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第十三声

夕方になり、志穂が地下の部屋の祭壇へ蝋燭を灯しに行くというので、俺も何となく後をついて行った。


地下へ降りるのは、祭壇を運び込んだ日以来だった。


今度は両手が空いている。


階段の壁や天井、湿り気を帯びたコンクリートの床を眺める余裕もあった。


ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。


その時だった。


 ――ヒタ。


足音がした。


俺と志穂はスリッパを履いている。


それとは違う。


乾いた皮膚がコンクリートへ吸いつくような、湿り気を帯びた足音だった。


 ――ヒタ。


 ――ヒタ。


一定の間隔で、俺たちの後ろをついてくる。


思わず振り返る。


誰もいない。


志穂だけが、不思議そうな顔でこちらを見返していた。


 ……この音。


聞いたことがある。


東堂家へ来てからではない。


もっと昔。


俺が弥一郎だった頃。


毎日のように耳にしていた音だ。


そうか。


あの頃、毎日聞いていた音は――階段を裸足で降りてくる足音だったのか。


前世の俺は全盲だった。


人の姿も、歩く様子も知らない。


音だけが世界だった。


だから、ただ「階段の音」だと思っていた。


だが今は違う。


視覚が、その音に形を与えてしまう。


見えない誰かが、ゆっくりと階段を降りてくる姿を。


見えないというのは、なんて幸せだったのだろう。


見えてしまう想像ほど、人を恐怖させるものはない。


足音は、ゆっくりと近づいてくる。


 ――ヒタ。


 ――ヒタ。


そういえば、前世でも不思議だった。


この音は、いつも上から降りてきた。


やがて自分のすぐ近くで止まる。


だが、その先を聞いた記憶がない。


戻っていく音を、一度も聞いたことがなかった。


今なら分かる。


それは、おかしい。


地下へ降りてきたなら、いずれ階段を上って戻る音が聞こえるはずだ。


なのに、聞いたことがない。


あの足音は――俺の目の前で、どうなっていたのだろう。


考えた瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。


その時、耳の奥を満たしていた無数の囁きが、一斉に遠ざかっていく。


志穂が祭壇の蝋燭に火を灯したのだ。


あれほど絶え間なく聞こえていた「声」が、嘘のように小さくなる。


静寂が戻る。


それでも。


まだいる。


音は消えたのに、気配だけが消えない。


「蝋燭、つけ終わりました。戻りましょう。」


志穂の声に我へ返る。


「ああ……あのさ、志穂ちゃん。」


「はい?」


「昨日、一晩ここに籠っていて、何か変わったことはなかった?」


「変わったこと、ですか?」


志穂は少し考えてから首を振った。


「蝋燭のおかげか、『声』は全然聞こえませんでした。」


「声以外で……例えば、誰かいるような気配とか。」


「気配ですか?」


志穂は苦笑した。


「そんなこと言わないでくださいよ。怖くなるじゃないですか。」


冗談だと思っているらしい。


やはり、この気配を感じているのは俺だけなのだ。


俺たちは地下室をあとにした。


階段を上る。


一段。


また一段。


後ろから、あの足音もついてくる。


姿は見えない。


それでも、すぐ背後に何かがいるという感覚だけは消えない。


廊下へ出る、その一歩手前だった。


ふっと。


気配が消えた。


まるで境界線でも越えられないかのように。


俺は立ち止まり、振り返る。


暗い階段が口を開けているだけだった。


誰もいない。


何もいない。


それでも、あの足音は確かに聞こえた。


そして思い至る。


あれは、俺が弥一郎だった頃から、ずっとあそこにいたのではないか。


もしそうなら。


俺は前世で、ずっと”何か”と同じ場所で暮らしていたことになる。


その事実だけが、ゆっくりと胸の奥へ沈んでいった。

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