第四声
「志穂ちゃんに会えるのが、最後? それってどういう……」
俺が言いかけると、
「あっ、田んぼの向こうに大きい木が見えるでしょ? その隣の家が私ん家!」
美織は話を遮るように笑った。
「車は家の前の庭に適当に停めて大丈夫だから。」
そのままシートベルトを外し、先に車を降りる。
美織の家は志穂の屋敷ほどではないが、それでも東京では考えられないほど広い庭と家だった。
「田舎は土地が安いから、うちくらいの家は普通だよ。」
「十分広いだろ。」
苦笑しながら荷物を降ろす。
「ご両親は?」
「まだ仕事。お母さんは明日から、お父さんは明後日からお盆休みだって。」
少しだけ安心した。
恋人の実家へ来るのは、やっぱり緊張する。
玄関の戸が開く。
ひんやりした空気が流れた。
俺が一歩、中へ足を踏み入れた瞬間だった。
──おかえり。
聞こえた。
男でも女でもない。
感情のない声。
思わず廊下の奥を見る。
誰もいない。
「……美織。」
「なに?」
「今、この家に誰かいた?」
「え?」
「おかえりって聞こえた。」
その瞬間だった。
美織の表情が凍りつく。
「……返事した?」
「え?」
「返事したの?」
声が震えている。
「いや……空耳だと思ったし。」
「本当に?」
「してない。」
「絶対?」
「してないって。」
数秒。
美織は俺を見つめたまま動かなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……よかった。」
「何なんだよ。」
「朔弥。」
美織は真剣な目で俺を見た。
「この村ではね。」
一度、言葉を切る。
「姿が見えていない相手の声には、絶対に返事しちゃダメ。」
「……誰が決めたんだよ。」
「知らない。」
「え?」
「分からない。でも、小さい頃からみんなそうしてる。」
「理由は?」
「知らない。」
美織は首を振る。
「でも、返事した人は死ぬって。」
「……。」
思わず笑おうとした。
冗談だと言ってほしかった。
でも、美織は笑わない。
「事故だったり、自殺だったり。」
「それ、本当に声のせいなのか?」
「分からない。」
またその答えだった。
「でも、この村では誰も返事をしない。」
「……。」
「だから朔弥も返事しないで。」
俺は苦笑する。
「オカルトだな。」
「そう思うなら、それでいいよ。」
そう言って、美織は居間へ向かった。
俺も後を追う。
古い廊下が軋む。
ギシ。
ギシ。
ギシ。
静かだった。
その静けさの中で、
また聞こえた。
──聞こえてる。
足が止まる。
──返事しないんだ。
今度は少し近い。
耳じゃない。
頭の奥だった。
冷たい汗が背中を伝う。
──返事して。
俺は唇を噛み締めた。
その時。
「朔弥!」
居間から美織の声がした。
俺は反射的に返事をしそうになり、慌てて居間を見る。
襖が開いている。
美織が立っていた。
姿が見える。
俺はようやく息を吐いた。
「……今行く。」
その瞬間だった。
頭の奥で、誰かが笑った。
美織との話が終わった頃、玄関の引き戸が開く音がした。
ガララ――。
「ただいま。」
女性の声。
俺は思わず玄関の方へ顔を向けた。
足音が近づいてくる。
トッ、トッ、トッ……。
衣擦れの音。
買い物袋が揺れる音。
ビニールが擦れる小さな音まで妙にはっきり聞こえる。
この村へ入ってから、耳がおかしい。
いや、耳だけじゃない。
世界そのものが近づいてきているような感覚だった。
姿が見えた。
エプロン姿の女性。
「お母さん、おかえり。」
美織が笑う。
「ただいま。朔弥くんよね?」
「はじめまして。お世話になります。」
美織の母は柔らかな笑顔を見せた。
どこにでもいそうな、ごく普通の母親だった。
だからこそ、不思議だった。
さっきまで聞こえていた声が、母親の姿が見えた瞬間、すっと消えた気がした。
◇
夕方になると、美織の父も帰ってきた。
玄関が開く。
ガララ。
「ただいま。」
また声がする。
俺は反射的に「おかえりなさい」と言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
襖の向こうから足音が聞こえる。
姿が見えるまで待つ。
父親が居間へ入ってきた。
「おかえり。」
美織と母親が同時に返事をした。
まるで、それが当然であるかのように。
誰も説明しない。
誰も意識している様子もない。
それでも全員が同じタイミングで返事をする。
俺だけが、そのことに違和感を覚えていた。
◇
夕食は山菜の煮物や鮎の塩焼きが並び、食卓には穏やかな空気が流れていた。
「明日は祭りの準備で朝から人が集まるよ。」
父親が言う。
「朔弥くんも見に行くか?」
「ぜひ。」
「志穂も来ると思う。」
美織がそう言うと、母親の箸が一瞬止まった。
「……そう。」
それだけだった。
父親も何も言わない。
けれど、部屋の空気だけが少し重くなった。
「志穂ちゃんって、やっぱり大地主の家だから忙しいんですか?」
俺が尋ねると、
「昔から、いろいろある家だからね。」
父親は短く答えた。
それ以上は話さなかった。
◇
風呂を借り、二階の客間へ戻る。
窓を開けると、夜風が流れ込んできた。
虫の声。
木々が擦れる音。
遠くの川。
風鈴。
時計の秒針。
冷蔵庫のモーター。
廊下を誰かが歩く音。
家鳴り。
水道管を水が流れる音。
一つ一つの音が、鼓膜のすぐそばで鳴っているようだった。
うるさい。
東京より、ずっと。
音が多いんじゃない。
一つ一つの音が、近すぎる。
そして、その音の隙間に混じる。
ぼそぼそ。
ぼそぼそ。
意味のない囁き。
男とも女とも分からない。
子どものようにも、老人のようにも聞こえる。
耳を塞いでも消えない。
頭の奥で響いている。
その時だった。
――弥一郎。
はっきりと。
誰かの名前を呼んだ。
心臓が大きく跳ねる。
返事はしない。
目も閉じない。
息だけを殺して、声が消えるのを待つ。
しばらくして、また雑音だけになる。
安堵しかけた、その時。
ぼそぼそという無数の声の中から、一つだけ、はっきりと聞こえた。
――見つけた。
背筋が、ゆっくりと冷えていった。




