第二十二声
「美乃さん。幼かった頃の美乃さんが見た、その男の人は、ひたすら謝っていただけですか? 他に何か言っていませんでしたか?」
「だいぶ昔の記憶だからねぇ。あまり覚えてないねぇ。」
「その男の人って、こちらの村に来た後は普通に暮らしていたんですか?」
美織が首を傾げた。
「中年の男性だったけど、奥さんや子供が近くにいた記憶はないかしらねぇ。独身だったのかしら。……あ!」
美乃さんが顔を上げた。
「私がその人に、何をしているのかって聞いた時──」
───美乃の回想。
「……すまねぇ……すまねぇ……許してくれ……。」
くたびれた作業着のような服を着た男が、丸太に腰を下ろし、俯きながら呟いていた。
まるで、呪文のように。
遠くから男の様子を見ていた幼い美乃は、好奇心に駆られて男の近くへ歩み寄った。
「おじちゃんは、ここで一人で何してるの?」
美乃の問いかけに、男はゆっくりと顔を上げた。
男の目に光はなかった。
疲れ切ったような、絶望したような目だった。
「お嬢ちゃんは、いくつだ……?」
掠れた声で男が尋ねる。
「美乃ねぇ、六つになったよ。」
美乃は片方の手のひらを開き、もう片方の手で人差し指を立ててみせた。
「そうかい……お嬢ちゃんは、悪いことをしたことがあるかい?」
美乃は首を傾げ、しばらく考えた。
そして、小さな声で答えた。
「……おじちゃん、内緒にしてくれる?」
「ああ。誰にも言わないから、言ってごらん。」
男は小さく頷いた。
「美乃ね、この前、お水を飲もうと思ってコップにお水を入れたんだ。お母さんには、コップは机の上に置いて、持ち歩いちゃダメよって言われてたんだけど……遊びながらお水を飲みたくて、持ち歩いてたの。」
「うん。」
「そしたらね、おもちゃにつまずいて、お水を畳にこぼしちゃったの。それでね、美乃には赤ちゃんの弟がいるんだけど……弟のせいにしちゃったの。」
美乃は肩を落とした。
「お母さんに、勇がハイハイしてて、それにつまずいてこぼしちゃったって……。」
「そうかい。」
男は静かに美乃を見た。
「弟のせいにして、悪かったなぁって思ってるんだね。」
「……うん。」
「お嬢ちゃんは、お母さんの言いつけを破ったのかもしれないけど、わざとやったわけじゃないんだろう?」
「……うん。」
「正直に言えば、お母さんは許してくれるさ。」
「……そうかな。」
「そうとも。お水を床にこぼしたなんて、大したことじゃない。謝れば許してくれる。」
男は一度言葉を切った。
「謝れば許してくれることなら……謝った方がいい。」
声が、小さく落ちた。
「謝っても許してもらえねぇことをした儂らより、よっぽどマシだ。」
「おじちゃん、悪いことしたの?」
男は美乃を一瞥すると、遠くの山へ視線を向けた。
「……あぁ。謝っても許してもらえねぇことをしたんだ。儂らは。」
美乃は、悲しそうな表情を浮かべる男を見て、どうしていいのか分からなくなった。
「でも、謝ったら許してくれるかもしれないよ。一回、謝ってみなよ。」
「許してはくれんよ。」
男は静かに首を振った。
「それに、謝りたくても……相手はもう、この世にはおらん。」
「え? いないの?」
「ああ。」
男は俯いた。
「儂らの罪を背負ったとも知らず……村の良いように利用されて……そのことも何も知らされず、それが自分の運命だと思い込んで……。」
美乃は、きょとんとした。
「お嬢ちゃんには分からんか。」
「うん。よく分かんない。」
男は微かに笑った。
そして、遠くの山を指差した。
「あそこに山が見えるだろう?」
「うん。」
「おじちゃんは、あの山の向こう側の村から来たんだ。」
「ふぅん。」
「お嬢ちゃん、あの山に何があるか知ってるか?」
「あの山? ううん。」
「あの山にはな、人の真似をするお化けがいるんだ。」
「お化け!?」
美乃の目が大きく見開かれた。
「ああ。お嬢ちゃんのお父さんやお母さんの声を真似して、お嬢ちゃんを呼ぶんだ。」
男の声が低くなる。
「でも、その呼びかけには絶対に答えちゃいけないよ。」
「でも、お父さんやお母さんの声を真似してるんでしょ?」
美乃は不安そうに尋ねた。
「間違えて返事しちゃうかもしれないよ。返事したらどうなるの?」
「山のお化けがお嬢ちゃんを迎えに来るよ。」
「美乃のお家に来るの?」
「そうさ。あの山から降りてきて、お嬢ちゃんの家に来るんだ。」
男は、まるで何かを思い出すように言った。
「『返事したろう? 一緒に山へ行こう』ってな。」
「美乃、無視するもん。」
「相手はお化けだ。無視したって駄目さ。」
男は美乃を見つめた。
「お嬢ちゃんがどんなに嫌がっても、山へ連れていっちまう。」
「そうしたら、美乃、お化けに連れてかれる? 死んじゃうの?」
美乃の声が震えた。
「お嬢ちゃん、山のお化けにはな、一つ弱点があるんだ。」
「……弱点?」
「山のお化けには、目がないんだよ。」
男は静かに言った。
「目がないから、見えてない。」
「目が見えないの?」
「ああ。だからな……。」
男は一瞬、言葉を濁した。
「お嬢ちゃんの身代わりに、誰か一人を差し出しても……お化けには分からない。」
「美乃の、みがわり?」
「そうだ。」
「お嬢ちゃんの代わりに、お化けに連れていかれる人だ。」
美乃はしばらく黙っていた。
そして、悲しそうに男を見上げた。
「……その人、可哀想だよ。」
男の表情が止まった。
「何もしてないのに、山に連れていかれちゃうんでしょ?」
男は、ハッとしたように目を見開いた。
「……そう……そうだね。」
そして、俯いた。
「可哀想だ。」
しばらく沈黙した後、男は小さく呟いた。
「……それが、普通の反応だよな……。」
───回想終了。
「そう言って、山のお化けの話を私にしてくれたんだよ。」
美乃さんが静かに話を終えた。
俺は何も言えなかった。
心臓が、強く打った。
山のお化けは、目が、ない──?
目が見えない───?




