第五声
「弥一郎」。
前世の俺の名前だったと思う。
前世の記憶があると言っても、多くのことを覚えているわけじゃない。
断片的な音や言葉、感情だけが、まるで霧の中に浮かぶように残っている。
(なんで……ここで前世の俺の名前が聞こえるんだ?)
トットッ……
襖が軽く叩かれた。
「朔弥、入るよ。」
一拍置いて、美織が部屋へ入ってきた。
「明日のお祭りの準備なんだけど、私たちも手伝うことになったから。」
「祭りの準備?」
「うん。志穂の家の準備。」
「志穂ちゃんの家の準備が祭りの準備ってこと? どういうこと?」
「私も詳しくは知らないんだけど、お祭りの日の夜に合わせて東堂家で儀式みたいなのをやるらしいの。その準備が遅れてるって、今日志穂が言ってた。」
「……東堂家?」
心臓が一つ、大きく脈打った。
「志穂の苗字。東堂っていうの。」
その瞬間だった。
頭の奥で、忘れていた記憶が弾ける。
『東堂様。』
『東堂様はなぁ……。』
『東堂家の長男として……。』
『東堂の長子が全盲とは……。』
幾つもの声が重なり合い、一つの名前を浮かび上がらせる。
東堂弥一郎。
前世の、俺の名前。
「朔弥?」
美織が心配そうに顔を覗き込む。
「あ……いや。志穂ちゃん、そんな格好いい苗字だったんだなって。」
「確かに苗字は格好いいけど……色々ある家だから。」
美織は少しだけ表情を曇らせた。
「とにかく、明日は朝から東堂家に行くから。よろしくね。」
そう言い残し、美織は部屋を出ていった。
一人になる。
静かな部屋。
いや、静かじゃない。
天井を軋ませる木の音。
風が障子を揺らす音。
遠くで鳴く虫の声。
その隙間に、ぼそぼそと誰かの囁きが混じっている。
耳を塞いでも消えない。
頭の奥で響いている。
俺は布団へ横になった。
眠ろうとしても、眠れなかった。
◇
翌朝。
朝食を済ませると、俺たちは東堂家へ向かった。
前世で暮らしたかもしれない屋敷。
そう思うだけで胸がざわつく。
行きたいのか。
行きたくないのか。
自分でも分からなかった。
「車のまま中まで入っていいって。」
助手席の美織がスマホを見ながら言った。
門はすでに開かれていた。
ゆっくりと車を進める。
門をくぐった、その瞬間。
──帰ってきた。
──おかえり。
──弥一郎様。
幾つもの声が、頭の奥で重なった。
思わずブレーキを踏みそうになる。
「朔弥?」
「……いや、大丈夫。」
アクセルを踏み直す。
屋敷へ続く道。
その空気に触れた瞬間、不思議な感覚に襲われた。
知っている。
初めて来た場所のはずなのに。
知っている。
門を抜ければ長い庭が続き、その先に母屋。
左には蔵。
右奥には離れ。
そして、さらに奥へ進めば──。
(井戸がある。)
頭に浮かんだまま視線を向ける。
そこには、本当に古びた石組みの井戸があった。
息が止まる。
見たことなどない。
見えるはずもない。
前世の俺は、生まれつき全盲だった。
それなのに、どうして俺は、この屋敷の造りを知っているんだ。
車を庭の隅へ停める。
ドアを開ける。
ジャリ。
玉砂利を踏む音が鼓膜を震わせた。
ジャリ。
ジャリ。
一歩進むたび、その音だけが異様に大きく響く。
そして、その音に紛れるように。
──やっと、帰ってきた。
誰かが、嬉しそうに笑った。
「美織ちゃん、朔弥さん、おはようございます。今日はよろしくお願いします。」
玄関の前では、白い小袖に緋袴をまとった志穂が待っていた。
巫女姿の志穂は、昨日よりもどこか大人びて見える。
「おはよう、志穂。」
美織が手を振る。
「準備が終わってないものって何? お祭りは夜からだし、間に合うよね?」
「うん。午前中には終わるよ。」
志穂はほっとしたように微笑んだ。
「手伝ってほしいのは……私がお籠もりする部屋に祭壇を運ぶことなの。」
「祭壇?」
美織が首を傾げる。
「うん。重くてね……。今、東堂家は女ばかりだから運べる人がいなくて。美織ちゃんと朔弥さんが来てくれて、本当に助かる。」
志穂に案内され、俺たちは屋敷の奥へ向かった。
廊下を歩くたびに、床板が軋む。
ギシ。
ギシ。
その音に重なるように、また声が聞こえた。
──弥一郎様。
返事はしない。
──聞こえてるんでしょう?
