?」
「うん。」
美織は志穂へ向き直った。
「志穂、今日も泊まらせてもらっていい?」
一瞬きょとんとした志穂の顔が、すぐにほころぶ。
「もちろん! むしろ、本当にありがとう。」
そう言って、美織の手を両手で包み込むように握った。
「お母さんも心配だし……二人がいてくれるだけで心強い。」
その声は震えていた。
昨夜まで必死に平静を装っていた志穂も、限界だったのだろう。
俺は少し離れた場所に座る志穂の母へ目を向けた。
東堂家の呪いと、この人の異変。
無関係とは思えない。
だが、志穂の話では、母親は村の外から東堂家へ嫁いできた人だ。
東堂の血を引いているわけでもない。
それなのに、なぜあれほど取り乱したのか。
理由は分からない。
けれど、一つだけ考えてしまうことがあった。
この人は、この先も生き続ける。
夫を見送り、子を見送り、孫を見送る。
東堂の血を引かない自分だけが歳を重ね、そのたびに血を継ぐ者たちは、二十五歳を迎える前に死んでいく。
愛した人も。
命を懸けて産んだ子も。
やがて生まれてくるかもしれない孫も。
みな、自分より先にいなくなる。
そんな人生を、正気のまま受け入れられる人間がいるだろうか。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
その時だった。
雑多な囁きの中から、ひときわ鮮明な声が耳の奥へ滑り込んできた。
──ダメだったね。
──見つかっちゃったね。
はっとして顔を上げる。
だが、その声はすぐに無数の囁きへ溶け込み、判別できなくなった。
何が、ダメだった。
何に、見つかった。
あの身元不明の遺体のことなのか。
志穂の母のことなのか。
それとも――
俺のことなのか。
朝、そして消防団の詰所で聞いた、あの耳障りな笑い声が脳裏をよぎる。
あれは誰を嘲っていたのだろう。
分からない。
分からないことばかりだ。
それでも、一つだけ確かなことがある。
この村に満ちている”何か”は、決して人を歓迎してはいない。
東堂家だけが呪われているのではない。
この村そのものが、何か得体の知れないものに静かに蝕まれている。
そんな気がしてならなかった。




