第二十三声
「山のお化けは、目が、ない──?」
自分でも驚くほど、小さな声が漏れた。
「そうだよ。目がないから、見えてないって……その男の人は言ってたねぇ。」
美乃さんの声が、遠くに聞こえる。
目がない。
見えていない。
その言葉だけが、頭の中に残った。
俺は、前世で目が見えなかった。
だからだろうか。
「目がない」という言葉に、妙な引っかかりを覚えた。
目がないから、返事をした者に反応するのか。
いや。
返事をした者にしか、反応できないのか──。
前世の俺と同じで、音や声でしか周囲を認識できないのだとしたら。
前世で聞いていた音や声の中に、山のモノの声があったのか?
俺が覚えている音や声。
「東堂家の長子が全盲とは」と嘆く声。
「当主は弟に」「それしかあるまい」と話している声。
毎日のように地下室へ降りてくる足音。
食事の膳を置く音。
用を足したい時や、用事がある時に鳴らす鈴の音。
時折、俺を「弥一郎様」と呼ぶ声。
そして──
「お逃げください。」
「山のアレに見つかる前に。」
そう言った、一度だけ聞いた警告のような声。
そして、一番多く聞いていたのは──
「今日は何する?」
「寒くない?」
「暑くない?」
そんな、雑多な声。
その時、初めて違和感を覚えた。
おかしい。
雑多な声の主が、父や母、弟だと言うのなら。
その声が聞こえる前に、地下室へ降りてくる足音が聞こえるはずだ。
誰かが地下へ降りてくるなら、階段を踏む音がする。
戸を開ける音がする。
衣擦れの音がする。
何かを持っているなら、それを置く音もする。
なのに。
雑多な声は──
いつも突然、聞こえていた。
「……おかしい。」
思わず呟いた。
父でもない。
母でもない。
弟でもない。
それなら、あの声は誰だった?
「朔弥、大丈夫?」
美織の声に、肩が震えた。
「え? ああ……。」
俺は顔を上げた。
美織が心配そうにこちらを見ている。
志穂も不安げな表情で俺を見ていた。
俺はもう一度、頭の中で記憶を探った。
他に。
他に聞こえた音は?
他に聞いた声は?
思い出せ。
思い出せ……。
しかし、記憶はそこで途切れていた。
「美乃さんが聞いた山のお化けは、何をしたかったんでしょうね。」
志穂がぽつりと呟いた。
「人の声を真似してまで、返事を欲しがるなんて……。」
「寂しかったんじゃないかな?」
自分でも驚くほど、その言葉は自然に口から出た。
「え?」
美織が俺を見る。
「だって、目がないんだろ?」
俺は美乃さんの話を思い返しながら言った。
「目がないなら、きっと音や声が頼りなんじゃないかな。音や声がなければ、自分がどこにいるのかも分からない。……もしかしたら、自分がそこにいることすら、確かめられないのかもしれない。」
三人の間に、沈黙が落ちた。
「だから、誰かに返事をしてもらいたかったのかもしれない。」
俺は続けた。
「誰かに声を返してもらって初めて、自分の存在を確かめられる。……そんなものだったのかもしれない。」
美織が、少し俯いた。
「………そうだとしたらさ、少し悲しいね。」
「……うん。」
俺も、そう思った。
けれど。
「でも、寂しいからって人を死なせるのはダメだろ。」
そう言った瞬間だった。
俺の脳裏に、何かが引っかかった。
──弥一郎様。
──お逃げください。
あの声。
あの女は、俺に何を伝えようとしていた?
山のモノから逃げろ、と言ったのか。
それとも──
別の何かから。
その違いが、まだ思い出せなかった。
志穂は再び美乃さんの方を向いた。
「美乃さん。その男の人は、身代わりの話をしていましたよね。その身代わりをどうやって立てるのか……そこまでは聞いていませんか?」
志穂の目は真剣だった。
「身代わりをどうやって立てるかまでは、聞いてないねぇ。私が『その人、可哀想だよ』って言っちゃったから……それ以上は話してくれなかったんだと思うよ。」
「そう……ですか。」
志穂は、がっくりと肩を落とした。
身代わりを立てる方法が分かれば、東堂家の者が二十五歳までに死ぬという現象の正体に、何か手掛かりが掴めたかもしれない。
俺は腕を組み、しばらく考えた。
「美乃さんの話からの推測だけど……その男は、奥の村の住人だったんだろう。」
「はい。」
「そして、その男自身が姿の見えない何かの声に返事をしてしまった。……その後、何らかの方法で身代わりを立てた。」
俺は、美乃さんが聞いた男の言葉を思い出した。
──身代わりの一族には謝っても許してもらえねぇ事をしてんだ、儂らは。
「そのことに強い罪悪感を抱いて、村を出てきた……そう考えると、あの男の様子も少し分かる気がする。」
「っていうかさ。」
美織が、憮然とした声を漏らした。
「そもそも、なんで声に答えちゃうの?」
「……え?」
「だって、この村には『姿が見えないものの声には答えちゃいけない』っていうルールがあるでしょ?」
美織は首を傾げた。
「そのルールを守ってれば、山のモノに狙われることもない。身代わりを立てる必要だってないんじゃないの?」
「……確かに。」
俺は黙り込んだ。
美織の言う通りだ。
山のモノには目がない。
だから、人の姿を認識できず、音や声に反応する。
ならば──
声を返さなければいい。
それだけの話ではないのか。
「……でも。」
志穂が小さく呟いた。
「村の人たちは、昔からそのルールを知っていたはずです。」
「そうだよな。」
俺は頷いた。
それなのに、身代わりという仕組みが存在していた。
ということは。
誰かが、ルールを破っている。
それも、一人や二人ではない。
そうでなければ、わざわざ「身代わりの一族」などというものが生まれるはずがない。
「……自分が身代わりを必要とすることを分かっていて、それでも声に返事をしていた?」
美織の顔から、少しずつ表情が消えていく。
「そんなこと……あるの?」
「分からない。」
俺は答えた。
「でも、もしそうだとしたら……。」
そこで言葉が止まった。
東堂家では、代々こう伝えられている。
東堂家の先祖が人々から土地や財産を奪い、多くの人間を苦しめた。
その恨みが呪いとなり、東堂家の血を引く者は二十五歳までに死ぬ。
俺たちは、それがこの村に伝わる真実だと思っていた。
けれど。
もし、それだけではなかったら?
東堂家の人間が呪われているのではなく。
東堂家の人間を利用している、別の何かがあるのだとしたら。
そして──
その仕組みを知りながら、何世代にもわたって黙っている人間たちがいるのだとしたら。
「……東堂家が呪われていることそのものより」
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
「その呪いを利用している人間が、この村にいるんじゃないか?」
誰も答えなかった。
部屋に、重い沈黙が落ちる。
山のモノ。
身代わり。
二十五歳で死ぬ東堂家の血筋。
そして、それを知っていながら何も語ろうとしない村人たち。
これまで俺は、東堂家に何か秘密があると思っていた。
だが──
違うのかもしれない。
奥の村の闇は、東堂家そのものではない。
東堂家を取り囲み、東堂家の人間すら知らない何かを守り続けている──
村人たちの側にあるのではないか。