歩き続ける。
──なんで返事してくれないの?
聞こえないふりをする。
──前は、いつも返事してくれたのに。
まとわりつくような声。
この屋敷へ入ってから、ずっと。
なのに、不思議だった。
怖いはずなのに。
どこか懐かしい。
前世では――。
これが、普通だった。
「朔弥。」
突然、美織の声が現実へ引き戻した。
顔を上げると、美織がこちらを見ている。
「あ、なに?」
「ぼーっとしてる。祭壇運ぶよ。」
「ああ、ごめん。」
目の前には、大きな木製の祭壇が置かれていた。
神棚をそのまま大きくしたような造りだ。
中央には扉ではなく、一メートル四方ほどの古びた木箱が据えられ、その上から白い布が丁寧に掛けられている。
俺は祭壇の端を持った。
ずしり、と腕へ重みが伝わる。
見た目以上に重い。
「確かに……これは大変だ。」
「だから助かるよ。」
志穂が小さく笑った。
三人で息を合わせ、祭壇を持ち上げる。
長い廊下をゆっくりと進む。
「で、この祭壇はどこへ運ぶの?」
俺が尋ねると、前を歩く志穂が振り返った。
「この先です。」
その一言だけだった。
やがて廊下の突き当たりに、小さな木の扉が現れる。
志穂が扉を開けた。
ギィ……。
冷たい空気が流れ出る。
その奥には、下へ続く石段があった。
胸がざわつく。
理由は分からない。
ただ、その空気を知っている気がした。
湿った土の匂い。
木が朽ちる匂い。
肌へまとわりつく冷気。
(……知ってる。)
そう思った瞬間、自分でも息を呑んだ。
どうして知っている。
初めて来た場所のはずなのに。
「階段、気を付けてください。」
志穂が先に降りていく。
俺たちも祭壇を抱えたまま、一段ずつ石段を下りた。
その瞬間だった。
──おかえり。
一つ。
──帰ってきた。
二つ。
──弥一郎様。
三つ。
そして。
──今度は返事して。
無数の声が一斉に押し寄せた。
耳を塞ぎたくなる。
だが、両手は祭壇を抱えている。
逃げられない。
降りるしかない。
石段を下りきる。
そこにあったのは――部屋ではなかった。
窓はない。
小さな裸電球が一つだけ、薄暗く揺れている。
入口には襖ではなく、黒く錆びた鉄格子。
壁も床も冷え切り、空気は重く淀んでいた。
まるで。
座敷牢だった。
「祭壇は、奥の壁へお願いします。」
志穂の声で我に返る。
三人でしゃがみ、ゆっくり祭壇を下ろした。
その瞬間。
心臓が、大きく跳ねた。
ここを知っている。
見たことはない。
来たこともない。
それなのに。
壁までの歩数も。
部屋の広さも。
鉄格子の位置も。
手を伸ばせば何があるのかも。
身体が覚えていた。
(ここは……。)
喉が乾く。
(ここで、俺は暮らしていた。)
全盲だった弥一郎は、この部屋を見ることはできなかった。
それなのに、俺は知っている。
いや。
知っているんじゃない。
覚えている。
祭壇を見つめる。
こんなものは、なかった。
少なくとも――俺がここにいた頃には。
俺はゆっくりと志穂を見た。
「志穂ちゃん。」
「はい?」
「東堂家で行う儀式って……何なんだ?」
志穂は少しだけ視線を伏せた。
そして静かに答えた。
「……声が、返ってこないようにするための儀式です。」
その瞬間。
頭の奥で、誰かが笑った。




